さいごまで、きっちりと

やきなおし

第1話

「最後まできっちりと」。

私の親代わりを務める男が、真言のように繰り返し言い聞かせた言葉だ。



ゴミ溜めのようにずっと曇ったままのこの町で、虫けらのような私が生きるための選択肢は少なかった。

親もいないし、まともな教育も受けていない。

日が当たる場所で生きることはショーケースに飾られたシルク仕立てのドレスのようで、穢れを知らぬ生き方は、特権を持つ人間の嗜好品だった。


「ひぎっ」


路地裏で私ににじり寄ってきた男の顔が衝撃に固まる。間抜けな顔が白目を剥いた。

火を吹いたのは拾い物の拳銃。小柄だが殺傷力は充分で、私のような幼いガキには似つかわしくないリーサル・ウェポン。

だからこそ、ここぞの一瞬では無防備な相手に騙し討ちを成立させてくれる。


騙し、すかし、脅し、演じ、誘い、崩す。

非力な私の手段は多くなかったからこそ、手管は自然と絞られていった。

鼠のように取るに足らない自分のちっぽけさが他人の目にどう映るか。そんな自分がどう動けば、どう囀れば、どんな表情を見せれば他者の感情をくすぐれるか。

騙し討ちという生きるための一本道を前に、私はどう歩くかを狡猾に考え抜いて、その思考の報酬のようにその日の命が手に入った。




「……消音器サイレンサーつきの銃声。なにかと思えば、あまり気持ちの良くない場面ですね」

そんな私の前に現れたのが、トドオカだった。




この無秩序な街における不可侵領域。警察もギャングも手も出せない、手を出してはいけないとされる街の有名人。

彼をその立場に押し込む要因はいくつもあった。


ひとりの個人としての枠を逸脱した凶悪なまでの戦闘能力。状況と背景に応じて正義にも悪にも翻る立場の流動性。なによりも、一度はじまったものごとを終えるまであらゆる困難や妨害を乗り越えて進む狂気的な執着。

それらがさまざまな畏敬を呼び、彼はこの異常な街にあってなお、異物として際立っていた。

いざ、その怪物と対面したとき、私を襲うのはもはや事実めいた死の予感。自身の生が閉じることに対する、追認のような諦観。


「あ、あ……あ」


終わった。反り立つ崖を眼前にしたときのような、恐怖を超越した終焉の確信があった。


だって、このひと。

まったく、揺らいでいない。

人間であるならば、生じるはずの運動に伴う息切れや動悸。あるいは眼前の事象に対する悲喜こもごもの反応。

なんだっていい。どんな波長であれ、どんな感情であれ、生きている以上なかば生理的に起こるはずの動揺。


それが、目の前の男からは一切感じられなかった。何を思ってこの路地裏に来たのか、ここに至って何を思っているのか。主目的が自分なのか、何かのはずみに見つけただけなのか。

表情や反応からはそれを探る手掛かりすら伺い知れない。言葉を投げかけても、怒りも、戸惑いも、嗜虐心も、どれひとつの片鱗さえ、その貌には見当たらない。



無機質な鉄心に臨した私に、できることなど一つもなかった。



「……」

自身の息が荒くなるのを感じる。鉄でできたような怪物に、自分のすべてが通用しない眼前の生きたがらんどうに、厳然たる絶望が掻き立てられる。

「あ、あの、」

声が絞り出されるように喉から出た。採算も思惑も載っていない半ば鳴き声のような、無意味に等しい猶予を乞うためのあがきの言葉。



こつ。

トドオカの靴が乾いたにじり寄りの音を立てた。

「!ごッ、ごめんなさ、た、や、ちょッ」

こつ。もう一音。

自分の脳が突き上げられるような動揺が走る。

「……」



「……最後まで」



「は?」

素っ頓狂な声が出て、慌てて二の句を継がせまいと自分の口を塞いだ。


さいごまで。

発された言葉の意味も意図も分からず、フリーズしそうになる脳内を必死で走らせる。

なにか、なにか糸口を。


「…………最後まで、きっちりとやりなさい」子どもを諭すように、トドオカはもう一度言い放った。今度ははっきりと聞こえた言葉が、もう肌寒い路地裏の空気をつんざくように響く。


