第5話 不意打ちの共鳴

夜のアルセリア魔法学院は、昼とはまるで別の顔をしている。

月光に照らされた尖塔が静かに光を放ち、空中をゆるやかに漂う魔力の粒が星のように瞬く。

昼の喧騒が嘘のように消えて、校庭を包むのは静かな風の音だけだった。


——そんな夜に限って、私は眠れない。


「……今日の課題、まだ修正してませんでしたね」


ベッドの上で寝返りを打ち、ため息をつく。

魔力制御の測定表が、まだ半分空白のままだ。

明日の朝までに提出しなければならない。


仕方なくローブを羽織って、魔導塔の自習室へ向かうことにした。

夜間でも使用できる“静寂の間”は、眠れない生徒の定番スポットだ。


しかし扉を開けると、先客がいた。


「……あれ、リィン?」


(よりによって……)


アシュレイ・クロード。

机に肘をつき、明かりに照らされた横顔が穏やかに笑っている。

昼間の騒がしい彼とは少し違う。

夜の静けさの中では、どこか大人びて見えた。


「こんな時間に何してるの?」


「課題です。あなたこそ、夜更かしですか」


「同じ。昼に騒ぎすぎたせいで眠れなくて」


「自覚があるなら静かにしてくださいね」


「気をつけます、教授」


「教授ではありません!」


思わず大きな声が出て、慌てて口を押さえる。

静寂の魔法が張られた部屋に声が響くと、余計に恥ずかしい。


アシュレイはくすりと笑って、手元の紙を差し出した。

「見てよ、僕の測定表。めちゃくちゃ」


「どれどれ……あの、これは“共鳴率20%”って数字ですか? なんでそんな低いんですか」


「風が言うこと聞かなくてさ。たぶん君の氷が恋しいんだよ」


「そんな非科学的な理由、聞いたことありません!」


(というか、“恋しい”って何なんですか)


顔が熱くなるのを感じて、私はわざと無表情を装った。

それでも、彼の言葉が妙に耳の奥で残ってしまう。


沈黙が落ちる。

窓の外では、魔法灯の光がゆらゆらと風に揺れている。


ふと、アシュレイが小さく笑った。


「ねえ、リィン。君ってさ」


「なんですか」


「本当は、怖がりでしょ?」


「……は?」


突然の言葉に、思わずペンを落とした。

カラン、と机の上で音が鳴る。


「君さ、いつも完璧にやろうとするじゃない? 間違えるのが嫌で、人に頼らない。

 でも、それってさ、怖いからじゃないの?」


「な、なんでそんな……勝手なことを……!」


「観察してただけだよ。君の氷、強いけど、どこか怯えてる。壊されないようにしてる感じがする」


言葉が、胸の奥に刺さった。

図星を突かれたようで、何も返せない。


アシュレイは立ち上がり、ゆっくりと私の隣に座った。

距離が近い。けれど、不思議と嫌じゃない。


「僕はね、君の魔法、好きだよ。まっすぐで綺麗で、冷たいのに温かい」


「……どういう意味ですか、それ」


「君が誰かを守る時の魔力は、優しいんだ。自分を守る時とは違う。

 さっきの帆布の時も、僕より先に魔力を張ったでしょ?」


(見てたの……?)


「その優しさ、すごいなって思う。僕にはできないことだよ」


アシュレイの声は静かで、夜の風みたいに柔らかかった。

いつもの冗談混じりの調子じゃない。

それが逆に、心臓に悪い。


「……あなた、時々ずるいですよね」


「ずるい?」


「そうやって真面目な顔で、困らせてくるところです」


「困らせたいんじゃなくて、知りたいだけ。君のこと」


彼の言葉が、部屋の空気をわずかに震わせた。

風の魔力が静かに漂い、私の髪をふわりと揺らす。


(また、この感じ……)


昼の風とは違う。優しくて、あたたかい。

心の奥に触れようとするような風。


「リィン」


「……なんですか」


「僕、君と一緒にいたいんだ。競い合うだけじゃなくて。

 もっと、隣で同じものを見たい。

 風と氷が一緒に形を作るみたいにさ」


その言葉が、胸の奥に響いた。

どくん、と鼓動が跳ねる。


「……そんなの、理論的じゃありません」


「恋なんて、だいたい理論外だよ」


(また、そんなことを——)


アシュレイは軽く笑って、窓を開けた。

夜風が流れ込み、魔力の粒が月光に反射して舞う。

それがまるで、小さな星の雨のように見えた。


「ほら。綺麗でしょ。

 こういう瞬間、君と共有できたらいいなって思ってた」


「……なんで、そんなことを私に」


「だって——君が好きだから」


一瞬、時間が止まった。


風の音も、月の光も、何もかもが遠のく。

頭の中が真っ白になって、何も言えない。


(……また、告白、ですか)


けれど今度は、冗談じゃなかった。

笑っていない。

真剣な、優しい眼差し。


「前も言ったけど、今のは本気だよ」


「……困ります。今、授業中ですし」


「夜の自習中でしょ?」


「どっちでもです!」


「じゃあ、答えはまた今度でいいよ。

 急がなくていい。君のペースで」


アシュレイはそう言って、立ち上がった。

そして、私の前に小さな紙を置いた。

それは、彼の課題用紙だった。


共鳴率の欄には、新しい数字が書かれている。

“62%”。


「さっき、風が勝手に動いたんだ。

 多分、君の氷を感じたからだと思う。……共鳴、したのかもね」


「そんな……」


私は紙を見つめたまま、何も言えなかった。

彼は振り返らず、静かに部屋を出て行く。


残された空気の中に、まだ彼の風の匂いが残っている。

胸の奥で、何かがゆっくり溶けていくようだった。


(……共鳴、か)


私は小さく呟いた。

氷の魔法陣を指先に描く。

けれど、その光はいつもより柔らかく、どこか温かかった。


まるで、風に触れたあとの氷みたいに。

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