第6話 虚無保存庫リュナと再会の記録

 風が止んだ。

 廃都アーケルの空は、鉛の板のように重い。

 飛行兵の群れが去った後には、折れた翼と焦げた羽布が残り、微かな金属臭だけが地上に降り積もっていた。


「……妹、なのですね」


 セリスの声は低く、慎重だった。

 俺は頷いた。頷く以外に、言葉が見つからなかった。


「クロード家に、そんな“二つの保存庫”が……」


「幼いころ、家には“鍵の間”があった。誰も近づくなと言われていた部屋だ。

 父も、母も、あの部屋のことになると口を閉ざした。

 ――記録の箱と、虚無の箱。二つは決して同時に開いてはならない、と」


 口にした途端、胸の奥で何かが軋んだ。

 記憶は曖昧だ。だが、触れてはいけない扉に、誰かの小さな手が伸びた光景だけが、やけに鮮明に浮かぶ。


「レオン。追うのですか?」


「追う。あいつは“消す”ために生まれたんじゃない。

 少なくとも、俺はそう信じたい」


 俺は右手の紋章に意識を注いだ。

 〈保存庫〉の奥に、微弱な糸のような反応が揺れている。

 空の向こうへ伸びる光の“航路”。

 それは、同じ血を引く継承者同士だけが辿れるものだ。


「位置がわかる。北東、古い巡礼街道の先。……教国の境界線に向かってる」


「教国領に入れば、包囲網が敷かれます」


「わかってる。それでも行く」


 セリスは短く頷いた。

 「なら、私も行きます。あなたの背を守ると誓った」


 俺たちは廃都を後にした。

 砕けた街路を抜け、乾いた平原へ出る。

 灰の野を渡る風が、低い笛のような音を鳴らした。



 夕暮れ、巡礼街道に出る。

 かつて神殿へ向かう信徒が列をなし、祈りの歌を運んだ道だ。

 今は廃れ、ところどころに倒れた石標が残るのみ。


「足跡。軽い。……リュナだ」


 砂に残る靴跡は小さく、深さが均一だ。

 訓練された身のこなし。余計な重心移動がない。

 その規則正しさは、冷たい意志の痕跡のように見えた。


「待ってろ。話すだけでいい。剣は要らない」


 そう口にした自分の声が、いちばん頼りなかった。


 街道の先で、鈴の音がした。

 やがて霧が広がり、薄青い帳が道を覆う。

 見える。白い影。

 銀髪の少女が、石標の上に腰かけていた。


「遅かったわね、兄さん」


 振り返ったリュナの笑みは、痛いほどに柔らかかった。

 その柔らかさが、逆に距離を際立たせる。


「行かせない。ここで話す」


「話す? いいわ。けれど私は先に“仕事”をする」


 彼女が指先を弾く。

 霧の粒子が集まり、花びらのような光が舞った。

 次の瞬間、足元の石標の文字が消えた。

 ただの無地の石になる。


「やめろ、リュナ」


「祈りの歌も、巡礼者の名も、争いの火種になる。

 歴史は、時に人を狂わせるの。だから“削除”する。

 神々に命じられたのよ。――記録を残し過ぎるな、と」


「命じられたのは、神じゃない」


 気づけば、声が荒くなっていた。


「それは“恐れ”だ。

 人が記録を使って、また戦争を起こすのが怖い。

 だから先に消してしまえ、と。

 ――それは、神じゃなくて、人の側の論理だろ」


 リュナは首を傾げた。

 その所作は幼いころと同じだった。

 ただ、瞳の奥にだけ、氷のような光が宿っている。


「兄さんは、優しいのね。

 けど、優しさで世界は守れない。

 残す記録が多すぎれば、必ず誰かが“正しさ”を奪い合う」


「だから、消す?」


「そう。“無かったこと”にすれば、争いは減る」


「記憶を消された人は、どこへ行く」


 リュナは短く目を伏せた。

 「心の奥底。眠れる場所。痛みが薄れるところ」


「それは守ることじゃない。

 “生かす”ことでもない。

 ――ただ、暗くするだけだ」


 沈黙が落ちた。

 風が霧を揺らし、鈴の音が遠くで細く鳴った。


 セリスが一歩前に出る。

 剣は抜かず、兜も掴まない。声だけが凛としていた。


「リュナ殿。私は封印庫守護の誓約者、セリス・アーデル。

 継承者の伴としてお尋ねします。

 あなたの“削除”は、誰がどの基準で判定するのですか」


「確率です」


 即答だった。

 迷いは欠片もない。


「記録が残ることで、未来に発生する戦争確率。

 閾値を超えるなら“削除”する。

 私の虚無保存庫は、その確率を測る装置でもあるの」


「確率に、祈りは載らない」


 思わず言った。

 我ながら不器用な言葉だ。

 けれど、他に言いようがなかった。


 リュナは肩をすくめ、少しだけ寂しそうに笑う。


「兄さん、あなたはいつもそう。

 手で触れないものを信じる。

でも、私は“触れられないものは計測できない”と思うの」


