大正恋物語〜奉公先の主人に恋しました
@Haruoi
第1話
目前で広がる光景に、小柄な少女………秋山佳乃はよろめいた。
紅をさした艶やかな着物。黒く整った艶やかなスーツ。趣のある建物がひしあい、糖を含む甘い香りが佳乃の鼻をくすぐる。
大正十二年、東京府、浅草。
言葉とロマンスが渦巻く時代。
そんな場所に、割烹着姿の、あどけない少女は立っていた。
(こんな場所……。やっぱり私には場違いだったみたいね。)
後悔する佳乃の脳裏に、一つの記憶が浮かび上がった。
それは、つい先週のことだった。
「佳乃。お前には、新しい仕事をしてもらうことになる。」
もったりした雲が垂れかかる、憂鬱な春の午後だった。
白髪混じりの口髭を垂らした、威厳溢れる父……権三郎は佳乃の目を覗き込んだ。
佳乃の家、秋山家は、由緒正しい、武蔵国の士族の家だった。
江戸時代は名を馳せたはずが、明治になり、四民平等が叫ばれるようになって、秋山家は没落の道を辿ることになる。
一昔前は地面に大きな柱を構え、女中や下男で溢れていた家も、今では瓦が剥がれ落ち、木枯らしが巻き上げる、寂れた家になっていた。
女中や下男の影もない。佳乃の両親と幼い弟妹たちだけの、小さな一軒家である。
貧しい一家を支えようと、佳乃は高等小学校を出てすぐに、働いて家族を支えていた。
「お父上、それは一体どうゆうことでしょうか?私は、まだ、仕立て屋の仕事があるのですが……。」
困惑する佳乃を、父は有無を言わさず言いつける。
「それはやめてもらおう。事実、辞職届は出している。」
「ええ!?」
思わぬ父の言葉に、佳乃は驚嘆し、そして胸の内に、沸々と怒りが湧いてきた。
父は、いつもそうだ。いつも彼のせいで、人生を変えられた。私の人生は、父の人生。
やっと掴んだ職場。苦しいけれど、やりがいもあって、友達もできて。
このまま続けようと、そう思っていたのに……。
握った拳は妙に生温かった。首の後ろに汗をかく。言いたい言葉も、喉元で縛り付けられ、出てこない。
受け入れられない佳乃を脇に、父は淡々と話を続ける。
「知り合いの家の女中が倒れたそうだ。代わりに人はいないし、お前の娘はどうかと話が上ってな。
浅草にあるそうなんだが、明日から頼めるか。
私としても、外せない人なんだ。仕事の重要な相手で……。」
父の言葉は、耳から耳へと、抜けていく。力が湧かない。
頼めるか、と言いつつも、私に断る権限はないのだ。その人がどんなに嫌な人でも、きっと私はやめられない。
意思もなく、気がついたら佳乃は頷いていた。流れのまま、わずかな荷物を包んで、古ぼけた汽車に乗って。
差し込み、揺れる街並みも。今の彼女にはくすんで見えた。
*
街道を廻ると、林木が立ち並ぶ、薄暗い荒野に出た。
あたりに人影一つなく、肘の付け根ほどある草が、わさわさと佳乃を覆う。
彼女が握るメモ用紙は、木立の影で黒ずみを落としていた。
(本当に、ここが雇い主の家……?)
ため息混じりに佳乃は思った。もうとっくに人里は過ぎており、音一つない。
いたずら、かしら。
木立を見回す。ここがどこかわからない。足跡も見えない。まるで自分だけ、違う世界に来てしまったよう。
不安と、怒りが心のうちで交差した。乱暴に草が足に絡みつく。粘りついた針は、赤みだけを残して引いていく。
みんな、して……。
私は頑張っていたつもりよ、精一杯。
女学校も我慢して、ただ、家族のために働いて。
それなのに。
なんでこんな目に合わなくてはいけないの?
