第8話 再構築の頁と終わらない祈り
石棺の上に灯る文が消え、広間には再び静寂が戻った。
だが、先ほどまでの“真空の静けさ”とは違う。
胸の奥で微かな鼓動が重なる。俺のものと、遠くの誰かのもの――まるで、離れた場所で同じ拍を刻む心臓があるかのように。
「レオン。今の声……神々の最終意志。二つを重ね、再構築を果たせと」
セリスの囁きは慎重で、それでもどこか震えていた。彼女の剣先がごくわずかに下がる。緊張が解けたのではない。構えるべき敵が“別の形”に変わったと、直感したのだろう。
「虚無を憎むな、か」
自分に言い聞かせるように呟く。
白い息が闇に溶けた。
「上へ戻ろう。審理は続く。……リュナが待ってる」
階段を上がる。足音が白聖堂の骨格に反響し、やがて天井から差し込む光が輪を成した。光の縁に指をかけるようにして最後の段を踏むと、まばゆい白の議場が開けた。
空気の質が変わっている。
さきほどまで攻撃性を帯びていたざわめきは、今や不安と期待の混じった風のように渦を描いていた。祈祷官たちが互いに顔を見合わせ、口元で祈りの文句を結ぶ。祭司長ルドランは立ったまま、目を閉じていた。
「戻ったか、継承者。聖骸は何を告げた」
「記録は生きている。虚無もまた、記録の片翼だと。二つが同時に立てば“頁”は開き、世界は書き換えられる」
ざわめきが一段高まる。
その渦を裂くように、白の柱の陰からリュナが歩み出た。銀の髪が光を弾く。表情は変わらない。だが、その指先にはわずかな緊張が見えた。
「兄さん。……私は虚無。あなたは記録。二つを同時に立たせる?」
「ああ。最終層は滅びの扉じゃない。書き替えの頁だ。俺たちは“消す/残す”のどちらか一方を選ぶために生まれたんじゃない。両方を運ぶために生まれた」
リュナは短く目を伏せる。
その睫毛に、肉眼では分からないほどの微細な震えが走った。
「理屈では、分かる。けれど、虚無保存庫には“逆流”の恐れがある。あなたの〈保存庫〉が開くほど、こちらは引き寄せられる。二つが重なれば、どちらかが飲み込まれる可能性がある」
「なら、繋ぐ導線を作ればいい」
俺は右手の印に意識を浸す。
光が指先から細い糸のように流れ出して、議場の床に一本の線を描いた。白い石に刻まれるのではない。光はただ“そこにある”という存在のまま、円環を形作る。
「〈保存庫〉の副機能“間書(インタリーヴ)”。記録と記録のあいだに“余白”を残す。直接つながない。行間を介して渡す」
セリスが目を見開いた。
祭司長の杖がわずかに揺れる。
議場の空気が、潮の満ち引きのように呼吸する。
「余白……?」リュナが初めて小さく首を傾げた。「虚無と、違うの?」
「違う。虚無は消す。余白は、残したまま“開けておく”」
その言葉を口にした瞬間、幼い日の感覚が胸の底で弾けた。
兄妹で読みかけの本を前に、欄外へ互いの落書きを薄く書き合った夜。文字ではなく、余白に残った息遣い――あれこそ“間書”の原形だったのかもしれない。
「実証を」
祭司長が低く言った。「言葉ではなく、行いで示せ」
俺は頷き、光の円環の内側に小さな“頁”を浮かべた。
そこに映すのは、戦の記録でも、神の威光でもない。
ただの、市井の朝。
パン屋の炉の音。
水を汲む少女の足音。
犬が尻尾を振る影。
祈りの歌が遠くで流れ、笑い声が混ざる。
“ありふれた生”の、一頁。
議場の空気が和らいだのが、肌で分かった。
祈祷官の一人が、無意識に杖の鈴を鳴らした。その鈴が、パン屋の炉の音と一瞬だけ和音を作る。
「私は、ここを消す」
リュナが静かに言い、虚無保存庫の扉を掌に開く。