「きょとんとしていないで。そこの男です。まだ息がある、放っておいても朝までもたないでしょうがね」

眼下に遣った彼の視線を追うと、さきほど返り討ちにした男が転がったままかすかに痙攣していた。言葉通りまだ生きているのがわかる。


「それでも、あなたが締めなさい」

「あなたが一度触れた命だ。終わらせるのが道理で、義務でしょう」


「な、にを」

道理、道理ときたか。みちすじの話をするなら人殺しなんてそもそもが許されないし、今回の場面を挙げるなら正当防衛だか何だかが適用される話だろう。

こんな街に道理なんて説くために使っていい酸素の余裕はない。そんな綺麗な言葉や理屈を受け入れる余白はここにはないのに。



「手を掛けたなら、あなたの手で結末を仕立てなさい。最後まで、きっちりと」

────言い放つ姿がなぜだか、神託のように荘厳だった。



そうして目の前の幼子に殺人教唆を堂々とやってのけた男は、そのクソガキの親代わりになった。

とある袋小路で、死んでいくはずだった私の話。それは続いていくことになる。

────真言に従い、最後まで。









「……これ、トドオカの家?」

「トドオカさんと呼びなさい。……あなたは手がかかりそうだ。これまでの誰よりも」


手を引かれた私が辿り着いたのは、なんの変哲もないただの民家だった。

汚職議員もマフィアも手を出せないかの男の棲家にしては、凡庸すぎてちょっと怖かった。

呆気に取られていると、目の前のドアがぎい、と開けられる。


「夜も遅い。静かに入りなさい。まず、これがあなたに教えるひとつめの事柄になる」

「教える……」

「そう。これからあなたに生きていくための基本的な知識を教えます。普通に生きてみたいでしょう、あなたも」

「……」


「今日は汗を流してもう寝ましょう。動揺も大きいでしょうが、明日ゆっくりと話します。シャワーの入り方はわかりますか?」

「……シャワーって、あのシャワー?」

「…………仕方ないことか。ついてきなさい。着替えは余裕があったはず……」


トドオカ……さんは、どうやら私のような子どもを拾っては面倒を見ているようだった。

無数の寝息が聞こえる広間を通り過ぎ、連れられるまま彼の寝室へ。


「あなたの分の用品も早急に準備しますが、今は寝具がありません。取り急ぎ、私のベッドを使いなさい」


潜り込む、あったかな布の海。

知識でもってわかることと、身を以てわかることとはやっぱり違っていて。人間というのは柔らかな場所に身を委ねてもいいのだと、私は安堵とともに思い知る。


「トドオカ、さんは、どこで寝るの」

「……どうとでもなります。疲れた、では済まないでしょう?早く寝た方がいい」


「……あの」

「…………まあ、いいでしょう。それも、仕方がないことだ」


誰かと一緒に寝る幸せも、私はその夜、身をもって知った。





翌朝は、トドオカさんの家に同居する子どもたちへの面通しから始まった。

同じような境遇を抱えているからか無口な子も多かったが、何人かは私に衒いなく話しかけてくれる。

そのまま他愛のない話をするけれど、話す内容の半分以上はよくわからなかった。


「カトラリーには見覚えがあって何よりです。スプーンの使い方は……ああ、そう。握り方はいずれでいい。好きなだけ食べなさい」


食事を行う大きなテーブルの上には、皿に入った、ミルク浸しの穀物のようなものが配されていた。

しりある、っていうんだよ。

話しかけてくれた子が教えてくれる。こぼさないように食べるのが難しいが、手掴み以外での食事なんて記憶になかった。

とにかく美味しかった。簡素な味でも、この世の何より甘く感じたのを覚えている。


ナイフやフォークを使う料理は、1ヶ月ほど経ってから出されるようになった。

鋭利なものを見ると凶器に思える。割とそういう子は多かった。フレンチトーストを食べる頃には、みんなと路上生活でありがちなエピソードを話せる程度に打ち解けることができた。