紙に、ポタリ、と水滴が落ちた。紙はよれて手に沈む。のしかかるのは、涙の重みだった。
ダメ、泣いてはだめ……。
タガが緩んだのか、佳乃の涙は止まらない。我慢することもできない。知らない相手に女奉公するのも嫌。
近所の、女学生の姿が浮かんだ。りんご色の大きなリボンをつけて、藤色の艶やかな袴を纏って。
友達と話し合う。時には恋もしたりする。そんな、当たり前の生活。
みんなの当たり前の生活が、私の心を締め付ける。微かに、私を蝕んでいく。
貧乏貧乏貧乏。我慢我慢我慢。
それで、いくつの感情を、私は失ってしまったのか。
仕立て屋の人たちは、年も近く、優しくて……。私はありのままでいられる、唯一の呼吸どころだった。
それを、もみくちゃにされて、こんな荒野に放り出されて。
「もう、嫌っ!」
佳乃が叫んだ時だった。彼女の肩に、冷たく細い手が触れた。
「え……?」
振り返ると、そこには………
薄い木綿袴を流し着る、凛とした男性の姿があった。
目は切れ長で、細く白い手足は、この世のものとは思えぬ妖絶さがある。髪は短く切り込まれ、根元で薄く跳ねており、
それでいて瞳の奥には、茶目っ気のある輝きがあった。
美しい--------。
佳乃は咽び泣くのを忘れ、彼の瞳を見つめた。
「なぜ泣いている?」
視線に応えるかのように、凛とした声が放たれる。風の音すら読むそれは、まるで狛犬のようだ。
「……どうした?なぜ泣いているか聞いている。」
そんなこと、言えない。会ったばかりの男の人に。
佳乃が俯いていると、男はため息混じりに空を仰いだ。
「あな、たは……?」
言葉を溢す佳乃に、男は返す。
「
困る男の出る名前に、心当たりがあった。
しかも、女中がこない……。
もしかして。
「あの、その女中の名前というのは……?」
「ん?たしか……秋山と言ったか。15、6くらいの小娘という話だが……。
って、なんでお前がそんなこと聞くんだ?」
不思議そうに顔を顰める男の顔を、凝視する。
雇い主は、この男。揶揄っていたのではなくて……。
「秋山?秋山と申しましたか!」
食いつく佳乃に、男は引き下がる。
「な、なんだ!急にっ……!」
「私です!私、秋山佳乃と申します!ようやく辿り着けた……。あなたが旦那様だったのでございますね!」
急に平伏する佳乃。
あまりの急変ぶりに、男は目を丸くする。
「は……?僕が頼んでいた女中は、君だったのかい……?」
「ええ、そうです。ほら!ここのメモにも、私の新しい職場だと書かれています。」
突き出したメモ用紙は、よれて、くすんでいる。
それでも男は文句一つ言わずに、ただ感嘆している。
「ほお……。」
「な、なんですか……。」
「確かに、言わずもがなここは君の職場だな。……歩けるか?」
突然男に腕を掴まれ、佳乃は困惑。
厳格な家で育ち、早いうちから女の職場で働いたためか、佳乃は父以外の男と接触したことはなかった。
ましてや、腕を捕まるなんて。
反射的に顔を赤らめてしまう。手汗が伝うのを感じながら、佳乃はいささかぶっきらぼうに、男の腕を振り払った。
「だ、大丈夫です!足はどこも悪くないのでっ!」
震える声でいう佳乃が可笑しかったか、男は声をあげて笑った。
男にしては高い声だ。それでいて、透き通っている。
草木に男の声がなびかれ、土が立てていくのがわかった。
「君……なに恥じらってるんだ、こんなことで。大丈夫か?これから僕と君は一緒に暮らすんだぞ。あくまで主人と従人だが。」
「別に恥じらってなどおりません。ただあなたと私は初対面な上、このようなことで
殿方ともお会いしたことがございませんうえ、佳乃は口の中でつぶやき、土気を払って起き上がった。
それにしても、なんと背が高いのだろう。
佳乃の父もそれなりに長身だったが、この男はそれ以上。5尺7寸(175cm)はあるように見受けられる。
小柄な佳乃にとって、彼の顔はあまりに遠い。整った目鼻立ちは、雲の中に夢を見ている気分になる。
佳乃がぼんやりしていると、男はすかさず前に出て、案内を始める。
「ここは実は僕の敷地なんだ。って言っても叔父から譲り受けたもので、私一人では手入れが行き届いていない。
だから君はただの荒野だと勘違いしたのだろう。」
すまなかったね、と謝る凪。
その顔は、海の静けさのような、儚い美しさがあった。