 彼女が掌を上げる。

 霧の粒子が集まり、輪ができた。

 冷たい光の輪――虚無保存庫の扉。


「行かないでくれ、リュナ」


「ごめんなさい。私は命令に従うしかない。

 それが、クロード家の“もう一つの誓い”だから」


 扉が開く。

 その縁で、銀色の反射が揺れた。

 見覚えがあった。まるで、あの“鍵の間”の鏡だ。


 反射の表面に、幼い自分と、幼いリュナが映る。

 小さな手が、禁じられた扉に伸びる瞬間。

 ふたりの背後で、母の声が震える。


――レオン、リュナ、いけません。

――あなたたちには――


 映像がそこで切れた。

 光の輪が閉じ、反射は消える。


「待て!」


 俺が踏み込むより早く、土塊が爆ぜた。

 道の両脇から、槍が突き出される。

 霧を裂いて現れたのは、教国の審問兵。

 円形の盾と白い外套、面布に刻まれた祈りの文句。

 十数名が半円を描き、俺とセリスを包囲する。


「継承者レオン。ここから先は聖域だ。

 虚無保存庫の継承者はお預かりする。立ち入るな」


 先頭の男が、槍の石突で地面を鳴らす。

 その音に、霧がかすかに鳴いた。


「彼女は“預けるもの”じゃない」


「彼女は神の命令に従う器。

 器は祭壇に置かれるべきだ」


 セリスが半歩、前へ出た。

 その体の重心の低さが、数百回の実戦を語っている。


「退け。ここは継承者の道行きである。

 神の御名を盾に、人の誓いを踏みにじるな」


 審問兵の列が揺れた。

 おそらく、正面から斬り込めば抜けられる。

 だが、ここで血を流せば、リュナとの距離はまた離れる。


 俺は右手の紋章に意識を集中させた。

 〈保存庫〉が開く。

光が螺旋となって、俺たちの前に一枚の“板”を形作る。

 透明な板。内側に文字が流れている。

 記録だ。封印庫に眠る“約定の写本”。


「読むんだ、セリス。声に出して」


 セリスは一瞥し、すぐに理解した。

 深呼吸ののち、朗々と読み上げる。


「“神託の第五書。継承者の通行は、いかなる聖域にも優先される。

 この通行は、守護者の剣によって保証され、祈りに勝る”」


 審問兵の列がざわつく。

 彼らの面布の奥で、迷いが揺れた。

 祈りの言葉は強い。だが、より古い条文は、時に祈りより強い拘束を持つ。


「規定違反だ。そんな文書は――」


「ある。いまここに」


 俺は板を掲げた。

 〈保存庫〉が淡く唸り、板の表面に古い印璽が浮かぶ。

 ――神代印。

 彼らの信仰の最奥に刻まれた、最終の認証。


「……ちっ」


 先頭の男が舌打ちし、槍を引いた。

 「通れ。ただし、聖域に入れば、祭司長の裁可が下る。

 お前たちは“審理”される」


「わかった」


 道が割れ、霧の帳が少しだけ薄くなる。

 その向こう、白い石橋が川にかかっていた。

 巡礼街道は、橋を越えた先で教国領へ続く。


「リュナは?」


 視線を上げる。

 空の高みに、小さな光の点が見えた。

 鳥のように滑り、石橋の先へ消える。


「行く」


 俺は歩き出した。

 橋の中央に差しかかると、急に頭の奥が冷たくなる。

 冷える、というより、空虚が吸い込む感覚。

 虚無保存庫の“匂い”だ。


「兄さん」


 声が、橋の向こうからした。

 霧が割れ、リュナが立っている。

 白い軍服の上衣だけが風に揺れ、裾野の影が長く伸びていた。


「ひとつ、見せるわ」


 彼女は掌を開いた。

 虚無の扉が、花弁のように重なって開く。

 黒ではなく、完全な“無色”。

 そこに、映像が立ちのぼる。


 ――家の廊下。

 夜。雨の匂い。

 “鍵の間”の扉の前で、母が膝をつき、子どもを抱きしめている。


 子どもは二人。

 兄と、妹。

 泣いているのは、妹のほうだ。


――痛いの。

――胸が苦しいの。

――声が聞こえるの。消して、って。


 母は震える手で、妹の額に口づけをした。

 父が振り返る。

 瞳の下に濃い影。

 彼は“鍵の間”の鍵束を握りしめ、ひとつだけ抜く。


――レオン。

――リュナを連れて逃げなさい。

――ここが開けば、二人は一生別々の道を行くことになる。


 映像が揺れた。

 雨が強くなり、雷の音が近づく。

 扉が、静かに、開く。


 ――白い光。

 ――二つの匣。

 ――片方は、羽を閉じた鳥。

 ――片方は、羽根のない空。


 幼い自分の手が伸びる。

 妹の手も伸びる。

 同時に、別々の匣に触れる。


 世界が、割れた。


 映像が消えた。

 橋上に夜の風が通る。

 雨の匂いはないのに、濡れた音だけが耳に残る。


「これが、始まり。

