No.002|白の選択 — 見る日から、見ない日へ

 夜の掲示板のいちばん上段に、白い紙が一枚、ぴたりと貼られていた。中央に、交わらない五本の線だけ。

 近くの軒先で、風鈴が五回だけ鳴る。数えないでも、体の方が知っている。


 私は紙の端を押さえ、面を揃える。角度を直すだけで、白がすうっと静かになる。

 封筒の角で、掲示板の金具を一度だけ、控えめに叩いた。金属のひびきが薄く広がって、その場に音の骨組みができる。

 ——配達は往復じゃない。前進だ。


 歩道は夜露でぬれていて、靴の底がほんの少し柔らかくなる。

 街の角をいくつか折れるたび、空気の層が薄く重なって、道筋が浮いて見える。私はその色の浅い方へ踏み入れて、まっすぐ進む。



 集合住宅の前に着くと、玄関灯が、人影よりも先に一拍だけ滲んだ。

 その一拍のあいだ、廊下の足音が、半歩分だけ遅れる。誰かが息を合わせるみたいに。


 私は封筒の角で、ドア枠の金属を一度だけ、こつんと鳴らした。

 それで十分だ。到着は確定した。


 天使は私の少し後ろで立ち止まり、封を切らないまま封筒を両手で持った。

 目を閉じるでもなく、どこを見るでもなく、そこにあるなにを読む。

 紙の向こう側に、細かい針のような線が無数に見えるのだと、以前、彼女は言った。

 日々の経路の跡、位置の光、数字の呼吸、そういうものの、すっかり乾いた光景。


「ここは——」と天使が言って、そこで言葉をたたんだ。

 口にしない方が、うまく届く時がある。


 私たちは玄関の前に立ちながら、外の空気の方を少しだけ広げた。

 廊下の床板の下で、浅い川みたいな音がゆっくり動く。

 横断歩道の白が遠くで呼応し、角のミラーがわずかに曇る。

 通学路の上に、霧の粒子が遅れて流れ始める。ひとつひとつの名を持たない粒が、帯になって先へ進む。


 天使は封筒を軽く傾け、空気に小さな合図を置いた。

 誰にも見えないし、説明もできない。ただ、それで充分に伝わるものがある。


「——これで、いい?」

「うん」


 それだけ言葉を交わして、私たちは退いた。

 ドアの向こうから、金属が短く息をする。

 室内のぬるい空気が一筋、廊下へ漏れて、私の皮膚に触れる。境目が、すこし曖昧になる。

 温度の解像が、ひときわ落ちる。支払いは済んだ。



 朝。

 通学の刻限になると、マンションの前の通りに、群れの羽音のような気配が満ちた。

 靴の音はまっすぐ行き過ぎず、横断の手前で一拍だけ、何かを待つ。その一拍のあいだ、車の鼻先が自然に引き、風だけが通る。

 誰かが誰かを譲ったとも言えない。けれど場が、そういうふうに息をする。


 窓辺で、スマートな四角い板が白い画面のまま、ゆっくり呼吸している。

 持ち主の指は、その白を見て、画面を開かない。

 白は何も主張しない。何も覚えない。何も残さない。

 台所では湯気が上がり、コーヒーの香りが輪になって重なる。

 引き出しの中で、名のない白い封筒がひとつ、紙の重さで静かに眠っている。


 通学路の帯の上を、霧の粒子が群れになって流れていく。

 誰の軌跡でもない。ただ、群れであるという事実だけが、薄く光る。

 風鈴の尾が、いつもより半拍だけ長い。

 それで、十分だ。



 依頼の姿を、私たちは見ていない。

 たぶんここしばらく、白い四角に視線を吸われ続けた誰かが、眠れない夜を越えて、上段に白を貼ったのだと思う。

 善意はあった。安全もあった。

 そのどちらも、過ぎれば重くなる。

 重くなったぶんだけ、空白の余地を戻さなくてはならない——そういうことなのだと、天使は言葉にしないまま受け取ったのだろう。


 私たちは、何も宣言しない。

 やめた方がいい、とも、続けるべきだ、とも。

 ただ、白を白のままにしておけるように、場の端を少しならしただけだ。


 私たちが角を曲がると、玄関灯が、もう一度だけ先に滲んだ。

 その滲みは、誰かが招けば、短い窓にもなる。

 招かれない限り、何も見えない。

 それが、この町の今朝の答え。



 天使は、手首の内側で脈を確かめる癖がある。

 通りを離れてから、いつものように一拍だけ触れて、すぐ手を離した。


「軽くなった?」と私が訊くと、天使は首を傾けた。

「どうかな。——軽くなるのは、いつも少し遅れてから」


 その言い方が、気に入っている。

 私たちは結果の前にいない。

 結果は、どこか別の朝に、別の台所で、ふと現れる。

 だから、前進する。

 配達は往復じゃない。前進だ。


 角をもうひとつ曲がったところで、風鈴が遠く、五回だけ鳴った。

 数えない。けれど、数は増える。

 端末の隅に、小さな青い点がひとつ増える。

 私は視線を触れさせるだけで、数えない。


 ——これで本当に良かったのだろうか。

 問いは、喉の奥で丸くなって、言葉にならないまま、私たちの背中の方へ置かれていく。

 私にも、天使にも、ここで止まって関わり続ける理由はない。

 それぞれの理由が、別の白へ向かわせる。


 日が高くなるにつれて、露の跡は消え、白い紙はただの町の風景に戻る。

 誰かにとっての「見ないでいい日」が、何でもない一日に紛れ込む。

 それで、十分だと思う。

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