第11章:過去からの使者
――残り、十日。
プロジェクトの成功確率は、35.7%まで回復していた。
あの日以来、詩織と陽佑は、本当の意味での『パートナー』になった。陽佑が、モニターたちの心の機微を、その鋭い直感で感じ取る。詩織が、その感覚的な情報を、論理的な課題へと変換し、具体的な解決策を導き出す。
玲奈には、彼女のプライドを尊重しつつ、蓮弥の不器用さの裏にある誠実さをデータで示した。蓮弥には、玲奈との会話をシミュレーションする、彼専用のコミュニケーション・トレーニングプログラムを開発した。
二人の関係は、まだぎこちないながらも、確実な前進を見せていた。オフィスには、以前の絶望的な雰囲気はなく、穏やかで、前向きな空気が流れていた。
そんな、ある日の午後だった。
MIRAI-BASEの前に、一台の黒塗りの高級外車が、滑るように停車した。降りてきたのは、イタリア製の高級スーツに身を包んだ、精悍な顔つきの男。自信に満ち溢れたその足取りは、ためらうことなく、オフィスの中へと向かってきた。
「やあ、久しぶりだね。……詩織」
その、懐かしく、そして、聞きたくなかった声に、詩織の背筋が凍りついた。
ゆっくりと振り返った先には、彼女の過去そのものが、にこやかな笑顔を浮かべて立っていた。
「……神崎、さん」
「そんな他人行儀な。昔みたいに、隼人って呼んでくれていいのに」
男――神崎隼人(かんざきはやと)は、そう言うと、詩織の隣に立つ陽佑に、品定めをするような視線を向けた。
「君が、詩織の今のパートナーかい? 初めまして。俺は、大手IT企業『ネクサス・イノベーションズ』の代表、神崎隼人だ。……詩織の、元カレでもある」
その、あまりにも率直な自己紹介に、陽佑は言葉を失った。
詩織の過去のトラウマ。感情論ばかりの、夢追い人。多額の借金を残して、彼女の前から姿を消した男。その男が今、なぜ、こんな場所に。
「ご心配なく。昔の感傷に浸りに来たわけじゃない」
隼人は、まるで人の心を読むかのように、肩をすくめた。
「君のAI婚活エージェント『ロジ・マリッジ』、素晴らしいじゃないか。俺も、昔から君のロジカルな思考は尊敬していたからね。……だから、単刀直入に言おう。君の会社を、うちが買収したい」
「……買収?」
「ああ。君のAIと、うちのプラットフォームを組み合わせれば、業界トップも夢じゃない。もちろん、代表は君に続けてもらう。俺は、君の才能を、誰よりも信じているからね」
それは、詩織がこのプロジェクトを始める前に、最終目標として描いていた、理想そのものの提案だった。
だが、今の詩織の心は、少しも踊らなかった。
「……それで、そちらの方は?」
隼人は、再び、陽佑に視線を向けた。その目には、あからさまな軽蔑の色が浮かんでいる。
「たしか、『フィーリング・クローバー』さんだったかな。オーラだとか、運命だとか……。悪いが、うちの事業に、そういった非科学的な占い師は必要ないんでね」
「……占い師じゃ、ない」
陽佑が、低い声で、しかしはっきりと反論した。
「僕は、人の心を、見てるんだ」
「心、ねえ。残念だが、心は数値化できない。つまり、ビジネスの場では、存在しないも同然なんだよ」
隼人は、鼻で笑った。それは、かつて詩織が陽佑に向けていたものと、全く同じ種類の、冷たい侮蔑だった。
「詩織、よく考えてくれ」
隼人は、陽佑を無視すると、詩織の肩に、親しげに手を置いた。詩織の体が、びくりと硬直する。
「俺たちは、最高のパートナーになれる。昔も、そして、これからも。……また、一緒に、夢を見ないか?」
その甘い囁きは、詩織の思考を、過去の悪夢へと引きずり込もうとする。
陽佑は、その光景を、ただ、見ていることしかできなかった。
彼の直感が、警鐘を乱れ打っていた。
(この男のオーラは、最悪だ……!)
表面は、成功者の自信に満ちた、キラキラとした金色。だが、その奥にあるのは、他者を支配しようとする、どす黒く、冷たい野心の色。そして、何より、詩織のオーラが、嵐のように乱れているのが、陽佑には視えていた。
平静を装っているが、その心は、恐怖と混乱で、今にも張り裂けそうになっている。
「……前向きに、検討させていただきます」
詩織は、隼人の手を振り払うでもなく、ただ、感情を殺した声で、そう答えるのが精一杯だった。
隼人は、満足げに微笑むと、「良い返事を待ってるよ」と言い残し、颯爽とオフィスを去っていった。
後に残されたのは、重い沈黙と、詩織のデスクに置かれた、一枚の名刺だけ。
陽佑は、隣で俯いたまま、小さく震えている詩織の横顔を、ただ、見つめていた。
彼女が、今、何を考えているのか。
その心の奥を、今の自分には、まだ、覗き込むことができない。
ただ、一つだけ、分かった。
プロジェクトの成否とは、全く別の次元で。
本当の、そして、最大の試練が、今、始まったのだと。
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