「あなたと同年代の人間は、この国の標準でいえばすでに4年間の教育を受けています。一日6時間、年に150日ほどでしょうか」

「……ええと、じゃあ、時計が何回まわる?」


3ヶ月ほど経ったころ、みんなの『勉強』の時間に混ぜてもらえるようになった。

知らないことをわかるようにする。悪いことじゃないだろう。

そう判断していたから、みんなが浮かない顔をしている理由がよくわからなかった。



「……取っ掛かりはあるようでなにより。必要なことだ。慣れてもらえると助かりますよ」



時計が8回まわるころには、理由がわかった。

これが毎日続くのだ。そりゃあ、しんどかった。

勉強が終わったらご飯を食べて、交代制でお風呂に入る。お風呂を出た後はたまにケーキを食べて、それから泥のように眠った。


そんな日々が、目まぐるしく一瞬で過ぎていく。

あっという間に数年が経つころには、みんな一角の人間になっていって、トドオカさんの家を巣立っていった。勉強が好きだったあの子は学者になって外国に行ったし、身体を動かすのが得意なあの子はアスリートになった。



「────トドオカさん。私、残るからね」

とうとう私ひとりになった時、ちゃんと私は宣言しておいた。



その時の怪訝な表情といったらなかった。

初めて出会った時の鉄面皮からは想像もできないほどの人間らしさ。


「あの子たちと私は違うよ。私は人を殺してる。トドオカさんから普通を教えてもらったけど、まともな生き方もこれからきっとできるけど」

「それもただじゃありませんよ。相当苦心しました。労力をフイにしないでくれますか」


吐き捨てるような言葉には人工物じみた露悪が滲んでいて、私は口角が上がるのを自覚した。

あの時は微動だにしなかったこの男を、今私は確実に揺さぶっている。


「でも、まともな生き方は私には座りが悪い。騙せば、脅せば、殺せば簡単だって染み付いてるから、きっとその手段を使わないで生きるのは無理だと思う」

「だから、トドオカさん────私の面倒を一生見てよ。ほら、いつもみたいに」


トドメにはにかみながら、魔法の呪文を唱える。

「最後まで、きっちりと。ですか……はあ」




そうして私は、彼のもとで暮らし続けている。

それから、10年が経った。




「いつも言っているでしょう。一度開けた缶詰は使い切りなさい。食料もただじゃないんです」


うんざりしたようにトドオカさんが言って、続くように鉄容器がカンカンと音を立てた。

へとへとになって帰ってきた同居人を迎え入れる第一声がこれで、眉を顰めたいのはこちらの方だ。


「別にまだ食えるじゃん」

「知ってるでしょう。ものごとが終わっていないのは座りが悪いんです。何事もカタがついていないとどうにも我慢ならない」


最後まできっちりと、でしょ?と溜息混じりに決まり文句を当てながら、荷物を置いて座り込まずに動き出した。たぶんこのままだと、居心地の良さに負けてしまう。


「また彼らの『様子見』ですか。これほどしつこいなら、私が手を打ちますが」

「トドオカさんが出たら根絶やしにするまで帰ってこないでしょ。ほどほども時には必要なの」


まあ、それはそうかと他人事じみて呟く締まりのない姿を横目に再び家を出る。こんな他愛のない暮らしが手に入るなんて思ってもみなかった。家を出る時はいつも噛み締めてしまう。


……他人事みたいなのは、私もだった。







どたん、と音を立てて古いドアが壊れる。


目を剥いたチンピラに照準。躊躇いなくもう片方の手に握っていた拳銃で足を撃ち抜く。

もんどりを打って転げ回る男の横を通り過ぎながら胴を二発撃ち抜いた。

こんなふうに、私はトドオカさんのやり方をなぞりながら何処ぞから請けた血腥い依頼をこなしている。


今回はドラッグの取引を主な生業とする半グレ集団の『抜き打ちテスト』。

目を離すとすぐ増長するので、時折こうやって芽を摘んでおく必要があった。拳銃の扱いや鉄火場も慣れたもので、ガラの悪いクズに遅れをとることも今では考えられない。



「こんばんは、社長。会うたび耄碌していくね」



ずかずかと立ち入った建物の深部では、ボロ錆びたビルに似つかわしく無い綺麗な部屋が誂えられている。仕立てのいいソファに腰掛けた男はタバコに火をつけながらこちらを見やった。とっくに見飽きた顔である。

