海境の髪

水梨五月

(一) 潮と鉄錆の村


昭和七年、夏。


吉野恭一よしのきょういちは、土埃つちぼこりをかぶった古びた村営バスを降りた。肺に吸い込んだ空気は、熱気と、遠い魚市場の血の臭い、そして、何かが朽ちていくような甘ったるい湿気が混ざり合っていた。そこは地図にも載らないような、本州の果てにへばりつく漁村――海境村うなさかむら


恭一は都会の新聞社の記者であったが、この場所への訪問は仕事ではない。一年前、妹が旅先で忽然こつぜんと姿を消した。最後の足取りを辿たどり、ようやく行き着いたのがこの村だった。


恭一は、錆びたブリキ看板の「吉村旅館」の矢印に従い、狭い石畳の坂を上り始めた。海に面した家々は、潮風に晒されて外壁は黒ずみ、窓は小さく、まるで海を睨むように並んでいた。どこからも人の声が聞こえない。活気どころか、生きている気配さえ薄い。


「吉村旅館」は、村の中心から少し外れた、崖の中腹にあった。女将は、顔に深いしわを刻んだ、感情の読めない老婆だった。


「どちらさんで?」


「東京から来た吉野と申します。取材で数日、泊めていただきたく」


恭一はそう言ったが、老婆の目は彼の背中に刻まれた「異邦人」の印を静かに値踏みしているようだった。


通された部屋は、六畳一間。障子は破れかけ、畳は湿気を含んで冷たかった。窓の外から聞こえるのは、一定間隔で打ち寄せる波の音と、どこからともなく漂ってくる潮と、ひどく濃い生臭さだけだ。まるで、この部屋自体が、海の底に沈んだ過去の亡骸のようだった。


夜になり、恭一は村を散策した。狭い路地、傾いたほこら、そして、村人たちがひそひそと話すのを耳にした。それは、恭一の耳には、波の音に混じって聴こえる、意味をなさない「噂」の囁きだった。


恭一が滞在三日目を迎えた日の夕暮れ。村で唯一の酒場から帰る途中、彼はある家に目が留まった。


その家は、他の家よりもさらに海際に建ち、異様なほど閉ざされていた。玄関の戸は固く、窓には古い木製の雨戸が下ろされ、陽の光を完全に遮っている。しかし、その閉鎖的な外観とは裏腹に、そこから漏れ出る臭いは、尋常ではなかった。


――生臭い…


ただの魚の臭いではない。それは、何日も血に漬け込んだ、腐敗寸前の魚の内臓のような、強烈で濃密な臭いだった。恭一は思わず鼻を覆った。


その時、雨戸の隙間から、何かが動くのを見た気がした。


黒い、濡れた筋。


恭一は立ち止まり、目を凝らした。風で揺れる木の影か、気のせいか。しかし、確かにそれは、髪のように細く、長く、窓の隙間から這い出そうとしているように見えた。その光沢は、油が塗られたようでもあり、海水に濡れたようでもあった。


志麻しまのところか」


背後から声がした。振り返ると、恭一が泊まっている旅館の女将が、いつの間にか立っていた。その顔は暗く、恭一の視線の先にある家を、まるでけがれを見るかのように見ていた。


「あの家は…」

清助きよすけの家だよ。若い夫婦が住んどる」


女将はそれだけ言うと、恭一の目を避けるように早足で去っていった。その足取りには、「関わるな」という無言の警告が込められているようだった。


恭一は、あの夫婦の家、そしてその異様な臭いが気になって仕方がなかった。その晩、彼は志麻と清助の夫婦について調べた。


清助は無口で荒っぽい漁師。妻の志麻は、数年前に別の村から嫁いできた。村の者は口を揃えて言う。「嫁に来てから、どうもおかしくなった」と。


「彼女は、まるでこの村の深淵に呑み込まれたみたいだ」


そう言ったのは、村で唯一の雑貨屋の店主だった。


翌朝、恭一は清助の家を遠巻きに見張った。数時間後、清助が漁に出たのか、荒々しく戸を閉めて去っていくのを確認した。


恭一は、意を決してその家に近づいた。やはり、臭いは強烈だった。生臭さの奥に、微かに甘い、花のようでありながら、どこか腐ったような臭いが混じっている。


恭一が裏手に回ると、古びた井戸があった。石造りの井戸の縁は苔むし、水面は暗く、底が見えなかった。


恭一が井戸を覗き込んだ瞬間、水面に映る自分の顔の横に、白い、憔悴しきった女の顔が映り込んだ。


「ひっ…」


思わず、恭一は数歩後ずさった。それは志麻だった。彼女はいつの間にか、恭一のすぐ後ろに立っていたのだ。


彼女の顔は蒼白で、目元には深い隈があり、何か恐ろしいものを見続けているようだった。そして、彼女の手に握られた、濡れた黒い束。それは、人間の髪だった。長く、太く、そして、異様に重い光沢を放っている。まるで、深海の泥から引き上げられたかのように、水滴を滴らせていた。


「だ、誰の髪ですか?」


恭一は震える声で尋ねた。


志麻のうつろな瞳が、恭一を見つめた。彼女の唇が震え、細い、かすれた声が漏れた。


「これは、……海境うなさか


彼女の言葉は、まるで波の引き潮のように途切れ途切れだった。


「少女の…血に濡れた髪。これを、海に戻さないと」


彼女はそう言うと、その濡れた髪を、まるで生きている赤子を扱うかのように優しく抱きしめた。その髪の束の根元からは、生々しい血の臭いが濃く立ち上り、先の強い魚の生臭さを塗り潰すかのようだった。


「戻す?どこに?」


「この井戸の、……底」


志麻はそう呟くと、再び恭一から目をそらし、井戸の底を覗き込んだ。その瞳には、井戸の暗闇ではなく、遠い海原の、恐ろしい幻影が映っているようだった。


恭一は、志麻の精神がすでにこの村の因習と恐怖によってむしばまれていることを悟った。だが、彼女の手に握られた髪が、ただの狂気の産物ではない、何か現実の「呪い」の依代よりしろであることを直感していた。

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