第2話
カリナ・ステラリアの婚約が正式に公表されるという日、ステラリア家の屋敷は夜明け前から慌ただしい空気に包まれていた。侍女長はいつも以上に鋭い口調で、廊下を行き交う下働きや侍女たちに次々と指示を与えていく。カリナがまだ子どもの頃に観たお祭りの準備さながらに、人々は浮足立ち、そして妙に余裕のない表情で飾り付けや式典の確認を繰り返していた。寝台の上でまどろみを断ち切られたカリナは、半ば夢うつつのまま侍女の一人に起こされ、部屋の窓際に腰掛けて重々しくため息をつく。
「お嬢様、本日は大切な日です。どうぞ、身だしなみを整えに参りましょう」
侍女の優しい声に、カリナはぼんやりと頷く。
“大切な日”――そう呼ばれて当然のはずだ。婚約発表は華やかで喜ばしい行事として、昔から貴族社会で重んじられてきたし、ステラリア家にとっては家の威厳を取り戻す千載一遇の機会だろう。けれど、当のカリナの胸中はどこまでも冷え切っている。部屋に差し込む淡い陽光すら、今日はどこか遠く薄暗く感じるほどだった。
支度部屋には既に仕立て職人や侍女たちが待ち構えており、カリナを見るなり挨拶もそこそこに「さっそく衣装を合わせましょう」と押し寄せてくる。父がわざわざ取り寄せたという純白のドレスは金の糸と真珠で豪華に飾り立てられており、見るからに高価だとわかる。うっとりとため息をつく侍女長に対し、カリナはやはり微笑みを返すことができなかった。鏡の前に立ち、侍女たちが手際よくドレスを着せていく間も、彼女の心は虚ろなままである。
(まるで自分が人形にでもなったみたい)
そう感じる瞬間は、子どもの頃から何度もあった。けれど今ほどそれが強く、鋭く突き刺さることはなかった。豪華なドレスに包まれるほど、本来ならば感じるはずの幸せやときめきが、そのまま剥がれ落ちていくように思える。一方で、整った衣装を纏った自分を見て、周囲の人々はきっと「なんて美しい伯爵令嬢なんだろう」と称賛するに違いない――分かっているからこそ、かすかに苛立ちにも似た感情が湧き上がるのだ。
先に準備を終え、庭先で待つように言い渡されたカリナは、石造りのアーチを抜けてテラスへと出た。初夏の柔らかな風が淡い金髪を撫でていくが、その心地よさもすぐにどこかへ消え失せる。庭園には、美しく手入れされたバラや季節の花々が咲き誇り、数羽の小鳥がさえずっていた。だが、これほど見事な光景も、カリナの目には輝きを失ったものでしかない。
「本日は素晴らしい日和ですね、お嬢様。花々もきっとおめでとうと祝福しているのでしょう」
近づいてきた侍女が、心からの賛辞を口にする。カリナも少しだけ微笑みを返そうとしたが、頬が強張るばかりで上手く笑えない。「ありがとう」と言うのがやっとだった。
やがて、ステラリア家の執事が大広間へと案内を告げに来た。いよいよ公式に婚約の報せを発表し、ゲストたちを迎える時間が近いのだろう。エントランスホールに足を運ぶと、そこには既に数多くの招待客が集まり始めていた。どの顔にも「伯爵家とヴェイル公爵家の結びつきは一大イベントだ」という期待感が浮かんでいるように見える。貴族や名士の衣装はきらびやかで、どれもこれも眩しすぎる。カリナに対しては、あちこちから「おめでとうございます」「本当に素敵ですわ」といった言葉が投げかけられ、彼女はそのたびに会釈しながら作り笑いを浮かべる。自分の胸の奥に広がる暗い淵を隠すための、仮面の笑顔にすぎないとは誰も思わないのだろう。
そして、華やかな人混みの中、彼女の“婚約者”となるエドリック・ヴェイルの姿を見つけた。黒いタキシードを纏い、髪はきっちりと撫でつけられ、その立ち居振る舞いは隙のないほど洗練されている。整った顔立ちをもった青年貴族――確かに人目を引く存在であろう。だがその眼差しはどこか冷たく、近寄りがたい雰囲気を放っていた。自分の許婚を見つめるカリナに気づいたのか、彼は一瞬、視線を投げかける。だが、その瞳には言いようのない淡白さが漂い、まるでカリナを通り越して背景を見ているかのような印象を受ける。
「ヴェイル公爵家のエドリック・ヴェイル様が到着されました。これより婚約発表の席へと移られます」
案内役の声が響き渡り、大広間の入り口付近にいた人々が一斉にカリナとエドリックに注目した。明るいシャンデリアの光が、室内を眩しく照らしている。貴族たちは皆、期待に満ちた面持ちで二人を見つめるが、カリナの胸はほんのりと痛むばかりだった。この人たちは表面のきらびやかさが全てであり、“どのような思いで婚約に至ったのか”なんて考えもしないのだろう――そんな苛立ちすら湧いてくる。
婚約発表そのものは、あっけないほどに滞りなく進んだ。執事や司会役の合図に従って壇上に上がったカリナとエドリックは、互いにエスコートし合うかたちで身を寄せ合う。背後には、早くも二人の婚姻を祝うかのように生花やリボンが飾られており、あちこちから拍手が巻き起こる。それに応えるようにステラリア伯爵である父が口を開き、重々しい声で宣言を始めた。
「ご列席の皆様、本日はお忙しい中お集まりいただき、誠にありがとうございます。わが家の長女、カリナ・ステラリアと、ヴェイル公爵家のエドリック・ヴェイル様との間に、婚約を結ぶ運びとなりましたことを、ここに正式にお知らせいたします」