側から見ればセミリタイアを迎えた実業家のようなこの男が、長くこの街に根を張る悪意の梁山泊。私が踏み荒らしている組織の棟梁だった。


「てめえは見るたび化け物じみていきやがる。トドオカの野郎は息災か?近頃は顔すら出さなくなったなア。薄情モンが」

「あの人を引っ張り出したいなら目利きか躾をどうにかしなよ。野良犬未満のボンクラしか入ってないんじゃないの、ここんところ」

「どこぞの綺麗好きが伸びた側から狩るおかげで土壌もなにもあったモンじゃねえよ。ウチに相応しくねェ粗忽者を間引いて貰えるのは助かるが」

食えないジジイだ。

悟られぬよう僅かに歯噛みすると、しわがれた男の眼がわずかに吊り上がる。



「────なァ糞餓鬼。あの狂人に、いつまでくっついてるつもりだ?」

「ありゃア駄目だぜ。世捨て人とすら呼べねえ、伽藍堂の機械そのものだ。付き合って得はひとつもねえ、あれの合理は前提から破綻してる。俺やてめえとは『理』が違うんだからな」


挑発、だと思った。

場面や文脈を考慮しない論いにまず感情が反応し、かろうじて追いついた思考がすんでのところでそう判断した。

トドオカさんをよく知らない人はそう思う。きっとみんなそう思っている。感情の無い鉄面皮。触れたら火傷では済まない爆薬庫。

それ自体は特に否定するつもりもないし、それだけの材料も用意できないだろう。


「伽藍堂の機械がオムレツを焦がすの?社長の時代ももう昔でしょ。上手い命乞いの仕方くらい覚えなよ、そろそろ」


それでも、殺していいんじゃないか、こいつ。

依頼かどうかは関係ない。実行の有無はともかく、侮りを含んだ態度を捨て置くメリットは皆無だ。トドオカさんと一緒にいる時にしか見えないもの。それを嘲笑する権利のない人間にそうさせるのは、許せなかった。


「……へえ、マジか。てめえ、本気か?」

「ほら、練習不足だからヘタクソじゃん」

「いや、てっきり承知の上でやってるんだとばかり思ってたよ。いやいや、そうか。ククッ」


思わせぶりな態度が、さらに神経に障った。

どこかで欠片でも、興味を掻き立てられる自分にも余計に。

この老獪な男が、まさかこんな安い引き出ししか持ち合わせていないとは思えなかった。その洞察が、頭を占めかけた激情に歯止めをかける。それが、致命的だった。


「何が言いたいのかわかんない。わかるように言ってくれないと、バケモンに殺されるよ」

「強がるなよ、おめでたい女だなァ。トドオカに尻尾振ってる今は良くても、その先に何があるのか考えたことはあるかよ」


何かと思えば陳腐な中身だ。

彼は私を助けてくれた。私を人間にしたのは他の誰でもなくて彼だったから、私は彼の生き方を真似ている。その結果だけが価値あるもので、私はこうすることでその価値を尊んでいる。

価値あるものを紡ぐことで自他になにかを産めるなら、その行いのどこに間違いがあるのか。


「いやァ、別にあれはあれでいいだろうさ。怪獣が街を歩いて悪いことなんかねえよ」

「身の丈にあった生き方をして自己実現をしたら、大なり小なりなにかを犠牲にする。そうやって人様の領分を踏み荒らすのはお互い様だ、俺らみたいな稼業なら尚更な」

「そりゃそうだね。アンタらが言えた義理じゃないってとこが、特に共感できるよ」

「望む望まざるにかかわらず、他者と繋がるのが人間だ。トドオカがおまえを拾ったようにな。けどな、奴が人間じみてねえのは、ってとこさ」


────誰も、いない。


なにか、嵌った気がする。

数学の途中式を書いているとき、根拠もなく正答だと確信を得るように。辿り着きたくない答えが、与えられてしまった。


「究極の自己完結というべきかな。強く、誰にも従わずどこにも属さず、請われれば白にも黒にもなるのがアレだ」

「アレの世界に、なにかが入り込む余地はない。他者と自分が触れることに意義を見出していない……というより、自分の理に誰もついてこれないことを理解してンだよ。だから来るものを拒まず、去るものを追わない」