その優しい顔で謝られると、どうも胸がこそばゆい。
「ところでお屋敷は……?」
「ああ、もう少しで着くよ。……ほら。」
突然凪は右の方を指差す。
そこは……精巧な木で作られた、趣のある寝殿造り。
周りに草一つない。木の香りと音だけが届く、落ち着きのある空間。
青空のかけらがさして、夏らしい、なんとも素敵な館だ。
「わあ………。」
「気に入ったか?佳乃。」
ほくそ笑む凪。どうやら、彼もこの屋敷がご自慢らしい。
「ええ、とても……。こんな素敵なお家で働かせていただけるなんて……。」
少女らしく素直に喜ぶ佳乃を、愛おしげに眺めて、凪は鍵を開けた。
「さ、どうぞあがっておくれ。」
「はい……って、あれ…?」
思わず佳乃は立ち尽くしてしまう。
次に出たのは素っ頓狂な声。
だって家は……外装とは想像もできないくらい、散らかっていて、汚れた古屋敷だったから。
紙はあちらこちらに床にへばりつき、本の山が何箇所も連なっている。
ここで地震でも起きたら、きっととんでもないことになるだろう。
思わず肩を落とす。期待してただけに、裏切られた苦痛は予想以上に大きかった。
「嘘………。」
「どうしたんだ、佳乃。何か不満か?」
全くもって気づいていないのか、麻痺しているのか、平然と凪は声をかける。
肩を震わせて、佳乃はつぶやいた。
「凪様……。あなた、どれくらい掃除していないのですか………?」
「え〜?う〜ん、覚えていないな。来た時からしていない。多分五年くらいかな!」
爽やかさに、怒りはよく映える。
佳乃は、立場をわかっていながらも、怒号を上げずにはいられなかった。
「凪様っ!なぜこんなにまで放っておいたのですか!?」
「は……え?まあ面倒だったから……。」
「凪様。家事は確かに面倒くさいです。しかし!!凪様のそれは、代償が大きすぎます!!」
「そう……なのか?」
全く自覚がないみたいだ。
怒る気も失せて、佳乃はため息をつく。
先が……思いやられる。
思えば、この屋敷、人の気配がない。
この具合では、大方雇われる前に断られたか、そもそも誰も雇う気がなかったのだろう。
気を落としても、仕方がない。
素早く靴を揃えて、佳乃は颯爽と掃除を始める。
「凪様……。私が掃除します。ここ一帯を。よろしいですか?」
「えっ……だめだだめだ。全部必要なものなんだ!」
これだけのものを人間は必要にできるのだろうか。それに必要という割には、紙は傷んでいるが。
少し佳乃は白けた。息と共に、凪を諭す。
「大丈夫です。捨てはしません。わかるように整頓いたしますから、ね?このままだと、使いたい時も困るでしょう?」
子供に言うような柔和な口振。成人男性が少女に子供のように諭されているのは、どこかおかしい。
優しく述べる佳乃に安堵したか、渋々、凪は片付けを承諾した。
「わかった。ただし、絶対に捨てるなよ。それから、高いところは手を伸ばすな。危ないから。」
男はそう言って、大量の本を抱えてどこかへ行った。
「ふう……。」
凪の背中を見送ったあと、佳乃は静寂に包まれた廊下を見渡した。
(どこから片付ければいいかしら……。)
佳乃の家だって、いくら古かろうが、母のおかげで塵一つなく、父の指導で物を置きっぱなしにすることもなかった。
はっきり言って、こんなに汚い家は見たことがない。
(とりあえず、落ちている書類を拾おうかしらね……。)
佳乃は屈んでいく束もの紙を拾い、まとめて箱に入れていく。
本は書棚に揃え、家具に溜まった薄い埃を叩きで落とす。
手際のいい佳乃のおかげで、三時間も経たないうちに、品のいい色合いの床が顔を出し、見違えるほど綺麗になった。
(疲れた……。)
お茶でも淹れようと、立ち上がった佳乃は、ふと、台所から香ばしい匂いがすることに気がついた。
(なにこれ………。)
何かを煮た、いや焼いたような匂いだ。
廊下を辿る。近づけば近づくほど濃くなり、白い煙の蒸気を感じた。
のれんをくぐり抜けると、そこには袖を捲り上げ、何かを作る凪の姿があった。
「凪様!!」
「………佳乃?どうしてここに……。」
とぼけたように言う凪がもどかしくて、佳乃は眉を吊り上げた。
「どうもこうもございません。掃除が終わって、そしたらお勝手から、なにやら匂いが……。」
「ああ!これか!これはな、焼き餅だ。」
焼き……餅?