その言葉に続くのは、さらなる拍手喝采。これまでに何度か晩餐会や舞踏会で感じてきた賑やかさとは、まるで次元が違う。まさに“華やかさ”の極みといった様相だった。かつてこうした喧騒に巻き込まれると、カリナは少なからず楽しさを感じたはずなのに、今日はその逆。まるで厚い絨毯の上を歩きながら、足がどこかに沈み込んでしまうような不安定さだけが募っていく。
「では、エドリック・ヴェイル様からも、一言いただけますでしょうか」
司会役がエドリックにマイクを渡すと、彼は微かに口元を歪めてから、事務的とも言えるほど簡潔な挨拶を述べた。
「本日はお忙しい中、お集まりいただきありがとうございます。ステラリア家との結びつきを嬉しく思うと同時に、今後は両家がより一層発展していくよう、微力ながら努めてまいります」
その言葉を受け、再び割れんばかりの拍手が大広間を包み込む。客人たちは感嘆のため息を漏らし、祝福の言葉や乾杯の準備に沸き立っている。しかし、カリナはその場にいるにもかかわらず、まるで一人だけ違う世界を見ているかのようだった。エドリックの言う“発展”は政治的な意味合いだ。そこに“愛”も“気持ち”も感じられないどころか、まるでビジネスの成功を誓うような響きすら感じる。それでもそれこそが、貴族同士の政略結婚というものかもしれない、と冷めた思いが脳裏をよぎった。
こうして公式の発表が済むと、あとはそれを称えるための宴が始まった。長テーブルには高級食材をふんだんに使った料理が並べられ、金色のカトラリーや繊細なガラスの器が見る者の目を楽しませる。音楽隊が奏でる優美な調べに合わせて、客人たちはそれぞれ歓談に花を咲かせている。
“婚約は幸せの第一歩”――誰もがそう信じ、そう振る舞い、そう口にする。けれど、カリナの心にあるのは底知れぬ虚無感だ。自分の身に降りかかっている出来事のはずなのに、まるで大河ドラマのワンシーンを遠巻きに見ているような気持ちになる。何より、自分が中心にいるはずなのに、誰一人として彼女の本当の思いを尋ねてはくれない。いや、そもそもそんなものが必要とされないのだろう。これはあくまで、家同士が示し合う「契約」であり、そこに個人の望みなど入り込む余地はない。
時折、客人の一人や別の令嬢らが近寄ってきて、「カリナ様、おめでとうございます」と声をかけてくる。カリナはできるだけ穏やかな笑みを返し、「ありがとうございます」と答えた。相手が満足そうに立ち去っていくのを見送るたびに、まるで心の奥から何かが削り取られていくような気分になる。数時間前までは、「少しでも明るく振る舞おう」と努力すればなんとかなるかもしれないと思っていたが、それすらも限界に近づいていた。
そんな中、さりげなく視線をめぐらせた先に、真紅のドレスを纏った女性の姿を見とめる。妖艶なその佇まいから漂うのは、誇らしさと揺るぎない自信。彼女はさほど大きな声で話してはいないものの、エドリックに寄り添うような位置で談笑を交わしている。ちらりとカリナの方へ目を向けると、その眼差しには見下すような色があった。“愛人”――そんな噂をカリナも耳にしていたが、その姿は噂以上に親密さを感じさせる。人目も憚らない様子が、カリナの心に鈍い痛みを与えた。
(やはりこの結婚で、私が必要とされているのは“家”との縁だけ――)
思わずテーブルの端で拳を握り締めるが、周囲の目がある以上、何もできない。むしろ「婚約者の傍に馴染みの女性がいるからといって、何を嫉妬する必要があるのか」という声が聞こえてきそうだ。この関係が“公然の秘密”として許容されるのもまた、貴族社会の偽りの平穏なのだろう。ここがカリナの居場所になるなど、到底考えられない。けれど、この状況を変えるだけの力を、今の彼女は持っていなかった。
――こうして、絢爛豪華な宴の裏で、カリナの婚約発表は冷たい嘲笑にも似た祝福に包まれて幕を閉じる。部屋に戻った彼女を待ち受けていたのは、着慣れないドレスをほどいたあとの疲労感と、どこまでも沈んでいくような思いだった。スカートの裾を足元で乱雑に広げながら、ふと机の上のスケッチブックに手を伸ばす。しかし、震える指先が筆を握ることはなく、ただページの表紙を撫でるに留まる。
(私の夢は、このまま閉じ込められて終わってしまうのだろうか……)
カリナはそう自問し、結局答えは出せないままベッドに腰掛けた。今日という日は、伯爵令嬢としては“最高の出来事”のはずなのに、彼女にとっては“最悪”に近い日でもあった。誰もが微笑んで称賛する“白い結婚”の入り口が、こんなにも冷たく、重苦しいものだとは思いもしなかったのだ。けれど、この先どれほど長い苦悩が待ち受けているのか、当のカリナはまだ知る由もない。ただ、一片の淡い火種のような、わずかな反抗心を胸の底に秘めることで、かろうじて自分を保っていた。
――それがまだ、小さな光さえ感じられない闇の奥底での、最初の抵抗でもあった。
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