No.009|優先権の縫い直し — 祭の道から、命の道へ

※この話だけで読めます(シリーズ未読OK)

(約7分)


 夕立ち上がりの湿気が残る。社の掲示板の上段に白紙が一枚、まっさら。誰がいつ貼ったのか、誰も覚えていない。五本線と風鈴が五回——揃えば、受付が開く。


 屋上で段ボールの封緘を撫でる。印字のトナーの匂いの下に、祭の匂いが少し混ぜてある。油、土埃、葉の青さ。私はラベルの片隅にある五本の短線を確かめ、竜の鼻先へ段ボールを寄せた。

「覚えて」

 竜は一息で匂いを飲み込み、黒曜の鱗がぴんと鳴る。うなじの棘が順番に起き上がり、風の層が階段みたいに組まれていく。背後でフードを外す柔らかい気配がして、親友が言った。

「今日は、人が多いよ。延期の判断もある」

「時間は魔法の条件だよ」

 私が答えると、彼女——私が「天使」と呼ぶ子——は小さく頷いた。彼女の手には、薄い封筒。角が少しだけ柔らかく曲がっていて、そこにも五つの短線が鉛筆で引かれている。


 社務所の陰で、帳守の老女が依頼者に向き直る。

「——本当に、これでいいね? 来年からも、橋には“空白”が要る」

 返事は短く、強かった。「お願いします」


 竜の背に手をかける。下で太鼓が鳴り始め、拍が路面に伝わってくる。屋台の鉄板が油を吐き、焦げた砂糖の匂いが夜へ滲む。私たちは風の梯子を滑り降りた。



 巡行路は既に屋台と人で満ちていた。山車の車輪は黒い艶をして、油が新しい。担ぎ手たちの掛け声が重なるたび、路面の優先権は少しずつ山車側へ傾く。遠くで救急車のサイレンが短く切られ、また始まった。橋の向こう側で立ち往生しているらしい。


 社務所の脇に、帳守の老女が立っていた。白い前掛け。見た目はただの世話役だが、視線が鋭い。老女は封のない紙切れをひらひらと振り、私に小さく会釈を寄こす。あの白紙が貼られるとき、たぶんこの人の手は動かない。動かないけれど、見ている。


「渡り便」

 老女が言い、天使が肩を並べる。

「刻限までに、橋の上で配を確定。開は私がやる。今日は——事故が出る前に」

 老女は頷く。その頷きには、長年の段取りと、今夜だけは変えたいものが半分ずつ混ざっていた。私は段ボールを抱え直し、竜の鼻先に指をかざす。

「油、土、葉。拍の振動、少なめ」

 竜は小さく鳴き、風の階を踏んだ。私は人波の上に身を滑らせ、屋台の煙を縫い、注連縄の影をくぐる。優先権は目に見えないけれど、たしかに重くて、押し返される手応えがある。今夜の路は祭のものだ。だから、別の路を作る。

 人の足は空白で折り返す。だから、背に乗る。


 橋のたもとで、一瞬だけ風が止まった。その隙に、私は欄干へ段ボールをそっと置く。押印の代わりに、ラベルの短線に指の腹を沈める。線が指の温度を吸い、紙がわずかに冷たくなる。端末の画面が青く変わった。《配完了—残り 0:41》。


「開ける」

 天使の声は聞こえるか聞こえないかのところにある。彼女は封筒を取り出すが、封は切らない。指の先で封筒の縁をなぞり、呼吸を整える。読むのは文字ではない。空白の厚みの方だ。

「もし、風鈴が四回しか鳴ってなかったら?」

「開かない。今夜はやめる」

 その一言は、私たちの柵だ。


 川風がひとつ吹いて、屋台の煙が橋の下へ流れた。天使が数を数えるみたいに五回、浅い息を繰り返し、それから深く一回吐く。私の胸の内側で、何かが軽くほどける。代償の小さいやつで済ませる。今夜は、祭の音の中の微妙な「跳ね」を、一段だけ手放す。太鼓の裏拍が、少し曖昧になるくらいで。


 天使の指が止まった瞬間、橋の上の空気の縫い目が変わった。優先権の糸が、少しだけ別のところに結び直される。山車の進路は細い川みたいに左へ寄り、救急車のために中央に一本、見えない道が生まれる。誰も道を譲った意識はない。掛け声は続き、太鼓も鳴る。でも、路は、変わる。


 サイレンが短く鳴り、消えた。救急車はゆっくりと動き、橋を渡り切る。担ぎ手の肩はそのまま上がり下がりし、提灯の炎は揺れるだけだ。私は竜のうなじに手を置き、天使を見る。彼女は頷いて、封筒を段ボールに戻した。


「ここで終わり?」

 私は訊ねる。天使は小さく首を振る。

「もうひとつ、読む。配達じゃなくて、貼り替えの方を」


 社の掲示板に戻ると、さっきの白紙はまだそこにあった。鉛筆の五本線は汗ばむ夜気で少し滲んでいる。天使は線の下の余白に指を置き、短く息を重ねた。押印の音はない。風鈴が、五回だけ鳴る。紙の繊維がわずかに軋む。


 掲示は静かに変わった。文字が現れるわけじゃない。白紙のまま、けれど周囲の目が「読む」言い回しに変わる。翌朝ここを見た人は、祭の道に見えない道があったと覚えるだろう。次の年から、橋の上には短い空白が組み込まれる。誰かが、そこを通すことを先に覚えている。そういうふうに、貼り替えられる。


 帳守の老女が再び現れ、私と天使の前で、古い印判を胸元から外した。小さな木の印。朱は擦り切れている。

「これは町内の巡行で、交差点を五分長く止められる印だよ。昔は必要だった。今は——違う」

老女は印を天使へ差し出した。

「これをやめる。代わりに、橋の上の空白を、毎年きちんと残す。そういうふうに、帳を組み替える。これでよろしいか」

 天使は印を両手で受け取り、少しだけ目を伏せた。「うん」。それは同意であり、承認であり、記録の整序だった。代償は老女が半分、私が少し。町は少し、軽くなる。私は、太鼓の跳ねをひとつ手放した。代わりに、風の通り道の手触りが指に残る。


 竜があくびをして、鱗が乾く小さな音を立てた。橋の方から歓声が上がる。私の端末が短く震える——《完了》。画面隅の青い点がひとつ増え、空白ログに、薄い印がひとつ載る。私は掲示板の白紙の端を指で押し、紙の冷たさを確かめる。五本の線は、もう用が済んだみたいな顔で静かにそこにあった。


「帰ろう」

 天使が言い、私は頷いた。老女は印判の紐を畳み、胸の前で手を合わせる。

「また、必要なときは呼ぶよ」

「呼ばれたら来るよ」


 祭の匂いが、風の向きで少し薄くなる。油、土埃、葉の青さ。その向こうに、冷えた川の匂い。帰り道は来た道と同じじゃない。配達は往復じゃない。前進だけだ。



 夜がほどける。屋台の灯りがひとつ、ふたつ、音もなく落ちていく。社の掲示は白いまま、でももう昔の白紙ではない。——翌年の祭、橋の中央には、誰も置かない短い空白が自然にできた。掛け声は続き、太鼓も鳴る。ただ、その一本分だけ、命の道が最初から開いている。


(あなたの町の祭に、見えない一本の道はありますか。)


――――

ガイド → 第0話:

https://kakuyomu.jp/works/822139836867743506/episodes/822139836868384701


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