失敗聖女の異世界革命 ~地味に生きたいのに、なぜか文化が変わる件~

宵町あかり

第1話 断罪の朝

朝6時。


リュクス公爵家の屋敷は、いつもと違う空気に包まれていた。


聖都アルトリウス大聖堂。


眩い光に包まれた人影が祭壇の前に立っている。逆光でその表情は見えない。


「聖女セレナ様、万歳!」


歓声が大聖堂を震わせた。


人々は跪き、涙を流しながら祈りを捧げている。まるで救世主を迎えたかのような熱狂だった。


すると、どこからともなく声が響いた。


「三人の聖女が揃った時、真実が明かされる」


祭壇の人影、セレナは心の中で呟く。


『三人?もう一人誰だよ...てか、なんで私がここに立ってるの?』


そして時は、三ヶ月前に遡る。


✦ ✦ ✦


朝6時。


リュクス公爵家の屋敷は、いつもと違う空気に包まれていた。


セレナ・リュクスは寝台の端に座り、窓の外を眺めていた。朝日がやけに眩しく感じられる。目を細めながら、彼女は小さくため息をついた。


『ついに、この日が来た』


今日は断罪の日。悪役令嬢としての最後の仕事を終える日だ。


コンコン、と控えめなノックの音。


「セレナ様、失礼いたします」


メアリー・フォン・エーデルワイスが静かに部屋に入ってきた。銀髪を後ろで束ね、いつものメイド服をきっちりと着こなした彼女は、朝食の載ったトレイを持っている。


「お召し物の準備ができました。朝食はいかがなさいますか?」


セレナはトレイに視線を落とす。焼きたてのパン、卵料理、フルーツ。豪華な朝食がそこにあった。


「...紅茶だけでいい」


「セレナ様、何か召し上がらないと...」


メアリーの声には心配が滲んでいた。セレナ様の顔色が、いつもより青白く見える。まるで大事な試験の前の学生のような...いや、これは覚悟というものか。


「大丈夫よ。少し緊張してるだけ」


メアリーは心配そうな表情を浮かべたが、それ以上は言わなかった。紅茶を注ぎながら、彼女はちらりとセレナの横顔を観察する。


セレナは紅茶を一口飲んだ。熱い液体が喉を通る感覚に集中する。


『やっと悪役令嬢卒業だ!これでスローライフGET!田舎でのんびり暮らせる!』


内心では踊り出したいほどの喜びがあったが、表面上は無表情を保つ。長年の訓練の賜物だった。


『でも、この豪華な朝食も今日で最後か...いや、質素な生活万歳!毎日フルコースとか胃がもたない』


そんなことを考えていると、ふと現代での生活が頭をよぎる。


『ログアウトしたい...この茶番から』


朝日が窓から差し込み、部屋を黄金色に染める。セレナは目を細めた。なんだか今日は特別に光が眩しい気がする。


✦ ✦ ✦


「では、お支度を」


メアリーの言葉で、セレナは立ち上がった。


今日のドレスは深紅のベルベット。リュクス公爵家の紋章が胸元に刺繍された、最後の正装だ。


「お美しいです、セレナ様」


鏡の前に立つと、そこには完璧な悪役令嬢の姿があった。ただし、頭の髪飾りが異常に重い。


「メアリー、この髪飾り...もう少し軽いものはない?」


「申し訳ございません。断罪の場には、正式な装飾品でないと...」


セレナは首を小さく回す。すでに肩が凝り始めていた。


『これ、絶対5キロはあるでしょ...筋トレかよ』


メアリーが心配そうに見つめる。


「まるで聖女の苦行のようですね」


その言葉に、セレナは小さく苦笑した。


「...そうね」


『いや、ただの肩こりなんだけど...聖女とか勘弁して』


メアリーは手帳を取り出し、素早くメモを取る。


『セレナ様の苦行。髪飾りの重さに耐える姿は、まさに聖女の修行のよう』


そんなメモを取っているとは、セレナは知る由もない。


そこへ、扉がノックされた。


「セレナ様、お時間です」


護衛騎士カイル・ベルナルドの声だった。


「分かった」


セレナは淡々と答える。カイルは扉の向こうで、心の中で感嘆していた。


『なんという覚悟...さすがはリュクス公爵家のご令嬢』


✦ ✦ ✦


部屋を出ると、長い廊下が続いている。


大理石の床に足音が響く。両脇には使用人たちが整列し、頭を下げている。その向こうで、貴族たちがヒソヒソと話していた。


「リュクス令嬢の断罪だそうよ」


「王子殿下もお気の毒に」


「でも、なんだか神々しくない?あの佇まい」


『視線が痛い...』


セレナは真っ直ぐ前を向いて歩く。朝日が廊下の窓から差し込み、やけに眩しい。目を細めながら歩いていると、ふと双子の侍女、リリィとローズが涙ぐんでいるのが視界の端に映った。