見ると平たい鉄の上に、満遍なく焦げた、蕩けそうな餅が乗っている。
美味しそう……。でも、なんで凪様はお料理をされているの?それに、これは何?
「凪様、これは……。」
小首をかしげる佳乃の視線に、凪は応える。
「ああ、これは“ふらいぱん”だ。西洋の調理道具で、これに、火をつけると……。」
そう言って凪が火をつけると、煌々と青白い炎が鉄に晒されていく。
凪は得意げだったが、本来調理をするのは佳乃の役目。主人にやらせては本末転倒だ。
私、何やっているのだろう………。やはり、向いていなかったのだわ。
凪は白い皿に焼けた餅を並べている。ほかほかと湯気が照って、しかしそれがなんともいじらしい。
しばらく俯く佳乃に気づいたか、凪は優しく微笑みかけた。
目線は佳乃に合わせられ、涙交じりの瞳に凪の顔が映り込む。
少し、申しなさげに眉が揺れていた。
「どうした?佳乃?……片付け押し付けたこと、怒っているか?……ごめんな。
嫌だったよな、最初から……。
昔から整理整頓が苦手で、慣れていたから、年頃の女の子が嫌がるなんて考えていなかったんだ……。
それなのに、手伝いもせずに……。」
ごめんな、口が凹んで動く。
そんな凪の姿を、罪悪感で見ていられなくなった佳乃は、声を絞り出しながらも、ぽつりぽつりと言い出した。
「違うのです!凪様は何も悪うございません。
ただ……。本来私がやるべきですのに、凪様にさせて……
不甲斐なく……。」
ああ。凪様に心配されている。
初日から、泣きじゃくって、迷惑ばかりかけた。
きっと内心面倒に思っているだろう。近いうち、返される。
そしたら私はまた、父上に叱られて、あの重苦しい家の中に、閉じ込められてしまう。
淡い日がさしてきめ細やかに台所を揺らしていた。
金属は日を軽快に跳ね飛ばして、佳乃の目を塞いでいる。
おそろおそる顔を上げた佳乃は、凪に焼き餅を差し出されたことに気がついた。
「何を言うと思ったら。これはね、僕が君のために作った料理なんだよ。
うちに来てくれた君への、祝いと労いの菓子だ。
主が家族を気遣うのは当たり前。
君が気にかけることはない。
僕が好きでやったのだから。」
「はい……?」
凪様が、私のために…?
「どうして………?」
「僕はずっと一人だった。子供のうちには側には必ず誰かいたけれど、心の孤独は消えなかった。
大人になったら、本当に一人で。
でも……。
今日あった君とは分かり合える気がしたんだよね。なんとなく。」
甘蜜をかける凪は飄々としていて、言葉の重みは感じられない。
でもその無意識な言葉が、佳乃の心を少しずつほぐしていったことは、確かだった。
君とは分かり合える。
そんなことを言ってくれた人は、今までいてくれただろうか。
体裁と自己防衛のことばかりで、怯んでいた自分を、ここまで受け入れてくれた人はいただろうか。
凪の息遣いそのものが、佳乃を包み込む気がする。
凝り固まった執念も、何もかも、湯気に溶けて……なくなっていく。
もう、そのままでいいよ、と言うように。
この人はあったばかり。始めたばかりの奉公生活も、どうなることか検討もつかない。
それでも。
「ほら、早く食べないと、冷めちゃうよ。」
「はい。いただきます。」
齧り付いたこの餅のように、長く、甘く………淡い道筋なのは、見えていた。
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