第6話 虚無保存庫リュナと再会の記録
風が止んだ。
廃都アーケルの空は、鉛の板のように重い。
飛行兵の群れが去った後には、折れた翼と焦げた羽布が残り、微かな金属臭だけが地上に降り積もっていた。
「……妹、なのですね」
セリスの声は低く、慎重だった。
俺は頷いた。頷く以外に、言葉が見つからなかった。
「クロード家に、そんな“二つの保存庫”が……」
「幼いころ、家には“鍵の間”があった。誰も近づくなと言われていた部屋だ。
父も、母も、あの部屋のことになると口を閉ざした。
――記録の箱と、虚無の箱。二つは決して同時に開いてはならない、と」
口にした途端、胸の奥で何かが軋んだ。
記憶は曖昧だ。だが、触れてはいけない扉に、誰かの小さな手が伸びた光景だけが、やけに鮮明に浮かぶ。
「レオン。追うのですか?」
「追う。あいつは“消す”ために生まれたんじゃない。
少なくとも、俺はそう信じたい」
俺は右手の紋章に意識を注いだ。
〈保存庫〉の奥に、微弱な糸のような反応が揺れている。
空の向こうへ伸びる光の“航路”。
それは、同じ血を引く継承者同士だけが辿れるものだ。
「位置がわかる。北東、古い巡礼街道の先。……教国の境界線に向かってる」
「教国領に入れば、包囲網が敷かれます」
「わかってる。それでも行く」
セリスは短く頷いた。
「なら、私も行きます。あなたの背を守ると誓った」
俺たちは廃都を後にした。
砕けた街路を抜け、乾いた平原へ出る。
灰の野を渡る風が、低い笛のような音を鳴らした。
*
夕暮れ、巡礼街道に出る。
かつて神殿へ向かう信徒が列をなし、祈りの歌を運んだ道だ。
今は廃れ、ところどころに倒れた石標が残るのみ。
「足跡。軽い。……リュナだ」
砂に残る靴跡は小さく、深さが均一だ。
訓練された身のこなし。余計な重心移動がない。
その規則正しさは、冷たい意志の痕跡のように見えた。
「待ってろ。話すだけでいい。剣は要らない」
そう口にした自分の声が、いちばん頼りなかった。
街道の先で、鈴の音がした。
やがて霧が広がり、薄青い帳が道を覆う。
見える。白い影。
銀髪の少女が、石標の上に腰かけていた。
「遅かったわね、兄さん」
振り返ったリュナの笑みは、痛いほどに柔らかかった。
その柔らかさが、逆に距離を際立たせる。
「行かせない。ここで話す」
「話す? いいわ。けれど私は先に“仕事”をする」
彼女が指先を弾く。
霧の粒子が集まり、花びらのような光が舞った。
次の瞬間、足元の石標の文字が消えた。
ただの無地の石になる。
「やめろ、リュナ」
「祈りの歌も、巡礼者の名も、争いの火種になる。
歴史は、時に人を狂わせるの。だから“削除”する。
神々に命じられたのよ。――記録を残し過ぎるな、と」
「命じられたのは、神じゃない」
気づけば、声が荒くなっていた。
「それは“恐れ”だ。
人が記録を使って、また戦争を起こすのが怖い。
だから先に消してしまえ、と。
――それは、神じゃなくて、人の側の論理だろ」
リュナは首を傾げた。
その所作は幼いころと同じだった。
ただ、瞳の奥にだけ、氷のような光が宿っている。
「兄さんは、優しいのね。
けど、優しさで世界は守れない。
残す記録が多すぎれば、必ず誰かが“正しさ”を奪い合う」
「だから、消す?」
「そう。“無かったこと”にすれば、争いは減る」
「記憶を消された人は、どこへ行く」
リュナは短く目を伏せた。
「心の奥底。眠れる場所。痛みが薄れるところ」
「それは守ることじゃない。
“生かす”ことでもない。
――ただ、暗くするだけだ」
沈黙が落ちた。
風が霧を揺らし、鈴の音が遠くで細く鳴った。
セリスが一歩前に出る。
剣は抜かず、兜も掴まない。声だけが凛としていた。
「リュナ殿。私は封印庫守護の誓約者、セリス・アーデル。
継承者の伴としてお尋ねします。
あなたの“削除”は、誰がどの基準で判定するのですか」
「確率です」
即答だった。
迷いは欠片もない。
「記録が残ることで、未来に発生する戦争確率。
閾値を超えるなら“削除”する。
私の虚無保存庫は、その確率を測る装置でもあるの」
「確率に、祈りは載らない」
思わず言った。
我ながら不器用な言葉だ。
けれど、他に言いようがなかった。
リュナは肩をすくめ、少しだけ寂しそうに笑う。
「兄さん、あなたはいつもそう。
手で触れないものを信じる。
