温もりの回数分♨️

ヒイラギ ヤヨイ

第一章

1.

朝、目が覚めたら時計は13時を指していた。


この生活を続けるうちに、昼夜逆転が不本意ながら身についてしまった。


階下から母の声が聞こえる。

「遺品整理を手伝ってほしい」 


返事はしないまま、重い体を引きずって階段を降りる。


昨日、おじいちゃんの葬式が終わったばかりだというのに、こうして次から次へと。

悲しむ暇すら与えてもらえない。


途中、ふと窓の外から風の音が耳に届いた。

そうか、もう冬なんだな――と心の中でつぶやく。


家にいる時間が増えるにつれて、外の世界はどんどん遠くなっていったような気がする。

まるで手を伸ばしても届かない場所のように。


リビングに入ると母が「おはよう」と声をかけてきた。声色はいつも通りだが、目の周りが赤くなっている。“いつも通り”を取り繕おうとしていることは一目瞭然だった。


整理を始めるとすぐに一冊のアルバムが見つかった。

おじいちゃんの遺品は埃まみれのものがほとんどだったが、不思議とこのアルバムだけは綺麗のままだった。


「懐かしいわね。あなたが生まれてから買ったものよ」

母が俺の手からアルバムを取ると、頁をめくり始めた。


小さな頃の俺がおじいちゃんの胸に抱かれて眠ってる。多分1歳か2歳くらいだろう。見覚えのない場所だけど、写真の空気感だけは少しだけ感じ取れる気がした。


頁は次々と、幼稚園、小学校と進んでいく。


心臓が高鳴るのを感じた。息が苦しくなってくる。「もういいだろう」そう口にして立ち去ろうとした時だった。


アルバムの最後の頁に差し掛かり、開いた瞬間、何かがひらひらと落ちてきた。


反射的に拾おうと身を屈めた時、否応なしにそれが目に入る。


アルバムの最後の写真は桜の前で、制服姿の俺とおじいちゃんが並んでいる写真だった。





2.

入学式の日のことは、今でも覚えている。

制服の袖を何度も直して、桜の木の前で写真を撮った。おじいちゃんと2人で。


初日は緊張しながら教室に入った。

あの時はちゃんとやっていけると思ってたんだ。友達も作って、部活にも入るんだって、根拠のない自信すらあった。


けれど、半年も経たないうちに、学校に行けなくなった。


何か特別な理由があったわけじゃないと思うが、もう思い出せない。

「明日は行こう」

「来週こそは」

自分に何度も言い聞かせた言葉だ。でも、結果はいつも同じだった。


そのまま学年が上がり2年生になった。担任が変わっても、クラスが変わっても、俺の生活だけは変わらなかった。

時間だけが、ただただ過ぎて行く。


…もういいや。

全てにおいてやる気が起きない。自分の人生について考えることすら。


嫌なことを思い出してしまったな。

さっさと拾って上に戻ろう。


改めて腰を落とし、拾い上げてみると、それは近所の温泉の回数券だった。残りは3回分。


「ああ、そういえば……」

おじいちゃんが温泉好きだったことを思い出す。

よく俺に温泉について話してくれたっけ。

俺が学校の事で悩んでいた時も、一切を否定する事なく、ただ黙って話を聞いてくれていた。

「つらいなら休めばいい」「ちゃんと食べて、風呂入って、寝てりゃなんとかなる」って。


おじいちゃん、俺あなたに支えられていたんだ。


……そう思った時、急に胸が詰まるような感覚に襲われた。


気づけば、手が少し震えている。

視界がぼやけて、思わず顔を背けた。


なんだこれ。

全然泣くような気分じゃなかったのに。

というか、泣くほど悲しいなんて、自分では思ってなかったのに。


おじいちゃん、もういないんだ。

あの声も、背中も、匂いも、もう、この世界には存在しないんだ。





3.

