婚約破棄された王子、捨てられた街で闇の英雄になる
林凍
第1話 断罪の玉座、崩れ落ちる王子
玉座の間には、雪が降る前の冷たさがあった。壁面の大理石は磨かれ、燭台は過剰なほど灯されているのに、どこか夜の底みたいに寒い。人はこれを「儀礼」と呼ぶのだろうが、俺にはただの見世物に思えた。
「第二王子レオン・アルヴェイン。汝の罪は反逆」
兄の、即位したばかりの王が宣告する。だが、その声に王の品位はない。勝ち誇った少年の、つまらない悪戯の種明かしのような響きだけがあった。
「……反逆?」
俺は笑ったのだと思う。笑ってしまうくらい、出来の悪い話だったからだ。
「兄上。証をお示しください」
「証ならある。お前が王都の糧倉の鍵を偽造し、兵糧を移した記録がある。更に近衛副長が証言した。――ここに」
侍従が差し出した羊皮紙は、俺の筆跡に似せてある。近衛副長の名も、確かに見える。だが副長は一月前、毒で死んだ。兄に忠誠を誓い、王家の台所事情を知りすぎた男だった。
「副長は、亡くなっている。死人の証言を、誰が書き取った?」
「彼の遺書に記されていた――そうだ、エリナ」
兄が顎をしゃくる。その視線の先に、俺の婚約者――エリナ・ヴァルグレアが立っていた。薄青のドレスは氷を思わせ、芯の通った灰色の瞳は、いつかの柔らかさを欠いている。
彼女は一歩、前に出た。
「レオン殿下。わたくしは……あなたの行為を、許せません」
知らない声だった。冷ややかで、刃の裏だけを見せる声。
「あなたはこの国を裏切り、戦を望んだ。民を飢えさせ、兵に反旗を勧めた。――わたくしは、そうした方と婚約を続けられません」
婚約破棄の言葉は、静かに、正確に、俺の胸に落ちた。音はしなかった。ただ、温度だけが消えた。
あの夜の、彼女の横顔を思い出す。王城の塔の上、風に髪をほどきながら笑ったエリナは、世界が好きだと言った。人がパンを買って並ぶのを見るのも、兵士が酒場で歌うのを聴くのも、好きだと。俺もそうだ、と答えた。――それは、幻だったのだろうか。
「……兄上。俺が偽造をする理由は?」
「王位が欲しかったからだろう。第二王子の分際で」
幼い。彼は幼い。だがその幼さの背に、数多の大臣と貴族の影が揺れる。彼らは知っているのだ。糧倉の鍵の本当の行方を。冬越しの予算がどこに消えたのかを。だから、俺を貼り付ける。同意した視線が、燭台の炎に揺れた。
「判決を言い渡す。第二王子レオン・アルヴェインは王籍を剥奪、婚約を破棄し、王都より永久追放。――罪人の
どよめき。誰かが息を呑む音。しばし沈黙。
エリナの睫毛が微かに震えた。ほんのわずかに。俺はそれを見逃さなかった。けれど彼女は、唇を結び直しただけだった。
儀礼は、終わった。
◇
鉄の車輪は、凍った土の上を容赦なく跳ねる。護送馬車の木板は薄く、風は刃に等しかった。手首の枷はきついが、抵抗は無意味だ。扉の隙間から覗けば、灰色の空が、終わりの見えない平野を覆っている。
ノクティス。王国の地図の端に小さく記されたその名は、書庫の地誌によれば、鉱脈が枯れて以降、罪人と流民が流れ着く“沈殿地”だ。王都から見れば捨て石。冬の荒風と、古い水路と、壊れた街路灯。そんなものしかない。
寒い。だが、頭のどこかは異様に静かだった。
――反逆。偽造。婚約破棄。追放。
用意のいい台詞だ。誰かが前もって書いた脚本を、王が読み上げ、観客が頷いた。俺の役は、よくできた悪役だったのだろう。ならば、幕が下りたあとに残るのは、舞台裏だ。表の王道が腐っているなら、裏に回るしかない。
馬車が大きく揺れ、車輪が泥に取られた。やがて止まる。扉が開いた瞬間、刺すような風が顔を打つ。護送兵が枷を外し、無言で背を押した。
「ここから先は、お前の足だ」
王都から持ち出せたものは、冬衣と短剣ひとつ。腰に残ったそれは、辛うじて俺が俺である証のようだった。
見下ろす谷間が、ノクティスだった。斜面に貼り付いた家屋は、瓦が風にめくれ、壁は煤に染まっている。煙突から上がる煙は細く、冬の空に吸い込まれて消える。遠くで犬が吠え、鐘が死んだような音で三度鳴った。
足を踏み入れた途端、腐った藁と古い油の匂いが鼻を刺す。石畳は割れ、下水の蓋は半分沈み、壁の影に、目だけがこちらを見ている。子どもの目、老婆の目、警戒と飢えの色。