「セレナ様...」


リリィが小さく呟く。


「きっと、きっと何か理由が...」


ローズが姉の手を握る。


しかし、セレナはそれに気づかない。断罪の場のことで頭がいっぱいだった。


『既読スルーしたい...この視線。SNSで炎上した時みたい』


現代の感覚が蘇る。でも、あと少しの辛抱だ。


カイルが隣を歩きながら、時折セレナを気遣うように見る。


「セレナ様、もし何かございましたら...」


「大丈夫よ、カイル。あなたは自分の務めを」


「...はい」


カイルは、その毅然とした態度に胸を打たれていた。まるで、すべてを受け入れる覚悟を決めた聖者のようだと。


廊下の途中、セレナの家族が待っていた。


父、ローランド・リュクス公爵は厳格な表情を崩さない。


「セレナ」


「父上」


短い言葉の交換。しかし、その目には複雑な感情が宿っていた。


母、エレノア・リュクスは涙を堪えていた。


「セレナ...あなたは...」


「大丈夫です、母上」


セレナは優しく微笑む。その笑顔が、かえって母の涙を誘った。


そして、弟のレオン。


「姉上...」


レオンは拳を握りしめていた。幼い頃の記憶が蘇る。優しかった姉。でも、いつからか変わってしまった姉。今の姉は、どちらなのか。


「レオン、しっかりやりなさい」


「...はい」


家族との短い別れを済ませ、セレナは再び歩き始める。


✦ ✦ ✦


謁見の間の扉が見えてきた。


重厚な扉の前で、セレナは一度立ち止まる。深呼吸をして、心を落ち着ける。


『さあ、最後の舞台だ』


扉がゆっくりと開いていく。


大理石の床に朝の光が反射し、まるで光の道ができているかのようだった。謁見の間は、セレナが思い出すゲーム画面よりもずっと荘厳だった。


天井には神話の神々が描かれ、それを支える柱は黄金の装飾で覆われている。その奥、玉座にはルシアン王子が座っていた。


『やっとこのイベントも終わる』


セレナは心の中で呟きながら、一歩ずつ前に進む。


玉座の隣には、淡い桃色のドレスを着たクリスティーナが立っていた。その表情は勝ち誇ったような、でもどこか不安そうな複雑なものだった。


『ルシアン、顔が暗いな...まあ関係ないけど』


確かに、ルシアン王子の顔色は良くなかった。まるで何か重大な決断を後悔しているような、そんな表情だ。


『イベントスキップボタン...ない。連打したいのに』


セレナは内心でため息をつく。ゲームなら連打しているところだが、現実では最後まで付き合うしかない。


周囲の貴族たちがざわめき始める。


「リュクス令嬢だ」


「なんという堂々とした態度...」


「まるで女王のような」


その中で、宰相アルフレッドが興味深そうに観察していた。白い髭を撫でながら、小声で呟く。


「ふむ...なかなか興味深い」


✦ ✦ ✦


セレナは玉座の前で立ち止まった。規定の距離、規定の角度。すべて完璧だった。


ルシアン王子が立ち上がる。


「セレナ・リュクス」


その声は、謁見の間に響き渡った。


「其方は王太子妃候補としての品位を汚し、クリスティーナ殿に対し、許されざる行為を重ねた」


セレナは無表情で聞いている。感情を一切表に出さない。それが最後の矜持だった。


『はいはい、テンプレ台詞。ゲームで100回は聞いた』


「よって、婚約を破棄し―」


ルシアン王子は一度言葉を切り、息を吸った。そして、最後の宣告を下そうと口を開いた。


「辺境の地への追放と―」


その瞬間だった。


東の窓から朝日が差し込む。ちょうど厚い雲が動いて、隠れていた太陽が顔を出したのだ。急に光が強くなった。そして。


「はっ...はっ...」