外に出ると、昼の光がまぶしかった。

太陽は高く、雲ひとつない空がどこまでも広がっている。

窓から見ていたはずの街並みは、実際に歩くと違ってみえた。


あの回数券を見つけた時、温泉に行こうと思った。


おじいちゃんが、生前、よく行っていた温泉。

どんな場所だったのか、どんなふうに過ごしていたのか知りたくなったのだ。


人の気配は、ほとんどない。

あえて昼の時間を選んで外に出たのは、誰にも会いたくなかったからだ。

ただ、歩いているだけなのに、どこかで誰かに見られているような気がして、背中が少しだけこわばる。


やめればよかっただろうか、今からでも引き返そうか、そんな言葉が頭をよぎるがあえて耳を傾けなかった。


角を曲がると、見覚えのある木製の看板が目に入る。

【源泉かけ流し ひととき温泉】

少しだけ色あせた文字。でも、どこか懐かしい気配がした。


引き戸に手をかけ足を踏み入れると、空気が変わる。

木を基調とした建築に温かみを感じた。


受付にいた年配の女性が、こちらに気づいて声をかけてくる。

「いらっしゃい。お一人?」


「……はい」

声が思ったより小さくなってしまったが、女性はそれに気づいても何も言わず、手招きをする。

回数券を手渡すと、にこりと笑って回数券を受け取り一枚もぎった。その後に、タオルと入浴札を手渡してくれた。


「……はい」

そう言って頭を下げる。

「ありがとうございます」と言い忘れたことに気づいたが、そのまま脱衣所へと向かった。


誰もいないことを確かめてから、服を脱ぐ。

タオルを手に取りながら、鏡に映った自分の姿をちらりと見て、すぐに目を逸らした。

鏡を見るのは嫌いだ。自分が醜く見えるから。


ガラガラと引き戸を開けると、湯けむりの向こうには浴場が広がっていた。

中央に長方形の湯船がひとつ、周囲には洗い場がいくつか並んでいる。

シンプルで、飾り気のない造り。

けれどどこか、心が落ち着いた。


足を進めかけて、ふと立ち止まる。


――そうだ、初めは体を洗うんだったな。


周りを見渡し、できるだけ隅の席を選ぶ。

誰もいないのに、なぜか背中に視線を感じるような気がして、そわそわと落ち着かない。


イスに腰かけて、シャワーのレバーをひねる。

水の音が鳴り響き、体に跳ねる。思ったより冷たくて、肩をすくめた。


シャンプーを手に取って、頭を洗う。

流し残しがないか何度も確認する。

体も、同じように丁寧に。普段なら気にも留めないような場所までしっかりと。


――みんなで入るお湯だからな。


湯船に入る前から、必要以上に神経をとがらせている自分に気づく。

でも、それを止めることもできなかった。


ようやくすべてを洗い終えて、シャワーを止めた。


掛け湯をしてから、そっと湯船に足を入れる。


「熱っ」


思わず声が漏れた。

けれど、その熱さはすぐに心地よさへと変わる。

湯がつま先からふくらはぎ、膝へと浸かっていくたび、じわじわと体の芯にあたたかさが染み込んでいく。


ゆっくりと肩まで浸かると、思わず息が漏れた。


「ああ……」と、声にならないため息。


――気持ちいい。


手足の先まで血が巡っていくような感覚。

何もしていないのに、全身がほどけていく。

今までずっと縮こまっていたものが、ふっと解放されるような、そんなぬくもりだった。


肩まで湯に沈めたまま、しばらく目を閉じる。


何も考えず、ただ湯の流れる音と静けさに包まれていく。


こんなふうに「気持ちいい」と思ったのは、いつぶりだろう。


ふと、心の中でつぶやいた。


「ここが、おじいちゃんが好きだった場所なんだな。」


賑やかな場所でも、誰かの機嫌をとって話す必要がある場所でもない。

ただ、黙って湯に浸かっているだけの空間。

何かから逃げたいときでも、何も考えたくないときでも、ここならそれを許してくれそうな、そんな雰囲気。


あの人は、この場所で、どんなふうに時間を過ごしていたんだろう。


「風呂はな、心まであったまるんだよ」


おじいちゃんの声が、湯けむりの中から聞こえたような気がした。


まだ、すぐにはわからないけど……

少しだけ、その言葉の意味が、胸の奥でわかるような気がした。


湯の中で、もう一度、大きく息を吐いた。

その吐息は湯気に溶けて、静かに空へと昇っていった。




どれだけ浸かっただろう。

体はすっかり温まってしまった。静かに湯船から立ち上がる。

足元がふらりとするのを手すりで支えながら、壁際にあるガラス戸に目を向けた。「露天風呂入口」と書かれた札がぶら下がっている。


――露天風呂、か。


行くつもりなんてなかった。

けど、せっかくここまで来たんだ。

おじいちゃんも、あっちに浸かってたのかもしれない。

そう思うと、一歩一歩が軽くなった。


戸を開けると、冷たい外気が肌に触れた。

昼の光はまだ高く、空はどこまでも澄み切っている。

風が吹いて、まわりの木々がさらさらと鳴った。


露天風呂は岩で囲まれていて、湯気の向こうに湯面が揺れている。


そっと湯に足を入れる。

内湯より、少しだけぬるい。けれどそのぶん、長く浸かっていられそうな温度だった。


肩まで沈めて、空を見上げた。

遠くで、カラスがひと声鳴く。

雲ひとつない青。木の枝がかすかに揺れる。


――こんなに空は広かったんだな。


ただ湯に浸かっているだけなのに、世界の繋がりを五感で感じ、そしてその全てが自分に静かに寄り添ってくれている気がした。


――温泉って、いいところだな。


体の芯からあたたまって、風呂に入るまで感じていた強張りはとっくのとうにほどけていた。

何かを頑張ったわけじゃない。

誰かと話したわけでもない。

けれど、確かに少しだけ、気持ちが軽くなっている。


湯から上がると、少し冷たい風が肌を撫でた。

けれど、それも心地よく感じられた。


脱衣所に戻ってバスタオルで体を拭きながら、ふと自分の顔を鏡で見た。

ほんの少し、顔色がよくなっている気がした。


着替えを終え、脱衣所の扉を開けると、ほんのりと木の香りがした。

温泉の建物全体が、何となくやさしい空気でできているような気がした。


――また来ても、いいかもしれない。


そう思った自分に、少し驚いた。

でもその気持ちは、どこか自然なものとして胸に残った。


「ありがとうございます。またのお越しをお待ちしております」


受付の女性の声に、足が止まった。

思わず口を開いた。

「……ありがとうございました」


お風呂に入っただけなのに、ありがとうは変なのかもしれない、それでもそう伝えたかった。


玄関を出ると、冬の光がまだ町を照らしていた。

外の空気はひんやりしていたけれど、心はまだ、あたたかいままだった。

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