第26話 Aria(アリア)ー私の選択、私の歌
私の世界から色が消えた。
アイマスクの柔らかで冷たい闇が、私の視界を完全に覆い尽くしている。
もう、狂ったように明滅する蜜色と緋色の警告灯は見えない。熱狂に浮かされた観客たちの顔も見えない。指揮台の上で過去の悪夢に囚われている綾先輩の絶望の表情も、もう私を苛むことはない。
そこにあったのは、ただ音と気配だけの世界。
そしてその静かな闇の中で、私は初めてはっきりと聴いた。
――私たち自身の、本当の呼吸の音を。
すー、はー。
すー、はー。
それはもう、恐怖に浅くなった喘ぎではなかった。
私が息を吐く。隣で詩織さんがその息を受け取る。
その詩織さんの吸う息を、今度は真帆先輩が感じて吐く。
その連鎖。まるで穏やかな波が次々と岸辺に打ち寄せては返していくように。
私たち二十数名分の呼吸が、一つの巨大で静かな生命のリズムを刻み始めていた。
そうだ。これだ。
これこそが、叔父さんが最期にたどり着いた答え。
Σの禁断のメロディが生み出す感情の奔流。
それに抗うのではない。ダムを築いて無理やりせき止めるのでもない。
ただ受け入れるのだ。
そして、その激しい流れの中で、自分自身の小さな舟を、自らの意志の櫂(かい)で漕いでいくのだ。
私は歌い始めた。
それはもう、楽譜に書かれた音符をなぞるだけの歌ではなかった。
この闇の中で研ぎ澄まされた私の魂の羅針盤が指し示す、ただ一つの航路。
私の声は、熱狂の嵐の中心に生まれた凪だった。
Affectionを否定する声ではない。
その甘く危険な感情を優しく抱きしめながら、しかし決してその支配だけは許さない――そんな強い意志の声。
私のその、たった一本の声の糸を見つけて、詩織さんのアルトがそっと絡みついてくる。
私たちの小さなデュエットの光を目指して、梢先輩のメゾが、凛さんの理知的なハミングが、そして真帆先輩の、すべてを包み込むような温かい響きが――
一人、また一人と、私たちのその静かな反撃の輪の中に加わってくるのがわかった。
私たちはもう指揮者を見ていなかった。
楽譜も見ていない。IDSの数値も知らない。
ただ互いの呼吸のリズムと声の響きだけを頼りに、私たちは巨大な一つの生き物になって、この音楽の嵐の中を泳いでいた。
壁のランプが今どんな色に輝いているのか、私には見えなかった。
だが肌で感じていた。
ホールの空気を満たしていた、あのねっとりとした危険な熱が、すうっとその温度を下げていくのを。
暴力的なまでの熱狂が、もっと穏やかで、もっと理知的な深い感動へと、その質を変容させていくのを。
私たちの歌はクライマックスへと向かっていく。
叔父さんが遺したあのカノンの旋律。
そして私たちが見つけ出した、その答え。
――手離し。
闇の中で、私はゆっくりと右手を上げた。
何の目印もない。
ただ隣にいる詩織さんの気配と呼吸だけを頼りに、私の手は彼女の手へと引き寄せられていく。
感じた。彼女の指先の微かな熱。
触れてはいない。
だが、その数ミリの隙間に、私たちのすべての信頼が凝縮されている。
触れたい。一つになりたい。あなたが欲しい。あなたにあげたい。
そのAffectionの、もっとも純粋な衝動の頂点で――
私は、選んだ。
最後のフレーズを歌い終える。
そして、私たち二十数名分の呼吸が完全に一つになったまま、私たち一人ひとりの声が、ホール全体を満たす完璧な静寂の中で――
私はそっと息を吐いた。
その息と共に。
私は、私の意志で、その手を静かに下ろした。
――解放(リリース)。
それは、たった数秒の出来事。
だが、私にとっては永遠にも感じられた。
私の選択。私の歌。
その答えが、すべてその静かな所作の中に込められていた。
まだ曲は終わってはいない。
エピローグとなる数小節のコーダが残っている。
だが、私はわかっていた。
戦いは終わったのだ、と。
この静かな闇の中で、私たちは誰の助けも借りずに、私たち自身の力だけで、自由を勝ち取ったのだ、と。
私はアイマスクの下で、ほんの少しだけ微笑んでいた。
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