セレナの鼻がむずむずし始める。朝から感じていた光の眩しさが限界に達した。


「はくしゅん!」


小さくも可愛らしいくしゃみが、静寂の謁見の間に響いた。


「する」という最後の一言が、くしゃみによって完全に遮られた。まるで断罪の宣告を拒絶するかのようなタイミングだった。


ちょうどその瞬間、窓から差し込む光がさらに強まった。雲が完全に晴れたのだ。まるで天が開いたかのように、セレナを中心に光が広がっていく。


謁見の間から見ると、セレナの姿は光の中に立ち、断罪の言葉を拒むかのように見えた。


「まさか...光が!」


貴族たちの間に動揺が走った。彼らの多くは、この断罪に内心で疑問を抱いていた。証拠は状況証拠ばかり、クリスティーナ様の証言も曖昧。そんな不安を抱えながら断罪に立ち会った彼らにとって、この光は救いのように見えた。


「断罪を遮った!」


一人の若い貴族が声を上げる。彼は先週、セレナが領民に施しをしているところを目撃していた。本当に悪役なのか、という疑念が、光を見た瞬間に確信へと変わった。


「天が追放を認めない証拠では...?」


老貴族が震え声で言う。長年の経験から、政治的な断罪だと薄々気づいていた彼は、この光に縋るような気持ちで解釈した。


「神の祝福だ!」


貴族たちが騒ぎ始める。罪悪感から逃れたい一心で、彼らは光に都合の良い意味を見出していた。


クリスティーナは動揺を隠せない。


「え?なに今の...」


『タイミング悪っ!花粉症かな...いや、この世界に花粉症あるの?というか単に光が眩しくてくしゃみ出ただけなんだけど。光くしゃみ反射って言うらしいけど、知らない人多いよね。しかも「追放とする」の「する」を遮っちゃった...最悪のタイミング。いや最高のタイミング?どっちにしろ偶然にもほどがある』


セレナは内心で叫ぶ。


しかし、周囲の反応は予想外のものだった。まるで奇跡を目撃したかのような、畏敬の念に満ちた視線がセレナに注がれている。


宰相アルフレッドが素早く羊皮紙にメモを取る。


彼は長年の政治経験から、この断罪の裏にある真実を察していた。しかし、もしセレナ嬢が本当に特別な力を持っているなら...王国にとって有用かもしれない。その計算高い思考が、彼に「奇跡」を記録させた。


『断罪の瞬間、天より光。偶然にしては出来すぎている。これは...調査の価値がある』


✦ ✦ ✦


ルシアン王子は一瞬言葉を失った。最も重要な宣告が遮られたことに動揺したが、すぐに続けた。


「...辺境の地への追放とする」


声が少し震えていた。今の光とくしゃみを見て、何か感じるものがあったのだろうか。自分の宣告が天に拒絶されたような気がしたのかもしれない。


セレナは深々と頭を下げる。完璧な角度、完璧なタイミング。


「全ては私の不徳の致すところでございます。王子殿下とクリスティーナ様のご多幸をお祈り申し上げます」


『テンプレ謝罪、コピペでOK。これで終わり』


心の中では軽い調子でツッコミを入れながら、表面上は完璧な悪役令嬢の最後を演じきる。


レオンは姉の姿を見つめながら、拳をさらに強く握りしめる。


「姉上は...本当に悪いことをしたのか...?」


独り言のように呟く。あの光は一体何だったのか。


セレナはゆっくりと振り返った。


深紅のドレスが優雅に翻る。窓から差し込む光が、まるで後光のように彼女を包み込んでいた。


一歩、また一歩と歩き始める。


そして。


「あっ」


小さく声を漏らしながら、つまずきかけた。慣れない高いヒールが大理石の床で滑ったのだ。


しかし、その瞬間、謁見の間の高い窓から風が吹き込んだ。古い石造りの建物ではよくあることだ。窓枠の隙間から入った風が、ちょうどセレナのドレスをふわりと広げ、体が一瞬宙に浮いたように見えた。