 兄さんは“残す”箱を選んだ。私は“消す”箱を選んだ。

 選んだの。自分の意思で。

 だから――これは罰ではなく、役割」


 リュナの声は淡々としていた。

 けれど、最後の言葉だけがわずかに揺れた。


「違う。あれは、選ばされた。

 痛みから逃れるために。

 声はお前に“消して”と言った。

 でも、声の主は――お前自身じゃない」


 リュナの睫毛が、ほんの少しだけ震える。

 虚無の扉が音も立てずに閉じる。


「兄さん。私はあなたを消したくない。

 けれど、記録はあなたを選んだ。

 だから、ひとつだけ約束して。

 “最終層”には触れないで。

 そこには、神々の最終命令が眠っている。

 それを開けば、私たちは本当に――」


 言葉を継ぐ前に、橋の下から爆ぜる音がした。

 川面から、鋼の杭が伸びる。

 審問兵の後備隊――“拘束礼拝機”。

 祈りの文句を刻んだ鎖が、橋に打ち込まれた。


「退け、継承者! ここは聖域だ!」


 鎖がうなり、橋の上空に魔法陣が展開する。

 重圧。膝が沈む。

 “跪け”という命令が、身体の芯に流れ込む。


 セリスが割って出た。

 羽飾りのない簡素な剣を水平に構え、鎖の連結点を斬る。

 火花。文句が弾け散り、魔法陣が一瞬揺らいだ。


「今だ、レオン!」


 俺は〈保存庫〉を開いた。

 霧の渦中に、古い鐘楼の“心臓”が浮かぶ。

 ひと打ちで街に時刻を知らせた大鐘。

 その亀裂だらけの金属を、俺は高く掲げて叩いた。


 鳴る。

 乾いた音ではない。

 空気の芯を鳴らす、低い音。

 祈りの鎖に重なる別の“秩序”の音だ。


 魔法陣が軋み、拘束の圧が剥がれていく。

 セリスの剣がもう一閃、鎖を払い落とした。


「兄さん」


 顔を上げると、リュナが立っている。

 霧の縁。

 彼女の周りだけ、色が薄い。


「今日はここまで。

 私も、あなたを今は消せない。

 ――だって、まだ話したいもの。

 最終層の前に、きっとまた会う」


 白い軍服が翻り、少女は背を向けた。

 虚無保存庫の扉が、音もなく開く。

 その縁に、雨の夜の鏡が一瞬だけ映った。


「リュナ!」


 呼びかけは霧に吸われた。

 扉は閉じ、残されたのは、冷たい風と沈黙だけだった。



 夜。

 街道から少し外れた廃礼拝堂で、焚き火を起こす。

 天井は抜け、星が鈍い光で覗く。


「“最終層”」


 セリスが火を見つめたまま繰り返した。


「虚無保存庫が警告するほどの何かが、封印庫の最奥にある。

 神々の最終命令……。

 もしそれが“削除”を肯定するものなら、世界はまた閉じる」


「逆だよ」


 自分でも驚くほど、はっきりと言えた。


「最終層は“託す”ためにある。

 消すためじゃない。

 神々はもういない。命令を下す者はいない。

 残っているのは、選ぶ権利だけだ」


 火の粉が空に昇る。

 星の冷えた光に溶ける前、一瞬だけ赤く光る。


「レオン。

 あなたは、その“選ぶ権利”を担える人です」


 セリスの声は静かだった。

 彼女の手が、焚き火の向こうでわずかに震えていた。

 恐れではない。緊張でもない。

 それは、誓いを新たに結ぶときの震えだと、直感でわかった。


「ありがとう。……行こう。

 審理があるなら受ける。

 正面から、記録の意味を示す」


「教国の中心都市“白聖堂”。

 そこで祭司長が審理を行う。

 虚無保存庫の管理者には聖域が用意されるはず。

 リュナ殿もそこに」


「間に合うか」


「間に合わせましょう」


 俺たちは焚き火に砂をかけ、立ち上がった。

 夜の風が頬を冷やす。

 遠くで鐘の音がした。

 どこかの村の時の鐘。

 ひとつ、ふたつ、と数えるうち、不意に胸の奥が熱くなった。


 ――選べ。

 ――残すか、消すか。

 ――祈りを計測することはできない。

 ――けれど、祈ることを残すことはできる。


 風が、古い聖歌の断片を運ぶ。

 誰が歌っているのか、もうわからない歌。

 その旋律は、虚無の静けさよりも、少しだけ温かかった。


「行こう、セリス」


「はい、継承者」


 俺たちは夜の街道に出た。

 白聖堂へ向かう道は長い。

 けれど、背中に宿る〈保存庫〉の重みは、もう“荷物”ではなかった。


 世界を再生するための、記憶の重さだった。


次回 第7話「白聖堂審理と二つの誓い」

教国の中心で開かれる“継承者審理”。

虚無保存庫を是とする祭司長の論と、〈保存庫〉が示す“祈りの記録”。

兄妹は再び対面し、世界の“最終層”へ向けて二つの誓いを立てる。

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