でも、私は“触れられないものは計測できない”と思うの」
彼女が掌を上げる。
霧の粒子が集まり、輪ができた。
冷たい光の輪――虚無保存庫の扉。
「行かないでくれ、リュナ」
「ごめんなさい。私は命令に従うしかない。
それが、クロード家の“もう一つの誓い”だから」
扉が開く。
その縁で、銀色の反射が揺れた。
見覚えがあった。まるで、あの“鍵の間”の鏡だ。
反射の表面に、幼い自分と、幼いリュナが映る。
小さな手が、禁じられた扉に伸びる瞬間。
ふたりの背後で、母の声が震える。
――レオン、リュナ、いけません。
――あなたたちには――
映像がそこで切れた。
光の輪が閉じ、反射は消える。
「待て!」
俺が踏み込むより早く、土塊が爆ぜた。
道の両脇から、槍が突き出される。
霧を裂いて現れたのは、教国の審問兵。
円形の盾と白い外套、面布に刻まれた祈りの文句。
十数名が半円を描き、俺とセリスを包囲する。
「継承者レオン。ここから先は聖域だ。
虚無保存庫の継承者はお預かりする。立ち入るな」
先頭の男が、槍の石突で地面を鳴らす。
その音に、霧がかすかに鳴いた。
「彼女は“預けるもの”じゃない」
「彼女は神の命令に従う器。
器は祭壇に置かれるべきだ」
セリスが半歩、前へ出た。
その体の重心の低さが、数百回の実戦を語っている。
「退け。ここは継承者の道行きである。
神の御名を盾に、人の誓いを踏みにじるな」
審問兵の列が揺れた。
おそらく、正面から斬り込めば抜けられる。
だが、ここで血を流せば、リュナとの距離はまた離れる。
俺は右手の紋章に意識を集中させた。
〈保存庫〉が開く。
光が螺旋となって、俺たちの前に一枚の“板”を形作る。
透明な板。内側に文字が流れている。
記録だ。封印庫に眠る“約定の写本”。
「読むんだ、セリス。声に出して」
セリスは一瞥し、すぐに理解した。
深呼吸ののち、朗々と読み上げる。
「“神託の第五書。継承者の通行は、いかなる聖域にも優先される。
この通行は、守護者の剣によって保証され、祈りに勝る”」
審問兵の列がざわつく。
彼らの面布の奥で、迷いが揺れた。
祈りの言葉は強い。だが、より古い条文は、時に祈りより強い拘束を持つ。
「規定違反だ。そんな文書は――」
「ある。いまここに」
俺は板を掲げた。
〈保存庫〉が淡く唸り、板の表面に古い印璽が浮かぶ。
――神代印。
彼らの信仰の最奥に刻まれた、最終の認証。
「……ちっ」
先頭の男が舌打ちし、槍を引いた。
「通れ。ただし、聖域に入れば、祭司長の裁可が下る。
お前たちは“審理”される」
「わかった」
道が割れ、霧の帳が少しだけ薄くなる。
その向こう、白い石橋が川にかかっていた。
巡礼街道は、橋を越えた先で教国領へ続く。
「リュナは?」
視線を上げる。
空の高みに、小さな光の点が見えた。
鳥のように滑り、石橋の先へ消える。
「行く」
俺は歩き出した。
橋の中央に差しかかると、急に頭の奥が冷たくなる。
冷える、というより、空虚が吸い込む感覚。
虚無保存庫の“匂い”だ。
「兄さん」
声が、橋の向こうからした。
霧が割れ、リュナが立っている。
白い軍服の上衣だけが風に揺れ、裾野の影が長く伸びていた。
「ひとつ、見せるわ」
彼女は掌を開いた。
虚無の扉が、花弁のように重なって開く。
黒ではなく、完全な“無色”。
そこに、映像が立ちのぼる。
――家の廊下。
夜。雨の匂い。
“鍵の間”の扉の前で、母が膝をつき、子どもを抱きしめている。
子どもは二人。
兄と、妹。
泣いているのは、妹のほうだ。
――痛いの。
――胸が苦しいの。
――声が聞こえるの。消して、って。
母は震える手で、妹の額に口づけをした。
父が振り返る。
瞳の下に濃い影。
彼は“鍵の間”の鍵束を握りしめ、ひとつだけ抜く。
――レオン。
――リュナを連れて逃げなさい。
――ここが開けば、二人は一生別々の道を行くことになる。
映像が揺れた。
雨が強くなり、雷の音が近づく。
扉が、静かに、開く。
――白い光。
――二つの匣。
――片方は、羽を閉じた鳥。
――片方は、羽根のない空。
幼い自分の手が伸びる。
妹の手も伸びる。
同時に、別々の匣に触れる。
世界が、割れた。
映像が消えた。
橋上に夜の風が通る。
雨の匂いはないのに、濡れた音だけが耳に残る。
「これが、始まり。
