No.002|白の選択 — 見る日から、見ない日へ
夜の掲示板のいちばん上段に、白い紙が一枚、ぴたりと貼られていた。中央に、交わらない五本の線だけ。
近くの軒先で、風鈴が五回だけ鳴る。数えないでも、体の方が知っている。
私は紙の端を押さえ、面を揃える。角度を直すだけで、白がすうっと静かになる。
封筒の角で、掲示板の金具を一度だけ、控えめに叩いた。金属のひびきが薄く広がって、その場に音の骨組みができる。
——配達は往復じゃない。前進だ。
歩道は夜露でぬれていて、靴の底がほんの少し柔らかくなる。
街の角をいくつか折れるたび、空気の層が薄く重なって、道筋が浮いて見える。私はその色の浅い方へ踏み入れて、まっすぐ進む。
◆
集合住宅の前に着くと、玄関灯が、人影よりも先に一拍だけ滲んだ。
その一拍のあいだ、廊下の足音が、半歩分だけ遅れる。誰かが息を合わせるみたいに。
私は封筒の角で、ドア枠の金属を一度だけ、こつんと鳴らした。
それで十分だ。到着は確定した。
天使は私の少し後ろで立ち止まり、封を切らないまま封筒を両手で持った。
目を閉じるでもなく、どこを見るでもなく、そこにあるなにを読む。
紙の向こう側に、細かい針のような線が無数に見えるのだと、以前、彼女は言った。
日々の経路の跡、位置の光、数字の呼吸、そういうものの、すっかり乾いた光景。
「ここは——」と天使が言って、そこで言葉をたたんだ。
口にしない方が、うまく届く時がある。
私たちは玄関の前に立ちながら、外の空気の方を少しだけ広げた。
廊下の床板の下で、浅い川みたいな音がゆっくり動く。
横断歩道の白が遠くで呼応し、角のミラーがわずかに曇る。
通学路の上に、霧の粒子が遅れて流れ始める。ひとつひとつの名を持たない粒が、帯になって先へ進む。
天使は封筒を軽く傾け、空気に小さな合図を置いた。
誰にも見えないし、説明もできない。ただ、それで充分に伝わるものがある。
「——これで、いい?」
「うん」
それだけ言葉を交わして、私たちは退いた。
ドアの向こうから、金属が短く息をする。
室内のぬるい空気が一筋、廊下へ漏れて、私の皮膚に触れる。境目が、すこし曖昧になる。
温度の解像が、ひときわ落ちる。支払いは済んだ。
◆
朝。
通学の刻限になると、マンションの前の通りに、群れの羽音のような気配が満ちた。
靴の音はまっすぐ行き過ぎず、横断の手前で一拍だけ、何かを待つ。その一拍のあいだ、車の鼻先が自然に引き、風だけが通る。
誰かが誰かを譲ったとも言えない。けれど場が、そういうふうに息をする。
窓辺で、スマートな四角い板が白い画面のまま、ゆっくり呼吸している。
持ち主の指は、その白を見て、画面を開かない。
白は何も主張しない。何も覚えない。何も残さない。
台所では湯気が上がり、コーヒーの香りが輪になって重なる。
引き出しの中で、名のない白い封筒がひとつ、紙の重さで静かに眠っている。
通学路の帯の上を、霧の粒子が群れになって流れていく。
誰の軌跡でもない。ただ、群れであるという事実だけが、薄く光る。
風鈴の尾が、いつもより半拍だけ長い。
それで、十分だ。
◆
依頼の姿を、私たちは見ていない。
たぶんここしばらく、白い四角に視線を吸われ続けた誰かが、眠れない夜を越えて、上段に白を貼ったのだと思う。
善意はあった。安全もあった。
そのどちらも、過ぎれば重くなる。
重くなったぶんだけ、空白の余地を戻さなくてはならない——そういうことなのだと、天使は言葉にしないまま受け取ったのだろう。
私たちは、何も宣言しない。
やめた方がいい、とも、続けるべきだ、とも。
ただ、白を白のままにしておけるように、場の端を少しならしただけだ。
私たちが角を曲がると、玄関灯が、もう一度だけ先に滲んだ。
その滲みは、誰かが招けば、短い窓にもなる。
招かれない限り、何も見えない。
それが、この町の今朝の答え。
◆
天使は、手首の内側で脈を確かめる癖がある。
通りを離れてから、いつものように一拍だけ触れて、すぐ手を離した。
「軽くなった?」と私が訊くと、天使は首を傾けた。
「どうかな。——軽くなるのは、いつも少し遅れてから」
その言い方が、気に入っている。
私たちは結果の前にいない。
結果は、どこか別の朝に、別の台所で、ふと現れる。
だから、前進する。
配達は往復じゃない。前進だ。
角をもうひとつ曲がったところで、風鈴が遠く、五回だけ鳴った。
数えない。けれど、数は増える。
端末の隅に、小さな青い点がひとつ増える。
私は視線を触れさせるだけで、数えない。
——これで本当に良かったのだろうか。
問いは、喉の奥で丸くなって、言葉にならないまま、私たちの背中の方へ置かれていく。
私にも、天使にも、ここで止まって関わり続ける理由はない。
それぞれの理由が、別の白へ向かわせる。
日が高くなるにつれて、露の跡は消え、白い紙はただの町の風景に戻る。
誰かにとっての「見ないでいい日」が、何でもない一日に紛れ込む。
それで、十分だと思う。
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