第4話 夜、裂かれて
雨が降っていた。
細い糸のような雨が、竹の葉を叩き、地を静かに濡らしている。
夜は冷たく、空気には土と水の匂いが混じっていた。
椿は庵の片隅で膝を折り、息を潜めていた。
焔の落ちた灯の中、彼女はひとり静かに目を閉じている。
滴る水が頬を伝い、首筋を滑る。
それが雨なのか、汗なのか、もう分からなかった。
――あの夜。
黒鴉の刃。
そして、あの言葉。
「生きろ」と告げた低い声が、今も耳に残っている。
戦いの最中に交わしたたった一言。
けれど、それがなぜか、どんな教えよりも深く胸に残った。
椿は自分の掌を見つめた。
その中に、まだ熱が残っている気がした。
敵を斬るための手。
なのに、あの夜は殺せなかった。
あのとき、何かが崩れたのだ。忍びとしての均衡が。
戸が静かに軋み、外の気配が差した。
椿は反射的に短刀に触れた。
入ってきたのは、白い面をつけた烏丸だった。
その声は雨よりも冷たい。
「次の任が下った。」
「……誰を。」
椿の声が、かすかに震えた。
「黒鴉。」
その名が落ちる。
焔の消えた庵の空気が、一瞬で凍る。
雨音さえ止んだように感じた。
烏丸は一歩、椿の前に進み出る。
面の奥の目が細く光る。
「黒鴉は裏切り者だ。外へ情報を流している。命は、今夜中に絶て。」
その言葉が、刃より鋭く突き刺さった。
椿は唇を結び、黙って頭を下げる。
だが胸の奥では、何かが崩れていく音がした。
烏丸は続けた。
「情を持つな、椿。忍びは闇に生きる。光を見れば、心が死ぬ。」
そのまま、雨の闇へ消えるように立ち去っていった。
残されたのは、雨と心臓の音だけ。
椿は息を吐き出す。
胸の中に溜まった空気が重く、冷たい。
黒鴉が裏切るなど、信じられなかった。
けれど、任を拒めば自らが処罰される。
忍びに選択はない。
だが――。
“殺せ”という言葉を胸に刻みながら、心のどこかで
“生かせ”と願っている自分がいた。
夜が更け、雨が細くなる。
椿は静かに装束を整えた。
面を被り、短刀を腰に差す。
指先が微かに震えたが、それを見ないふりをする。
森を抜ける風が、雨の匂いを運んでくる。
竹の葉が揺れ、濡れた地面に足音を残す。
闇に紛れて走るたび、胸が締めつけられる。
生まれて初めて、任務が怖いと思った。
やがて、川沿いに小さな灯りが見えた。
黒鴉の潜む小屋。
彼の姿が、その灯の中にある。
椿は木の影に身を伏せ、息を潜めた。
濡れた髪から水が滴り、頬を打つ。
指先で短刀を抜く。
月が雲の合間から顔を出し、その刃が淡く光った。
踏み出そうとした瞬間――。
小屋の戸がわずかに開き、灯りが流れた。
黒鴉がそこにいた。
驚きもなく、ただ静かに彼女を見つめた。
雨の音の中で、ふたりの視線が重なる。
「……やはり、お前か。」
黒鴉の声は低く、柔らかかった。
怒りも怯えもない。
まるで、再会を待っていたような響きだった。
「俺を殺しに来たのか。」
椿は答えられなかった。
面の下で唇を噛み、息を詰める。
雨のしずくが頬を伝い、刃の上に落ちた。
黒鴉は刀を抜かなかった。
ただ、まっすぐに椿を見つめ、言った。
「椿。俺は裏切ってはいない。」
その声に、椿の胸が強く脈打つ。
「なら、なぜ追われているの。」
「俺の任は、里の真を暴くことだった。
上に立つ烏丸が、外に情報を流している。
俺はその証を掴んだ。それが、罪になった。」
言葉が雨に混じり、静かに落ちていく。
椿の中で、何かが軋んだ。
信じてはいけない。任務が揺らぐ。
そう分かっているのに、
黒鴉の声を信じたいと思ってしまう。
「……証を、見せられるの?」
黒鴉は頷き、小さな包みを差し出した。
濡れた布の中には、烏丸の印を押した文があった。
その内容を一瞥した瞬間、椿の心が凍る。
確かにそこには、外の国への書状が記されていた。
「……本当なの?」
黒鴉の眼差しが、彼女の動揺を見抜く。
「信じろとは言わぬ。ただ、お前自身で見極めろ。」
椿は刃を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。
その呼吸が震えているのを、自分でも感じる。
闇と雨の中で、二人の距離は静かに縮まる。
黒鴉がそっと手を伸ばし、椿の面に触れた。
指先で水滴をぬぐう。
冷たいのに、なぜか温かい。
椿はそのまま動けなかった。
「椿、闇の中でも心は生きている。
命じられるままではなく、お前の目で選べ。」
その言葉は、刃よりも鋭く、
それでいて、どこまでも優しかった。
椿は目を閉じた。
呼吸をひとつ、深く。
もう一度、目を開けたとき、雨は止んでいた。
雲の隙間から、月が顔を覗かせていた。
ふたりはその光の下で、ただ見つめ合った。
刃も、怒りも、言葉もいらなかった。
あるのは、ただ一つの選択。
忍びとしての生か、人としての心か。
椿の指が、短刀の柄から離れた。
黒鴉の唇が、かすかに笑みに動いた。
夜が、静かに裂けていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます