No.001|風鈴は五回だけ — 見張る町から、見守る町へ
日が建物の隙間に折り畳まれていく。湿った空気がゆっくり厚みを増し、商店街のシャッターに残った指紋のように、夕方の匂いが街に貼りつく。
町内会の掲示板は、いつも通り上段が空いていた。そこに、今日は真新しい白い紙が一枚、金具の爪で留められている。紙は大きすぎない。手を伸ばせば届く高さだが、子どもの手では踏み台が要るだろう。端だけわずかに膨らんで、紙の繊維が湿りを吸っている。私は近づいて、紙の端を押さえる。触れた指先から、細かい波のような「面」のそろいが伝わってくる。
白い紙の中央には、鉛筆で引かれた五本の線。交わらない、静かな間合い。線の間には、煤のような、ごく淡い匂いの層がのっている。火を使った台所の気配。誰かが夕餉の支度をはじめた時間に合わせて書いたのだろう。——責任を持てる手の筆圧だ。ここは見張るためじゃなく、見守るためにしたい、と。
掲示板の下で、風鈴がふっと鳴った。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ——そして、五つだけ。音はそれきりで、余韻だけが路地の角にたまった。
「受け付けたよ、ってことだね」
私は独り言のつもりで言って、ひとつうなずく。合図はもう出た。ここからは私の番だ。
——配達は往復じゃない。前進だ。
袖口の裾が、見えないものにひかれる。空気の面がもう一枚、薄く重なって、路地を奥へ押し広げる。輪郭は揺らぎ、けれど道は残る。私たちは便宜上それを「竜」と呼ぶ。呼び名がいると、迷わなくてすむから。
封筒の角で、掲示板の金属枠をそっと叩く。乾いた音が小さく跳ねて、面が揃う瞬間を作る。そこに足を置く。私は深く息をして、匂いの層へ踏み出した。
商店街の電灯がひとつずつ灯る。そのあいだを、濡れた紙のような静けさがつなぐ。前に踏み出すたび、体の前に透明な段ができ、その段の縁に私の足が乗る。風鈴の音の高さが一段、また一段、遠くなる。人の足は空白で折り返す——竜の導きがなければ。けれど今日は、前へ。
目的地は掲示板ではない。掲示板は「宛名」だ。宛先は、別のところにある。紙で結ばれた縁は、紙の奥で循環している。町内の回覧が眠る場所——公民館の裏手、鍵のかかった引き出しの、さらに奥の空白。私はそこへ、封筒を届ける。
封筒は薄い。何も書いていない。中身も、何もない。けれど、宛先の匂いだけがある。台所の煤、濡れた紐、拭いたばかりの床の香り。五本の線の間で立ち上がった層が、私の足もとに道を置いてくれる。
公民館の裏口は、いつもより暗かった。夜目が慣れるのを待つあいだに、天使が来た。呼び名は私がつけた。白いパーカーの袖口から、細い指先がのぞいている。指先は冷たく、落ち着いた温度。私が差し出した封筒を、天使は胸の前で両手にそっと受ける。
「開いていい?」
頷く。二人のうち、開くのは天使の役目だ。私は紙の端を押さえるのがうまい。天使は空白の厚みを読むのがうまい。どちらか一人だけでは、ほどけて元に戻ってしまう。
天使は封を切らない。封筒の紙越しに、そこにある空白を読む。空白の厚みを指でなぞって、呼吸の間で、そっと言葉を置く。
「見張る回覧は、やめる。見守りの当番をつくる。大声は出さず、鈴を一度だけ。困ったら、名前を呼ぶ前に灯りをつける。——これで、いい?」
「うん」
紙の面が、一度だけ、柔らかくたわんだ。返事を受け取ったように。天使の睫毛がわずかに震え、呼吸が落ち着く。私は封筒の角で金具をもう一度、軽く叩く。音はさっきより低い。けれど、道はまだ前に伸びている。
公民館の裏手から商店街へ戻るまで、私はあまり喋らない。竜の輪郭は、もう半分ほどけて、湿った夜気の中に散っていく。面は残る。私はその縁だけを踏んで、歩く。
「代わりに、どこを削る?」
天使が小さな声で言った。私のほうは見ない。答えは決まっている。
「今日は、鈴のいちばん上の音を、少しだけ遠くへ」
「……わかった」
風鈴の音階の一番高いところが、糸で吊るしたみたいに細くなる。指でつまんだら、切れてしまいそうな高さ。代わりに、下の三つは前よりも長く響くようになった。選べるなら、そういう削り方がいい。聞こえない音が増えるより、響く音が増えるほうが、まだいい。
その夜、掲示板の下を通り過ぎる人たちは、貼り紙の矢印に目を止めない。代わりに、軒先の灯りがひとつ増えた。道の向こうで、誰かが鈴を一度だけ鳴らして、すぐに静かになった。回覧はまわるだろう。けれど、誰かの顔写真や、赤い丸印は、もう描かれないはずだ。
帰り道は、来た道じゃない。私はいつもの癖で、心の中だけで言う。ほつれた糸を、別の場所で結び直すための道。配達は往復じゃない。前進だ。
スマホの画面の隅に、小さな青い点が増えた。名前のない印。私はそれを数えない。数えないほうが、眠りやすい。
翌朝、商店街の風鈴は、四つまでがよく鳴った。五つ目は、すこし遠い。私はそれでいいと思った。遠く届かない音がひとつあるぶん、近くで届く呼び声が増えるなら。
白い紙はまだそこにある。五本の線は、昨日と同じ間で並んでいる。私は通り過ぎざま、紙の端を押さえる。わずかに固くなっている。湿りが抜けはじめたのだ。紙は息をして、町は少しだけ、見守るやり方を思い出した。
あなたの町の掲示板に、白紙はありますか。
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