ね・ちゅう・しよう

谷村ともえ

第1話 キスがしたい

 急に意識が戻ったかと思うと、授業は既に終わりを迎えて自分以外は起立していた。

 立たなきゃ。自分も立ち上がろうとするが、股間に違和感を覚えて躊躇する。

 ガタンと膝が机にぶつかった。


「どうした山下?体調悪いのか?」

「いや、そのっ、ちょっと立ち眩みしちゃって.....」

「そうかぁ、無理しなくていいぞ」


 慌てながら適当な言い訳を並べて僕は前かがみになりながら起立した。手にじんわり汗をかいている。早く収まってくれと脳内で何度もおばあちゃんの顔を思い出す。苦しんでいる僕をよそに、日直が終礼の挨拶を終えた。

 これで放課後になった。ホームルームは担任が休みで今日は無い。僕は勃起を収めて荷物を持ち、一人で廊下に出た。


 去年とは違う窓の景色、違う校舎。改めて今年から二年生になったんだと実感する。高校生活もあと半分になってしまった。未だ夢やなりたいものは無い。

 かといってこのまま大学に行くのは嫌だ。母の様に働くのも嫌だ。どうすればいいか分からない。そんな不安を抱きながら、東校舎の屋上に向かった。

 東校舎は古くて教室も全部物置か何かしらの実習室になっているため、そんなに人は来ない。それに加えて、屋上の扉をあける鍵が壊れて南京錠と留め具で簡単に閉められている。

 そんなのを不良生徒が見逃すはずもなく、誰かが合いかぎを作って密かにバラまいているらしい。

 暗い階段を上り、冷たいステンレスのドアを開けると、大量の桜の花びらが僕を襲った。


「わっぷ!?」

「うはははは!お前も喰らったか!」


 聞き慣れた声、峯原みねはら先輩だ。三年一組、進学クラスの落ちこぼれ。僕と同じ冴えない人間。勉強も運動もなんにも取り柄が無い、同じタイプの人間。

 だけれど、一緒にいて楽しかった。漫画の趣味も合うし、持ってるゲームも一緒。    勉強しかないこの学校で、先輩に巡り合えたのが去年の夏だった。


 夏休み前の期末テスト、僕は初めて赤点を取った。しかも三教科。先生に静かに怒られ、家に帰ったら親にも小言を言われるのが嫌になり、この世に絶望したような顔で帰ろうとしていた。昇降口で靴を履き替えていると、


「なんだお前、大丈夫か?」


 峯原先輩は、校内なのに堂々とヤンマガとコーラを抱えて僕に話しかけてくれた。コンビニからの帰りだったらしい。その日、初めて僕は家に帰らず夜にラーメンを食べて先輩の家に泊めてもらった。

 そうしてこれが青春だと思って、毎日ここに来るようになった。先に来ていた先輩は、いつものパイプ椅子に座って漫画を読んでいる。


「今週のヤンマガ読んだか?」

「読みましたよぉ。彼岸島よかったっすね」

「甘いねぇ山下。君は本当に甘い、本来見るべきところを見落としているよ」

「はぁ」

「グラビアの子だよ。めっちゃくちゃよくないか?”可愛いの先へ”っていう見出しもいいわ」


 童顔の純粋そうな女の子が、縞模様のビキニを着ていた。

 僕はこの人のこういうところが好きだ。どこまでも正直で、汚くて、優しいところが。僕が女の子だったら確実に惚れているかもしれない。

 しかし、いつもより声に覇気が無い。それに冗談も少ない。どこか強がっていて笑顔も無理して作っているようだった。


「ところで山下くんよ。俺もなぁ、今年で卒業するわけですよ」

 急に敬語になって静かな口調になる先輩。

「俺なんか進学クラスで、芋臭くて不細工で不器用なもんだから彼女なんて二年ちょっとで全くできなかった....」

 少し冷たい春風が僕らの間を通り抜けていく。この人に一体何があったんだろう。ソフトクリームをドブに落としてもこんなにテンションが低い事なんて無かったのに。

 何がこの人を動かしたんだろう。


「だから.....唯一の後輩であるお前にだけは、もっと青春を送って欲しいんだ!」

「.....何かあったんですか?」

「昨日さ、好きな子が駅で知らない男と手を繋いでいたんだ」


 声を震わせてそう言った。目が潤んで、鼻水がチラリと垂れてきた。この人にも好きな人とかいるんだと、失礼なことを思ってしまった。先輩も思春期真っ盛りの男の子だもんな、いるに決まっている


「お前は好きな人とかいないのか?」

「好きとか....ちょっとまだ良く分かんないです」

「そんなの衝動だ!その人と目が合った瞬間、頭ン中で音がするんだよ」

「音ですか?」

「そう!ピキーンと来ると言うか、キューンとくると言うか何というか....」


 僕には好きな人はいない。クラスには可愛い子はいるけれど、恋愛感情を抱くほどでもない。誰かを好きになるとか、そういう話の前に他人に興味がないんだと思う。

 それに、自分が傷つくことが怖い。女の子も傷つけてしまったらどうしよう。今の僕にとって、恋は恐怖でしか無い。愛と言うのも知らない。だから先輩の様に優しく真っすぐになれない。

 ましてやキスなんて、何百年かかっても無理だ。


「とにかくっ!キスして高校卒業しろぉ!ついでに、いい子いたら俺に紹介してくれ!」


 そんな下らない会話をしているうちに空は藍色に染まり、下校時間を知らせるチャイムが鳴る。僕らは屋上を後にして、駅へ向かった。陽が沈むと肌寒くなり、ポケットに手を突っ込みながら僕らは歩いた。

 同じく駅へ向かう女子の生足を見て先輩が、

「やっぱり女子って足にヒーターでも仕込んでるんじゃねーのかな?」

「ガンダムのドムみたいにですか?」

「熱核ジェットだろそれ。ホバー移動する女子高生なんて嫌だぜ俺」


 駅前のコンビニが見えてきた。寒いしホットココアでも買って行こう。恐らく先輩も何か暖かい物を買うだろう。ついでにから揚げでも奢ってもらおうかな。


「あっ」


  あんぐりと口を開けたまま先輩が足を止めた。

 コンビニの前にうちの女子生徒が立っていた、知らない男の人と。制服を見て近くの高校の生徒だとわかった。そして、一言二言交わした後、キスをした。

 唇が触れるだけの、簡単で優しいそうなキスだった。


 魂が抜けた先輩は膝から崩れ落ちた。その横で、僕はひとり胸を熱くしていた。言葉にできない暖かさがそこにあるような、きっと僕はそれの為に生まれてきたんだと叫びたくなるような、理解できない衝動が僕を襲った。

 思わず小さく口からこぼれる。


「僕もしたい」


 キスがしたい。

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