「歩いてない...浮いてる!?」


貴族の一人が驚きの声を上げる。先ほどの光で聖女かもしれないと思い始めていた彼らの目には、どんな些細な動きも奇跡に見えた。期待のフィルターが、つまずきかけた動作を浮遊と解釈させた。


『ヒール高すぎ!転ぶとこだった。っていうか風どこから?窓の隙間?この建物古いからな』


セレナは内心で悪態をつきながら、なんとか体勢を立て直す。しかし、周囲の目には、それは神秘的な光景として映っていた。


光を纏い、風に支えられ、地上から浮いているかのような令嬢。


クリスティーナは不安に震えていた。自分が王子の愛を得るためについた小さな嘘が、とんでもない相手を敵に回したのではないか。もしセレナが本当に聖女なら...その恐怖が、彼女の目にもセレナを神聖な存在として映し出した。


それは、まさに聖女の姿そのものだった。


✦ ✦ ✦


謁見の後、廊下は騒然としていた。


「見ました?あの光!」


使用人の一人が興奮気味に話す。


「リュクス令嬢が光を纏っていたって本当?」


「ええ、この目で見ました!くしゃみと同時に天から光が!」


貴族たちも集まって話し込んでいる。


「断罪されてなお、あの気品...」


「浮遊していたぞ、確かに」


「もしかして、我々は何か見誤っているのでは...」


その少し離れた場所で、メアリーとカイルが話していた。


「やはりセレナ様は特別な方です」


メアリーの瞳が輝いている。手帳には既に今日の出来事が詳細に記録されていた。


「ああ...あの光は一体...」


カイルも困惑を隠せない。護衛騎士として長年仕えてきたが、今日のような光景は初めてだった。


城の外でも、噂は急速に広がり始めていた。


「聞いた?リュクス令嬢の断罪で奇跡が起きたって」


「光が降りてきたらしいわよ」


「くしゃみで天が開いたとか」


「浮いてたって話も」


商人、職人、主婦たち。身分を問わず、人々は今日の出来事について語り合っていた。


夕方になる頃には、王都中がその話題で持ちきりだった。


「断罪された令嬢」は、いつしか「光の令嬢」と呼ばれ始める。


そして、ある老婆が意味深な言葉を口にした。


「三十年前にも似たようなことがあった。あの時も、光が...そして三人の聖女が...」


しかし、その言葉の続きは、雑踏の中に消えていった。


✦ ✦ ✦


その夜、メアリーは愛用の革装の日記帳を開いた。


彼女は丁寧な文字で書き始める。


『セレナ様観察日記 第1日目

~断罪と光の奇跡~


今日、歴史に残る瞬間を目撃した。


朝のセレナ様は、いつもと違っていた。朝食を召し上がらず、ただ静かに紅茶を口にされた。まるで何かを待ち望んでいるかのような...いや、これは覚悟というものか。


髪飾りの重さに耐える姿は、まさに苦行。聖女の修行のようだった。


そして断罪の瞬間。セレナ様がくしゃみをされた途端、天から光が降り注いだ。これは偶然だろうか?いや、きっと神の祝福に違いない。


退場時には風に支えられ、まるで浮遊しているかのように見えた。


私の使命は明確だ。セレナ様の全てを記録し、後世に伝えること。


明日から始まる辺境での生活。きっとそこでも、奇跡は続くはずだ』


メアリーはペンを置き、窓の外を見た。


月光が静かに大地を照らしている。明日、彼女たちは王都を離れ、新しい生活を始めることになる。


それは終わりではなく、始まりだった。


セレナの『普通の生活』への道は、思わぬ方向へと続いていくことになる。

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