第29話 Luftpause(ルフトパウゼ)ーデタッチング・ブレス

ホールから一歩外へ出ると、そこにはもう、私たちの特別な時間など、どこにも流れてはいなかった。


すっかり日も落ちて、冷たい秋の夜風が、私たちの汗ばみ火照った肌を撫でていく。

人々が足早に家路へと急ぐ、ありふれた駅前の雑踏。

車のヘッドライトの光の川。遠くで鳴り響くサイレンの音。

世界は、私たちがあのステージの上でたった今成し遂げてしまったことの重大さなど何も知らないかのように、ただいつも通りに続いていた。


私たちは、まるで夢から覚めたばかりの子供たちのように、どこかぼんやりとした足取りで帰りの電車に乗り込んだ。


がらがらに空いた平日の夜の電車。

私たちは車両の一番端のロングシートに、まるで身を寄せ合うようにして固まって座った。

誰も何も喋らなかった。喋るだけの気力がもう残っていなかったのだ。

あのステージの上で、私たちは自分たちの持てるすべての感情を、エネルギーを、そして魂を出し尽くしてしまっていた。


ガタン、ゴトン。

電車の規則正しい揺れが、疲労困憊した私たちの身体を揺らす。

私は窓ガラスに自分の顔を映して見ていた。

ひどい顔だった。

目は落ち窪み、唇は乾いてカサカサになっている。首筋には汗が乾いて白い筋を描いていた。

ガラスの向こう側――私のその疲れ果てた顔の、さらに向こう側に、街の明かりがまるで天の川のように流れていく。

一つ一つはただのありふれた家の窓の光。オフィスの蛍光灯の光。車のテールランプの光。

その無数の光のどれ一つとして、私たちの勝利を祝ってはくれなかった。


残響酔い(ざんきょうよい)。

その静かな波が寄せては返していた。

それはもう熱狂の名残ではなかった。

あのホールに満ちていた浅葱色の静謐な光、その記憶が私の内側でまだ淡く明滅している。

心がどこまでも広がってしまったまま元の大きさに戻れないでいるような感覚。

隣に座る詩織さんのかすかな呼吸のリズムさえも、肌に染み込んで自分のもののように感じられる。

その繋がりはひどく心地よく、そして同時にひどく物悲しかった。

もうすぐこの特別な魔法も解けてしまう。

私たちはまた一人一人の、別々の人間に戻っていかなければならないのだ。


ふと視線を上げると、通路を挟んだ向かいの席に座る真帆先輩と梢先輩の姿が目に入った。

二人は何も話してはいなかった。ただぼんやりと窓の外を眺めているだけ。

だがその二人の間には、もうあの練習室で感じたような痛々しい断絶はなかった。

不意に電車が大きく揺れた。

その瞬間、梢先輩の頭がこくりと揺れて隣に座る真帆先輩の肩にこつんと当たった。

梢先輩ははっとしたように顔を上げて謝ろうとする。

だが真帆先輩はそれを制するように静かに首を横に振った。そして何も言わずに、ただ自分の肩を、梢先輩のために差し出してあげていた。

梢先輩は一瞬ためらった後、まるで安心しきった子供のように、もう一度その肩に頭を預けて目を閉じた。

規約でも理論でもない。

ただそこには、不器用だけど確かな二人の関係が、静かに存在していた。


私は隣に座る詩織さんの方を見た。

彼女は窓の外を眺めていた。そのガラスに映る横顔は、ひどく穏やかだった。


「……星みたいですね」

彼女がぽつりと呟いた。流れていく街の明かりを見つめながら。


「うん……」

私は頷いた。

「……一つ一つは全然違う光なのにね。あんなにたくさん集まると、綺麗に見える」


それはまるで今の私たちのことのようだった。

一人一人は不完全で弱くて違う光を放っている。

だがそんな私たちが集まった時、あのステージの上でほんの数分間だけ奇跡のような星座を描き出すことができたのだ。


「……だから、いいんです」

詩織さんが静かに言った。

「……きっと」


その言葉と、今私の隣に詩織さんがいる、そのことの意味を、私はただ噛みしめていた。

やがて電車が減速し始める。私たちの最寄駅が近づいてきた合図だった。

私は目を閉じた。そして一人、静かに最後のデタッチング・ブレスを始めた。


すう、と息を吸う。

肺に満ちるのは電車の中の少し淀んだ空気。

そしてゆっくりと息を吐く。

その息と共に、私の中に残っていた最後の浅葱色の光が、詩織さんとの繋がりも、皆との共鳴の記憶も、すべてが私の外へと流れ出していく。

心が、自分の身体という器の中に完全に収まっていく。

寂しい、と思った。そして同時にほっとした。

私はようやく、ただの高坂千佳に戻るのだ。


ホームに降り立つ。解散の時間が来た。

綾先輩が私たちを集めて言った。その声はもう指揮者の声ではなかった。ただの、二十二歳の少し疲れた女性の声だった。


「今日は……本当にお疲れ様。明日は部活は休み。ゆっくり休みなさい」

彼女はそこで一度言葉を切った。そして少しだけためらうように続けた。

「うん……音楽のことは、全部忘れて」


その言葉。

それは彼女なりの最大限の優しさなのだと私にはわかった。

音楽から離れなさい。日常に戻りなさい。

そうでなければ、あなたたちの心はいつか擦り切れて壊れてしまうから。

彼女は最後に私と詩織さんを見た。

「……あなたたちも、よ」

その短い言葉に、すべての想いが込められているように感じた。


一人、夜道を歩く。

見慣れた住宅街。

コンビニの明るすぎる光。

どこかの家から漏れてくる夕食の匂い。

すべてがひどく懐かしく、そして愛おしく感じられた。

あのホールでの出来事が、まるで遠い夢の中の出来事だったかのように。


私はポケットに手を入れた。

指先にあの黒いアイマスクの柔らかな感触が触れた。

夢ではなかった。

私たちは確かにあそこにいたのだ。


家の明かりが見えてくる。

私は立ち止まると、一度だけ空を見上げた。

星は一つも見えなかった。ただ黒い夜空が広がっているだけ。

私はそのありふれた夜空の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

そしてゆっくりと吐き出した。

完全に一人になった私だけの呼吸。

明日からまた何が始まるのか、私にはまだわからなかった。

だが今は、ただこの静かな夜に身を委ねていたかった。

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