打ち込まれたハーケンを頼りに、私の中で理屈がひとつの絵を描いていく。

投げかけられる言葉ひとつひとつが、そのイメージを補強して止まらない。


「なァ、わかってないのはてめえだけだぜ。自己満足が完結済の隔絶されたあの怪獣は、とっくにてめえを世界から見限ってる。いや、入れやしないとわかってるんだ」

「なのに引き離されもしないのは、アレの中の理がたまたま噛み合った結果に過ぎねえ。隣で自分になろうとしているバカガキを、決してなれやしないとわかりながら捨て置くのは、人間のやることじゃねえ」


心拍数が上がっていく。

引き金ひとつですぐに殺せる。でも、体が震えて動かない。きっと、この老人の声を止めても、もう解決は止まらないとわかっているのだ。


「となると解法は、もうてめえがどうにかアレを真似きって継いでやることしかねえが……」




「────なァ?てめえ、なれるか?アレに」

「いや、いやいやいやいやァ。無理だな。。最初からな」




ぱんっ。

殺した、と気づいたのは、行為が終わってから。この部屋からは私以外誰もいなくなった。

この隔絶が、トドオカさんの世界だ。

この部屋を出たら誰かがいる。その人間が私のなかに入ってくることはないけれど、この部屋を出たら私はきっとあの家に帰る。

そこには私の世界があって、そこにはトドオカさんが私を待っている。

けれど、トドオカさんにとってあの家は、この静かな部屋となんら変わらないのだ。




────次に覚えているのは、いつもの家の戸の前だった。いい匂いがする。

このまま入ってシャワーを浴びて、そうしたら食卓にはミートソースかなにかが並んでいるはずだ。私の親代わりの料理は美味くて、きっと他愛のない会話をしながら眠れるに決まっているのだ。

そしてなにもないまま明日が来て、変わらない暮らしが続いていく。私が答えを得ても変わらないのは、トドオカさんにとって私がどういう存在なのか、最初から決まっていたから。


最初から私たちは、詰んでいた。



「ただいま」

「おかえりなさい」


シャワーを浴びてから居間に向かうと、鶏のソテーが卓上に並んでいた。手を合わせると、示し合わせるでもなくいただきますのあいさつが揃う。


「美味い」

「なにより。怪我はないようですね」

「いつもより派手にやったけど、別に。なんたってトドオカの弟子だよ、私」

「弟子にとった覚えはありませんがね」


「……じゃあ、なんで止めなかったの?」

「トドオカさんなら、たぶんもっと無理にでも、この仕事やらせないようにできたでしょ」

「あなたが、選択したことだからです。私が自分の意思で選んだことを、私が歪めるのは違うと思った」


澱みなく、カトラリーが陶器に触れる音だけが響きつづける。


「子どもに人殺しさせるのは、よかったの?」

「良くは、ないですね。絶対に」

「けれど、私はそれを咎められる立場にない。自分の決めた生き方を貫くなら、それは何をおいても優先されるべきだ」


トドオカさんはニュースへの評論を述べるように淡々と話しながら、切り分けたソテーを口に運ぶ。


「決めさせたかったってこと、私に」

「矛盾じみた表現だ。決めるのは常にあなた。私は、悩むために必要な時間と足場と視点を設けたかったんです。望んで地獄に落ちるなら、罰されるのもあなただ」

「最初から地獄にいた私を、助けたって無意味だったんじゃないの」

「それを言うなら、生きるために払うコストなんてすべてが無意味だ。堂々巡りだったとしても、振り出しに戻るまでに何かしらの景色を見る。それを美しいと思う以外に、生きる意味は無い」


