風のアルトサックス
あまぐりたれ
読切一話
九月の終わり。
校庭の隅では、まだ夏の名残みたいなセミが鳴いている。
俺は、今日も教室の後ろの席でぼんやりと窓の外の陸上部を見ていた。
そんな俺の前の席にいるのが、佐々木ほのかさんだ。
長い三つ編みに黒縁メガネ。姿勢が良くて、ノートの文字は教科書みたいにきれい。いかにも“優等生”って感じで、話しかけたことなんてほとんどない。
だけど、授業中にふと見える横顔。メガネの奥のまっすぐな目や、プリントをめくる指先の仕草。
そういうのが妙に気になってしまう。
気づいたら目で追っている。
……別に、好きとか、そういうんじゃない。たぶん。
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昼休み、俺がパンをかじっていると、同じ陸上部の篠原が話しかけてきた。
「おい悠斗、文化祭のステージ見に行くか?吹奏楽部の演奏、けっこうレベル高いらしいぞ」
「吹奏楽……?ああ、佐々木ほのかさんが出るやつか」
「ん?お前、なんでフルネームで言うんだよ。怪しいな〜」
「ち、ちげーよ!」
パンの袋をぐしゃっと握りつぶす。
「まあいいけど……ところでお前、部活はいつ戻るんだ?」
その一言に、パンの味が消えた。
「うーん……もうちょい様子見」
「もう完治してんだろ?顧問もいつでも戻ってこいって言ってたぞ」
「……分かってるけどさ」
陸上部の練習はしばらく休んでいる。右足首の捻挫がきっかけだった。
医者からは「もう走っていい」と言われている。
でも、気持ちがどうにも戻らない。
汗まみれの練習。
周回を重ねるたびに焼けつく肺。
仲間の声。
あの“走る感覚”が嫌いなわけじゃない。
でも、いったん離れると、戻る勇気がなかなか出てこなかった。
篠原はため息をついた。
「お前がいねーとリレーのバランス崩れるんだよ。走るの嫌になったとかじゃねえよな?」
「別に嫌いじゃない。ただ、今は……」
言葉が続かなかった。『今は何?』って聞かれたら、たぶん答えられない。
走るのが好きだった。
でも、あの全力疾走の先に何があるのか、分からなくなった。もっと早く走りたい、勝ちたい、とも思うけど、燃え尽きたような空白が胸の中にある。
「……まあ、気が向いたら戻るよ」
「ふーん。ま、無理すんなよ」
篠原は俺の肩を軽く叩き、笑って席を離れた。
その背中を見送りながら、俺は思った。
『無理すんな』って、便利な言葉だ。
でも、今の俺は無理をしてでも何かを掴む気力がない。
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放課後。
職員室前の廊下を歩いていると、音楽室のほうから音が聞こえてきた。
アルトサックス。
澄んだ音に、ほんの少しだけ湿った空気が混じる。
最初は練習っぽく単調だったが、やがてメロディが形になり始めた。
窓からのぞくと、佐々木さんがいた。
三つ編みを背中に垂らして、譜面台の前で一人。
口元には真剣な表情。何度も息を吸っては吹き、間違えるたびに眉を寄せて、でもあきらめない。
……こんな顔、初めて見た。
いつもは静かで控えめなのに。その音だけは、やけに強く、真っすぐに響いていた。
俺はなぜか、その場を離れられなかった。
ガラス越しに、心臓の奥をつかまれたみたいだ。
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十月の空は、高く澄んでいた。
吹く風が、秋の気配を運んでいる。
文化祭当日。
体育館のステージは満員だった。
照明が落ちて、吹奏楽部が入場する。
指揮者が手を上げる。
静寂。
瞬間、音が生まれた。
トランペット、クラリネット、パーカッション……
いくつもの音が重なって、体育館の空気を震わせる。
佐々木さんは前列の中央。
メガネがステージライトを反射してきらめいた。
今日は三つ編みをほどいて、前髪をカチューシャで上げている。
それだけで、いつもより大人っぽく見えた。
中盤、曲が静かになった。
指揮者の合図。
アルトサックスのソロ。
――その瞬間、世界が止まった気がした。
最初の一音。
まるで風の音みたいに柔らかく、でも確かに強い。
音が体育館の天井を突き抜けて、どこまでも広がっていく。
その姿は、俺の知っている『佐々木ほのかさん』とは異なっていた。
教室で静かにノートを取る彼女じゃない。
ステージの真ん中で、自分の音を信じて吹く――ひとりの演奏者だった。
胸が熱くなった。
その音にすべてを持っていかれた。
最後の音が空気に溶けた瞬間、会場が一斉に拍手に包まれた。
俺は立ち上がって、手が痛くなるまで拍手した。
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演奏が終わって、保護者や生徒たちが体育館から出ていく。
俺は人混みの中で、佐々木さんを見つけた。
サックスケースを抱えて、ほっとしたように笑っている。
汗で前髪が額に貼りついて、それを指で払う仕草。
ああ、やばい。
完全に“好き”だ。
気になる、なんてもんじゃない。
俺はもう、彼女のに惹かれている。
何を話せばいいかわからないけど、
それでも、今なら言える気がした。
「佐々木さん、すごかったよ」
自分でも驚くほど、自然に声が出た。
佐々木さんがくるっと振り向いて、少しだけ目を見開いたあと、
ふわりと笑った。
「ありがとう。緊張したけど、楽しかった」
その笑顔は、ステージの光よりずっと眩しかった。
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夕方、校舎の裏のグラウンド。
人のいなくなったトラックに、風が吹き抜けている。
俺はズボンの裾をまくり、そっと右足を伸ばした。
もう、痛くない。
佐々木さんの演奏が思い出される。
あの音。
あの真剣な顔。
まっすぐで、風みたいに自由だった。
――走りたい。
気づけば、自然に足が動いていた。
最初はゆっくり。
でも、風を感じた瞬間、スピードを上げていた。
空気が肌を叩き、息が熱くなる。
足音が心臓の鼓動と重なる。
忘れかけていた感覚が、全身に戻ってくる。
走ることは、ただの部活じゃない。
俺にとっての音楽なんだ。
あのステージで彼女がサックスを吹くように、
俺も、自分のフィールドで風を鳴らしたい。
走り終えた俺は、息を切らしながら空を見上げた。
夕焼けがオレンジ色に広がっている。
その時、グラウンドを強い風が通り抜けた。
まるでアルトサックスの音みたいに。
風のアルトサックス あまぐりたれ @tare0404
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