第24話 Adagio amoroso(アダージョ・アモローゾ)ー第二楽章:誘惑
第一楽章が終わった後の、あのホールを満たした深く青い静寂。
それはまるで嵐の前の凪のような時間だった。私たちの誰もが、これから訪れる本当の試練を肌で感じて息を潜めていた。
指揮台の上で綾先輩が、ゆっくりと腕を上げる。
その動きは先ほどよりも明らかに硬かった。彼女の全身から極度の緊張がひりひりと伝わってくる。彼女は知っているのだ。これから始まるメロディがどれほど甘美で、そして危険なものであるかを。――それは彼女の親友を闇へと引きずり込んだ、あのΣの旋律の記憶そのものなのだから。
第二楽章が始まった。
それは、まるで禁断の果実を口にしたかのような、甘く官能的なアルトのソロから始まった。詩織さんの声だ。だが、それは私が今まで聴いてきたどの彼女の声とも違っていた。深く温かいだけではない。その響きには、聴く者の心を抗いがたく惹きつけてやまない、一種の魔力が宿っていた。
その誘惑の旋律に呼応するように、壁のランプが色を変え始めた。
それまでの澄み切った青色に、まるで一滴の蜂蜜を落としたかのように、温かくそして少し危険な蜜色の光がふわりと灯り始めた。
Affection。私たちの歌が、ついにその禁断の領域へと足を踏み入れた瞬間だった。
詩織さんのソロに、私のソプラノがそっと寄り添っていく。
それは第一楽章の、あの安定した「循環」とはまったく違う呼吸。
互いの声を求め合い、そしてすれ違う。近づいては離れていく。まるで二匹の蝶が互いを誘い合うように舞い踊っているかのようだ。
IDSのAff値がぐんぐん上昇していくのが、譜面台のサブディスプレイに表示される。
30……45……58……。
蜜月相。軽い接触が心地よく感じられる、あの危うい領域。
ホールの空気が明らかに変わった。
観客たちが、私たちのその甘いデュエットに魅了されていくのがわかる。その熱を帯びた視線がステージの上の私たちに突き刺さる。そしてその熱が、私たちの感情をさらに煽る。
綾先輩が警戒していた悪循環。
「――千佳」
不意に、囁くように、しかし鋼のように鋭い声が耳に届いた。
「来るわよ。――『逆循環終止』」
その言葉と同時だった。
曲が、そのもっとも危険なパートへと差し掛かった。
和音が解決することを拒む。メロディが安住の地を見つけられないまま宙を彷徨う。
それは聴く者の心に強烈な渇望を植え付ける悪魔の響き――聖アガタが使うと噂されていた、あの禁断の技術。
まずい。
ホールの低周波共振が、この不安定な和音に共鳴を始めた。
床から不快な振動が伝わってくる。観客たちの興奮が臨界点に近づいている。
私たちのAff値が、危険水域へと突入しようとしていた。
65……68……70。
サイレンが鳴り響く、あの悪夢の閾値。
指揮台の上で、綾先輩の顔が蒼白になっていくのが見えた。
彼女の脳裏にはきっと、あの日の光景が蘇っているのだろう。越境し、心を壊してしまった親友の姿が。
指揮棒を握る手が震えている。その震えがテンポを、ほんのわずかに狂わせた。
――遅れた。
ほんのコンマ数秒。
だが、その致命的な「遅れ」が、私たちの制御を奪った。
逆循環終止の不安定な響きが、必要以上に引き延ばされてしまう。
それは、まるで燃え盛る炎に油を注ぐようなものだった。
Aff値が爆発的に跳ね上がった。
72……75……78……!
その時、私は見てしまった。
綾先輩の震える指揮棒の先端が、ほんの一瞬だけ――
彼女がもっとも忌み嫌っていたはずの、あの禁断のテクニック、
すなわち「逆循環をさらに一拍遅らせる」という指示を描きそうになるのを。
それは彼女の心の奥底に眠っていた欲望だったのかもしれない。
Σの力を使えば勝てる。あのライバルたちを超えられる。
安全を追い求める彼女のもう一つの顔――勝利への渇望。
その黒い誘惑に、彼女自身が呑み込まれそうになっていたのだ。
ダメだ。綾先輩が壊れてしまう。
このままでは、私たちも、あの日の沙月さんのように……!
その絶望的な瞬間。
私は隣に立つ詩織さんと目が合った。
彼女は青ざめてはいたが、その瞳はまだ死んではいなかった。
彼女は私に向かって、かすかに、しかし確かに頷いてみせた。
――今です、先輩。
そうだ。叔父さんが残してくれた最後のピース。
私たちの本当の歌を歌うのは――今、この時だ。
私は、綾先輩の呪縛された指揮を見るのをやめた。
自らの意志で歌い始める。
それは楽譜にはない、私たちの本当の第二楽章。
蜜色の誘惑、その嵐の中心で、私たちはたった二人で静かな反撃を開始しようとしていた。
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