付け合わせの野菜を頬張りながら、トドオカさんは惜しげもなく哲学を開陳した。


「私の場合は、最後までやりきること。やりたいと思うことに手をつけたら、終わらせるんです」

「なんで?」

「……なぜ、とは」

「────なんで、最後までやり切りたいの?」



ご馳走様が揃わなかった。



ひと足先に食べ終えたトドオカさんは、そのまま考え込むように沈黙する。

私は答えを待ちながら、口許のソースを舐め取る。

カトラリーを置いて、一息をつく。

マスタード仕立ての味が、まろやかながら刺激的で、まるで今日までの日々のようだった。



「……最後まで、やりきることを」

「やり始めてしまったから、ですね。この自己満足も、いつか終わるまでやり抜かなければ」

「そっか」





ぱんっ。





「………………あ、」



私の手から、拳銃がぽとりと落ちる。

紫煙のにおいが居間を満たす。

つんざくような音の残滓が、鼓膜から剥がれて遠ざかっていく。


「………………」



。撃ち抜かれた私の手から、血がどくどくと流れていく。




「これ、わかるんだ……バレてるとか、全然、思わなかった」

「意味は、わかりません。銃がアクティブなことまでです」

ずきずきと傷む傷は、それでも致命傷にはなり得ない。痛いけれど、これじゃ目的が果たせない。

「じゃあ、意味も、わかってないよね」

「ええ、全く。予想と反応だけです。すぐに手当を」

「はは、本当にわかってないなあ」




空き手で落ちてる銃を握り直した。

これで仕切り直しだ。とはいっても、さっきとは状況が違っている。

よーいドンの勝負に持ち込まれて、こっちはハンデを背負っているのだ。それでも、大事だった。

まだやるのだと、意思を示さなければ。





「…………ほら、撃った相手のこと、どうするんだっけ。トドオカさん」

魔法の呪文を唱える。

相対した男の顔が歪む。




「………………なぜ」



「言わないよ。トドオカさんには絶対わかんない。ここにあるのは、トドオカさんがやるべきことだけだよ」

「無理に手当をすることだってできる。それで終わりです」

「らしくないよトドオカさん。生き残る限り同じことをすることくらい、予想つくじゃん」


そこから、長い沈黙が垂れ流された。

私の手首を手で押さえながら、トドオカさんは止めようのない血をただ漫然と止めようとしている。

トドオカさんだって、いや、トドオカさんは最初から、わかっていたはずなのだ。

こんなふうに終わっていた実態を、あの路地裏の時から知っていた。



この10年も、きっとその前の10年も、あるいはこれからありえる先の10年も。

トドオカさんは、何ひとつ変わり得ない。

だから、出会った時の路地裏と同じように。

あるいは、ここに残ると決めたあの時みたいに。



ほら、いつものように。

「……言い残すことは、ありますか」




「……ソテー、美味しかったよ。ご馳走様」

それ以上に、言うことはなかった。

何も言わないで隔絶することが、私たちの本質だから。




────脳天に一発。

出会った時に、ともすれば辿るはずだった末路が、10年越しに私を撃ち抜いた。

終わりだ。私の世界が、閉じていく。




閉じていくそこに、トドオカさんが居続ける。それがあの夜の、ベッドの中みたいに、幸せだった。










物語は終わった。

トドオカという男が、死体を片付けている。




なぜ。



トドオカの頭には、疑問がこびりついていた。

澱みなく作業の手を進め、明日のスケジュールに想いを馳せながら、トドオカは考え続ける。

手を洗って、手酌に貯めた水をそのまま顔に浴びせた。鏡に映る肖像に、彼はぽつりと問いかける。




「なぜ、あの子は自決しようとしたんだろう」




自分自身と目を合わせながら、いつまでも返ってこない答えをしばし待っていた。

沈黙が続くが、やがて男は歯ブラシを手に取って、しゃかしゃかと口腔を磨き始める。





「なぜ、私を殺さなかったのだろう」





誰もいないベッドに横たわりながら、男はもう一度呟いた。

答えはずっとある。すべてが提示されている。

男は路地裏で少女を救った。その醜態が許せなくて、ただただ手を差し伸べた。

それからずっと手を取り続けた。始めたことを捨て置くわけにいかなかった。

闇から抜け出せなかったあの子を、そのままそうしておいた。そこにいることを選んだあの子を尊重した。無理に引き摺り出して、身綺麗であることを強いたくはなかった。




「なぜ」




ずっと、男にはこうなることがわかっていた。

これから先、何も変わらない。男の家から、一人の人間が消えただけ。

この街では珍しくもない事柄だから、きっと取り沙汰されずに消えていく。トドオカは、これからも、自身の合理に従って生きていくだろう。




ゆえに男の生涯が閉じるまで、その疑問はずっと心の中にあり続けた。


彼の世界には、とある女のかけた呪いがこびりつき続けている。

男が望んだ通り、女が望んだ通り。



女の世界に刻まれた真言の通りに、ずっと。

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さいごまで、きっちりと やきなおし @aranoo

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