無色の輪が頁と重なる。記録の粒子が、雪のようにふわりと浮いた。
消える――のではない。
粒子は“輪の縁”で留まり、頁の周囲に薄い霞となって舞う。
中央の記録は残り、縁に“余白のベール”がかかった。
「……消えていない?」リュナが目を瞬かせる。
「間書が緩衝した。虚無は中心ではなく縁を削る。縁が薄い霧となって再配列され……見ろ」
頁の手前に、細い行が一本増えていた。
――“ここに朝があった、と誰かが書くための行”。
議場の何人かが、口元を押さえた。
祭司長は目を閉じたまま、掌で胸元の印を押さえる。
「虚無による“消失”は、全否定ではない。構造を整える“余白作成”へ変換できる」俺は続ける。「消せば平穏になるという仮説は、祈りの喪失を呼ぶ。だが、余白は祈りを収め、届く場所を用意する」
沈黙が落ち、やがて細い息のような囁きがいくつか続いた。
恐れは消えていない。だが、敵意だけの空気ではなくなった。
「……兄さん」
リュナが小さく呼ぶ。「あなたと、もう一段、深く重ねられる」
虚無保存庫の輪が、今度は俺の光の糸にそっと触れた。
抵抗はない。
ただ、少し冷たい水に指を浸すような感触。
糸の上を虚無が滑り、光の頁の縁で薄い霧にほどける。
その時だった。
白聖堂の塔が、大きく震えた。
遠い稲妻のような低音が建物の芯を揺すり、ステンドグラスの影が床を走った。
「塔上に異常――!」祈祷官の叫び。
続いて、外から鐘の乱打。
空に、黒い線が走る。鋼の翼ではない。もっと古い、もっと重たいもの。
――封印兵器の反応。
「誰だ……教国の内部から――」セリスが剣を構え、身を翻す。「迎撃に出る!」
「待て」俺は手を上げた。「この揺れは、攻撃じゃない。……呼ばれている」
肌の下で〈保存庫〉が細かく震える。
視界の隅に、古い記録のラベルが浮いた。
――〈最終層:開示前段〉
――〈呼応条件:記録と虚無の同位相重合〉
重合。
二つの位相を合わせる。
今、この場――俺たちが初めて“同時に”扉へ手をかけたことで、塔の“頁”が反応している。
「リュナ。行こう」
「……ええ」
俺たちは祭司長に向き直る。
「最終層の前段が開く。白聖堂の塔上に“頁”が集まる」
老祭司は目を開けた。瞳は深い川のようだった。
「行け。聖都の祈りはお前たちを拒まぬ。……ただし、忘れるな。人は、お前たちの示す“続き”に、いずれ責を負う」
俺は頷く。
セリスが一歩、俺の隣に並んだ。「供に」
三人で塔階段を駆け上がる。
白のらせん階段は高く、外気が切り込むたび祈りの布がはためいた。
中腹を越えるころ、風に乗って歌の断片が聞こえる。幼い合唱。言葉ではない。呼吸の連なりだけで紡がれる旋律。
塔上へ出た。
眼下に白い都が広がる。
空は割れてはいない。ただ、薄く透けて“向こう側”が見える。
そこに浮かんでいる――一枚の巨大な頁。
紙ではない。石でもない。
質量を持たぬ“可視の余白”。
書かれているのは、神代最後の日の表題だけ。
――〈頁:再構築〉
頁の左右に、二つの台座があった。
片方には、記録の印。もう片方には、虚無の印。
同時に手を置くよう設計されている。
「段取りは分かる?」
問いかけると、リュナは一瞬だけ笑った。「兄さんは昔から、こういう時だけ素直」
「怖いからだよ」
正直に言って、喉の奥が乾いていた。
これを間違えれば、世界の軸を折る。
祈りの場所も、朝のパンの匂いも、余白すらも、すべて。
「私は“縁”を整える。中心はあなたが書いて」
「分かった。……セリス」
呼べば、彼女は短く頷くだけで足音を半歩寄せた。