兄さんは“残す”箱を選んだ。私は“消す”箱を選んだ。
選んだの。自分の意思で。
だから――これは罰ではなく、役割」
リュナの声は淡々としていた。
けれど、最後の言葉だけがわずかに揺れた。
「違う。あれは、選ばされた。
痛みから逃れるために。
声はお前に“消して”と言った。
でも、声の主は――お前自身じゃない」
リュナの睫毛が、ほんの少しだけ震える。
虚無の扉が音も立てずに閉じる。
「兄さん。私はあなたを消したくない。
けれど、記録はあなたを選んだ。
だから、ひとつだけ約束して。
“最終層”には触れないで。
そこには、神々の最終命令が眠っている。
それを開けば、私たちは本当に――」
言葉を継ぐ前に、橋の下から爆ぜる音がした。
川面から、鋼の杭が伸びる。
審問兵の後備隊――“拘束礼拝機”。
祈りの文句を刻んだ鎖が、橋に打ち込まれた。
「退け、継承者! ここは聖域だ!」
鎖がうなり、橋の上空に魔法陣が展開する。
重圧。膝が沈む。
“跪け”という命令が、身体の芯に流れ込む。
セリスが割って出た。
羽飾りのない簡素な剣を水平に構え、鎖の連結点を斬る。
火花。文句が弾け散り、魔法陣が一瞬揺らいだ。
「今だ、レオン!」
俺は〈保存庫〉を開いた。
霧の渦中に、古い鐘楼の“心臓”が浮かぶ。
ひと打ちで街に時刻を知らせた大鐘。
その亀裂だらけの金属を、俺は高く掲げて叩いた。
鳴る。
乾いた音ではない。
空気の芯を鳴らす、低い音。
祈りの鎖に重なる別の“秩序”の音だ。
魔法陣が軋み、拘束の圧が剥がれていく。
セリスの剣がもう一閃、鎖を払い落とした。
「兄さん」
顔を上げると、リュナが立っている。
霧の縁。
彼女の周りだけ、色が薄い。
「今日はここまで。
私も、あなたを今は消せない。
――だって、まだ話したいもの。
最終層の前に、きっとまた会う」
白い軍服が翻り、少女は背を向けた。
虚無保存庫の扉が、音もなく開く。
その縁に、雨の夜の鏡が一瞬だけ映った。
「リュナ!」
呼びかけは霧に吸われた。
扉は閉じ、残されたのは、冷たい風と沈黙だけだった。
*
夜。
街道から少し外れた廃礼拝堂で、焚き火を起こす。
天井は抜け、星が鈍い光で覗く。
「“最終層”」
セリスが火を見つめたまま繰り返した。
「虚無保存庫が警告するほどの何かが、封印庫の最奥にある。
神々の最終命令……。
もしそれが“削除”を肯定するものなら、世界はまた閉じる」
「逆だよ」
自分でも驚くほど、はっきりと言えた。
「最終層は“託す”ためにある。
消すためじゃない。
神々はもういない。命令を下す者はいない。
残っているのは、選ぶ権利だけだ」
火の粉が空に昇る。
星の冷えた光に溶ける前、一瞬だけ赤く光る。
「レオン。
あなたは、その“選ぶ権利”を担える人です」
セリスの声は静かだった。
彼女の手が、焚き火の向こうでわずかに震えていた。
恐れではない。緊張でもない。
それは、誓いを新たに結ぶときの震えだと、直感でわかった。
「ありがとう。……行こう。
審理があるなら受ける。
正面から、記録の意味を示す」
「教国の中心都市“白聖堂”。
そこで祭司長が審理を行う。
虚無保存庫の管理者には聖域が用意されるはず。
リュナ殿もそこに」
「間に合うか」
「間に合わせましょう」
俺たちは焚き火に砂をかけ、立ち上がった。
夜の風が頬を冷やす。
遠くで鐘の音がした。
どこかの村の時の鐘。
ひとつ、ふたつ、と数えるうち、不意に胸の奥が熱くなった。
――選べ。
――残すか、消すか。
――祈りを計測することはできない。
――けれど、祈ることを残すことはできる。
風が、古い聖歌の断片を運ぶ。
誰が歌っているのか、もうわからない歌。
その旋律は、虚無の静けさよりも、少しだけ温かかった。
「行こう、セリス」
「はい、継承者」
俺たちは夜の街道に出た。
白聖堂へ向かう道は長い。
けれど、背中に宿る〈保存庫〉の重みは、もう“荷物”ではなかった。
世界を再生するための、記憶の重さだった。
次回 第7話「白聖堂審理と二つの誓い」
教国の中心で開かれる“継承者審理”。
虚無保存庫を是とする祭司長の論と、〈保存庫〉が示す“祈りの記録”。
兄妹は再び対面し、世界の“最終層”へ向けて二つの誓いを立てる。
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