第二十三章:アルゴ号の乗組員
アンデスの激闘から、三ヶ月が経過した。
世界は、表面的には何も変わらない日常を続けていた。人々は日々の仕事に追われ、恋をし、週末の娯楽に興じる。あの山頂で人類の存亡を賭けた死闘が繰り広げられたことなど、誰も知らない。だが、水面下では、世界は確実に、そして後戻りできないほど、大きく変わろうとしていた。
国会議事堂の地下、プロジェクト・オルフェウスの司令室は、人類の叡智を結集した新たな聖域となっていた。総責任者に就任した神代藍は、その中心で、まるでオーケストラの指揮者のように、膨大な情報を捌き、的確な指示を飛ばし続けていた。
「星図の第一次解析が完了しました」
藍は、円卓を囲む総理大臣や各組織のトップを前に、静かに報告を始めた。
彼女の背後のホログラムスクリーンに、調律者が残した星図が、立体的に映し出される。無数の光点が、宝石のように煌めいていた。
「最も近い『奏者』候補がいる恒星系まで、約4.2光年。ケンタウルス座アルファ星系です。我々が知る、最も地球に近い恒星。しかし……」
藍はスクリーンを操作し、その一点を拡大する。
「彼らが残したデータは、我々の物理学の常識を覆します。彼らは、通常空間を航行しているわけではない。空間そのものを『奏でる』ことで、ワームホールのようなものを生成し、星々を移動している可能性が高い」
会議室が、どよめきに包まれる。それはもはや、科学ではなく、魔法の領域だった。
「我々に、そんな技術が?」
防衛大臣が、疑念の声を上げる。
「ありません」
藍は、きっぱりと答えた。
「ですが、ヒントはあります。ヤヌス少佐が奏でた、78.7ヘルツの音。あれは、我々の物理法則という『楽譜』にはない、特殊な音符だった。この音を基点として、新たな物理法則――新たな音楽理論を構築すること。それが、次世代深宇宙探査船『アルゴ号』の主推進機関、『ハーモニック・ドライブ』の基本原理です」
彼女の言葉は、自信に満ちていた。絶望的な技術格差。だが、彼女はその中に、確かな希望の光を見出していた。
「アルゴ号の建造は、最終段階に入っています。残された最大の課題は、乗組員の選定です」
藍は、一枚のリストをスクリーンに表示した。
そこには、世界中から選び抜かれた、各分野の天才たちの名前が並んでいた。言語学者、生物学者、物理学者、心理学者……。
そして、そのリストのトップには、三人の名前が、大きく記されていた。
船長:水嶋 慧
船外活動部隊・隊長:ヤヌス
同・副長:スペクター
種子島宇宙センター。
巨大なドックの中で、純白の船体が、静かに出航の時を待っていた。流線形の、まるで楽器のようなフォルムを持つ、人類初の深宇宙探査船「アルゴ号」。
そのブリッジに、水嶋慧は一人、立っていた。
船長服に身を包んだ彼は、もはや宇宙に逃げてきた孤独なソリストではなかった。その背中は、人類の未来という、重く、しかし誇らしい責任を背負い、凛としていた。
彼の目の前のコンソールに、藍から送られてきた乗組員の最終リストが表示される。ヤヌス、スペクター。その名を見て、慧はかすかに目を細めた。戦う者と、探求する者。全く違う世界に生きてきた人間たちが、今、同じ船に乗ろうとしている。我々は、うまくやっていけるだろうか。いや、うまくやっていかねばならないのだ。人類という、不協和音だらけのオーケストラをまとめ上げ、未知の音楽を奏でるために。
横須賀の医療施設に併設された、リハビリテーションセンター。
ヤヌスは、シミュレーターの中で、仮想の敵と戦っていた。彼の肉体は、驚異的な回復力で、ほぼ全快に近い状態まで戻っていた。だが、彼の心は、まだあのアンデスの雪山に囚われたままだった。目を閉じれば、仲間たちの最後の姿と、あの赤い光の嵐が蘇る。
「……まだ、無理をするな」
訓練を終えたヤヌスに、スペクターがタオルを渡しながら言った。
「お前の傷は、まだ癒えちゃいない」
「分かっている」
ヤヌスは、吐き捨てるように言った。
「俺は、怖いんだ。スペクター。もう二度と、あんな思いはしたくない。仲間を、失いたくない」
初めて聞く、リーダーの弱音だった。
その時、リハビリ室のドアが開き、一人の背広姿の男が入ってきた。防衛省の役人だった。彼は、二人の前に一枚の辞令を差し出した。
「――プロジェクト・オルフェウスへの参加を命ずる」
ヤヌスは、その辞令を、ただ黙って見つめていた。
宇宙へ行け、と国は言う。再び、未知の存在と対峙しろ、と。
だが、彼の脳裏に響いていたのは、命令ではなかった。
『あなた方の奏鳴曲を、彼らにも聞かせみるといい』
あの、神のような存在が残した、最後の言葉。
それは、呪いか、それとも、祝福か。
答えを探すために、行くしかないのだ。たとえその先に、再び地獄が待っていたとしても。
ヤヌスは、ゆっくりと辞令を手に取った。
新たなる序曲を奏でる、オーケストラの一員となるために。
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