握られた剣が微かに震え、その震えが俺の背中を真っ直ぐにした。
「やろう」
俺とリュナは、台座に掌を置いた。
同時に、印が熱を帯びる。
記録が立ち上がり、虚無が縁に漂う。
――重合。
――同位相。
視界の端で、白い都が滲んだ。
塔上の風が止まり、鐘が無音のまま揺れる。
時間が平らになった。
頁が、開いた。
そこに最初に走ったのは、俺の筆致ではなかった。
誰のものとも分からぬ、けれど確かに“人の手”の線。
震えながらも、真っ直ぐに進む。
――“ここに祈りがあった”。
続いて、余白に薄い霞が溜まり、リュナの虚無が輪郭を整える。
線は消えない。ただ、過度な濃淡が均されて読みやすくなる。
そこに、俺の記録が追い書きする。
――“祈りは、測れない。
だから、残す。
残したものが争いに向かう時、余白で受け止める。
余白で息継ぎをし、次の行へ進む。”
白い都から、無数の息が上がるのが見えた。
声ではない。祈りでもない。
“読む音”だ。
頁は空にあり、都市は読者となる。
読まれた行は、都市の記憶へ沈む。
「兄さん。……行ける」
リュナの声が震え、しかし揺らがない。
「もう一行。最終層へ繋がる“橋”を」
俺は筆致を整え、最後の一行を記した。
――“二つの手で開く頁に、終わりは書かない。
ここから先は、読む者が綴る。”
瞬間、塔上の光が跳ねた。
頁は折りたたまれ、小さな栞となって空へ舞い上がる。
栞は白聖堂の塔尖に触れ、静かにそこへ沈んだ。
風が戻る。
鐘が音を取り戻す。
遠く、子どもの笑い声が交じる。
都市の喧噪はいつもの色に、しかしどこか透き通って響いた。
祭司長の声が、塔の上まで届いた。「審理の結論を告ぐ。継承者二名、および守護者一名の行為は、神託の第五書に照らし“保留”的正当とする。最終層への進入は、教国の保障のもと、共同で行え」
保留。
正当。
矛盾した判を押しながら、なお先へ進めという宣言。
この都市にとって、これ以上ない最大限の譲歩であり、信頼の形でもあった。
風の中で、リュナが小さく息を吐いた。「……よかった。今日は、誰も消さなくて済んだ」
「今日はな」
俺は笑おうとしたが、喉が先に鳴った。
恐れはまだある。次に開く“本当の最終層”では、行の一本が都市を裂くかもしれない。
それでも。
「セリス、リュナ。行こう。ここで頁を閉じない」
セリスは軽く剣を肩へかけ直し、頷く。「誓いは続行。守るべき背は三つに増えた」
リュナが少しだけ眉を和らげる。「兄さん、守るのは自分の背も入れて」
「それは……頼む」
日が傾き、塔の影が長く伸びる。
白い都を風が渡り、遠くの市場の屋台が片づけを始めていた。
パンの焼ける匂いが、遅れて塔上まで届く。
俺たちは階段を降りた。
白の回廊に差し込む夕光が、きのうまで知らなかった色に見える。
祈祷官の一人が、通りすがりに囁いた。「……朝が、戻ってくる」
セリスが小さく笑った。「戻るのではない。書くのだろう」
リュナが応じる。「余白を残しながら」
俺は二人の声を背に、右手の印を握りしめた。
心臓は、まだ遠いどこかと同じ拍を打っている。
世界の奥底――最終層の扉の向こうで、誰かが静かにページを繰る音がした。
――続きは、ここからだ。
次回 第9話「最終層前夜と三つの鍵」
白聖堂からの保護を得た三人は、最終層へ入るための“鍵”を三種集める必要があると知る。
それは、祈りの鍵(都市)、記録の鍵(封印庫)、虚無の鍵(削除庫)。
それぞれが過去と向き合い、鍵を“書く”儀式に臨む。
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