「兄上、ここを知っているか」
独り言は煙のように消えた。知るはずがない。地図の色の外にある街だ。けれど――歩けばわかる。ここには、王都にない“律”がある。生きるために編まれた即席の規則、黙契。誰も守らない王令よりよほど堅い約束が、足音の間にある。
路地の先で、短い悲鳴が弾けた。
反射で走っていた。細い横道を抜けると、朽ちた倉庫の前で、三人のならず者が少女を取り囲んでいる。少女は十にも満たない。煤けたマントの裾を握り、歯を食いしばっていた。
「いいから寄越せ。手を離せば楽になる」
男の一人が掴んでいるのは、小さな革袋。触れただけで乾いた音がした。硬貨だ。少女は首を振る。
「これは、薬の、代金だよ……おかあの……」
「母親か。ならお利口だ。金は俺たちが預かる」
笑い声。肋骨の隙間を針でつつかれたみたいな感覚がした。体が勝手に動く。
俺は男の手首を掴み、逆方向に捻った。鈍い音がして、革袋が宙に舞う。落ちる前に拾い、少女の手に押し戻す。
「その子の用事だ。邪魔をするな」
間近で腐敗した酒の匂いがした。男が睨み、刃を抜く。短いナイフ。二人目も、鉄棒を持ち上げる。
「貴族様ごっこか? ここは王都じゃねえ」
「王都でも、俺は王じゃない」
吐いた言葉が、自分でも意外に平坦だった。刃が振り上がる。踏み込みは浅い。右肩で躱し、手首を打つ。短剣が落ちる。鉄棒が振り下ろされる前に膝で相手の脛を蹴り、体重で肩を押し込む。二人が転がり、三人目が逃げ腰になった瞬間、路地の陰から投げ縄のように何かが伸び、男の足に絡みついた。
「ほいっと」
乾いた声。視線を向けると、路地の上、壊れた庇の上に女が座っていた。狐の仮面――いや、道化の白い半面だ。亜麻色の髪が肩で切りそろえられ、指には薬草の汁が染みている。
「三匹、捕獲完了。ノクティスへようこそ、見知らぬお兄さん」
半面の女は軽やかに飛び降り、鉄棒男の後頭部に指先で触れた。ふっと力が抜け、男はその場に崩れ落ちる。
「……毒?」
「薬。点で眠るやつ。起きたとき、ちょっと頭が痛いくらい」
女は肩をすくめ、仮面の裏から、じっとこちらを見た。俺の短剣の柄、手の皮、立ち位置。観察眼が鋭い。
「その子は?」
少女は革袋を胸に抱きしめ、俺を見る。瞳は黒曜石の欠片みたいに硬いのに、内側は震えていた。
「ありがと……。ルゥナ。わたし、ルゥナ。薬を、買いに」
「母さんの、だね」
半面の女が優しい声に変える。ルゥナはこくりと頷いた。
「行こう。案内するよ。――お兄さんも来る?」
問われ、俺は一瞬迷った。王都の王子としての常識なら、関わるべきではない。だが、王子ではない俺は、もういない。
「行く」
そう答えると、半面の女は口元で笑った気配を見せた。
「名は?」
「レオン」
「いい名前。私はシルヴィア。街医者。偽でも裏でもなく、いちおう正規の」
「正規?」
「この街の、ね」
◇
シルヴィアの診療所は、崩れかけた礼拝堂の隣にあった。床はきしみ、窓枠には古いステンドグラスの破片が残っている。けれど台は磨かれ、器具は清潔に並び、湯気の立つ薬鍋の匂いには、かすかな甘さがあった。
ベッドには、痩せた女が横たわっている。ルゥナの母だ。咳が硬く、血の匂いが混じる。
「鉱夫の肺だね。粉塵と寒さ。王都からの補助は途絶え、坑道は崩れていく。――はい、これ飲ませて」
シルヴィアが杯を渡し、ルゥナが母の口元に当てる。女の喉がかすかに動き、色が戻るわけではないが、咳は少し柔らいだ。
「ありがとう、ルゥナ。ありがとう、お医者さま」
掠れた声に、ルゥナの目が潤む。俺は壁に背を預け、その光景を見ていた。王都では滅多に見ない、まっすぐな“ありがとう”だ。
「で、レオン。外の三匹は勝手に転んだってことでいい?」
「問題ない」
「よし。じゃあ質問を一つ。――あんた、何者?」
半面越しの視線が、笑っていない。
俺は息を吐いた。偽名を食むのは簡単だ。だが、この街に来て最初に引き金を引いたのは、目の前の医者だ。嘘をつけば、たぶん見抜かれる。
「王都からの、追放者だ」
「ふうん。王都の匂いはする。言葉の角でわかる。で、戻る気は?」
「ない」
その一言が、自分の中で音を立てて固定された。ない。戻らない。戻れないのではなく、戻らない。
「愚かね」
シルヴィアの声は冷たく、それでいてどこか楽しげだった。
「ここは、食べ物が勝手には来ない街。薬も、火も、秩序も。欲しいなら、自分でこしらえる。あんたは、こしらえられる?」
「――こしらえ方は知っている。けれど、俺ひとりの手じゃ足りない」
言葉が、口に出てから自分でも驚くほど適温だった。王城の会議室で何百回も飲み込んだ文の、言い直しのようだ。
「なら、手を集めなきゃね」
シルヴィアは仮面に指をかけた。外すのかと思ったが、外さない。代わりに、壊れかけた窓の向こう――礼拝堂の影を顎で示す。
「バルト、聞いてたでしょ」
影の中から、重い靴音が一歩、二歩。現れた男は、厚い胸板と、折れた近衛章の布片を肩に残していた。髪は短く刈られ、顎には古傷。目は狼のように静かだ。
「近衛……?」
「元、だ」
男は短く答え、俺の腰の短剣と立ち姿を測る。
「王都で、名前を聞いたことがある。レオン殿下」
ルゥナが目を丸くする。シルヴィアは肩をすくめた。
「やっぱり。――で、殿下。何をしたい?」
何を、したいか。
王都では、答えに千の前置きが必要だった。立場、派閥、財務。誰の顔を立て、誰の恨みを買うか。だがここは、ノクティスだ。答えは、短くていい。
「街を、守る」
自分でも驚くほど、言い切るのは容易かった。
「まずは、食べさせる。寒さを凌ぐ。病を減らす。治安を、表のものにする。――そのために、俺は、裏に立つ」
「裏?」
「表は腐っている。王令は届かない。なら、夜に王が要る」
沈黙。薬鍋の泡が一つ弾ける音がした。ルゥナが真っ直ぐ俺を見上げ、シルヴィアが鼻で笑い、バルトがわずかに口角を上げた。
「夜王、ね。気障だけど、嫌いじゃない」
シルヴィアが言う。
「必要なものは?」
「人材、拠点、資金。それと、信」
「信?」
「信じる、の信だ。約束が約束であるための土台。――俺は王都で、それが欠け落ちる音を聞いた」
兄の笑い。大臣の沈黙。エリナの睫毛の震え。あの場にいた誰も、信に重みを置かなかった。置ける場所がなかった。なら、ここで作る。
「資金は?」
現実的な問いが、すぐ飛ぶ。ありがたい。王都では誰も、最初にそれを口にしない。
「鉱山は死んだが、水路が生きている。古い地図を見た。地下に網がある。――水を流し、粉を挽き、灯りをつける。夜に灯りがあれば、人は集まり、金が落ちる」
言いながら、礼拝堂の割れたステンドに視線が行った。欠けた赤と青が冬の光で曖昧に混ざっている。あの光を、夜に灯したいと思った。
「治安は?」
「表の番は買収されやすい。だから、裏の番を立てる。夜の市場を管理し、借金の利率を固定する。暴力の価格を上げ、暴力以外の稼ぎを下げないようにする」
「やるじゃない。王子の勉強は伊達じゃないって顔ね」
シルヴィアが笑い、バルトが短く頷いた。
「力は出す。殿下の旗のもとに、俺みたいな折れた剣は集まる」
剣。旗。言葉の重みが、体温を持って戻ってくる。
「……ルゥナ」
俺は少女に向き直る。彼女は小さな拳を握っていた。
「何」
「母さんを助けたいだろう」
「うん」
「そのために、君の足がいる。走れるか」
ルゥナは考え、頷いた。黒曜石の瞳に、硬さの下の芯が灯る。
「走る。なんどでも」
「よし。じゃあ最初の仕事だ。――この街で、一番人が集まる場所を教えてくれ」
「夜市。水路の上の橋。灯りがつくところ」
「そこに、灯りを足す」
言葉にした瞬間、胸の奥で、何かが“カチリ”と音を立てた。玉座の間で凍っていた針が、わずかに動く。白い部屋の温度が、端から色づき始める。
「夜に王が要るなら――俺がなる」
シルヴィアの半面の奥で、目が笑う。バルトが拳を胸に当てる。ルゥナが、空になりかけた革袋をぎゅっと握る。
「ようこそ、夜へ。殿下」
「レオンでいい」
「じゃあ、レオン。今日からここは、あなたの“王都”よ」
扉が開き、冬の風が流れ込む。冷たいのに、どこか澄んだ匂いがした。遠くで鐘が四度鳴る。昼と夜の境目に、足を踏み入れる音がする。
――俺は、ここで王になる。
玉座はもう、必要ない。必要なのは、灯りと、手と、信。夜の街を歩く靴音が、確かにそれを告げていた。
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