最終部 第2章 空の終わり、食卓のはじまり

 ――空が、近い。


 それが、この旅の最後に見た風景だった。


 風は柔らかく、空気には少しだけ塩の匂いが混ざっていた。

 遠くに見えるのは、青く輝く海。

 その向こうに、雲を突き抜けるような塔が一本。


「ねえ、あれが見える?」

 エルナが指をさす。


「ああ。世界の端――《雲上の塔》。」


『神々が最後に降り立った場所だ。』

 ルーファスが低く唸る。

『だが今は、誰もいない。塔は“終わり”ではなく、“始まり”の記録庫になった。』


 俺は頷き、塔を見据えた。

「なら、最後の料理をそこに置いていこう。」


 塔の内部は静かだった。

 白い石の階段が、延々と天に向かって伸びている。

 一段、また一段。

 足音が、世界の鼓動のように響く。


 途中、壁に刻まれた文字を見つけた。

 それはどこか懐かしい香りのする言葉だった。


“誰かが食べたいと思う限り、世界は続く。”


「……あの子たちの言葉だな。」

 エルナが微笑む。

「覚えてる? “味って、動く”って言ってた子。」


「ああ。

 あれがこの世界の、最初の“哲学”だったんだ。」


 最上階に辿り着いたとき、空がすぐそこにあった。

 雲の切れ間から陽が差し、銀の食卓がひっそりと置かれていた。


 食卓の中央には、空の皿が一枚。

 そこに、世界の終わりと始まりが交わっている。


「ここに、最後の一皿を置こう。」


 俺は鍋を取り出し、火を灯した。

 炎が風に揺れ、光が金色に反射する。

 素材は――何もない。

 でも、それで十分だった。


「この世界のすべては、もう鍋の中にある。」


 リゼのパンの欠片。

 灰の教会で拾った塩。

 子どもたちの笑い声。

 そして、あの日の涙の果実。


 全てをひとつにして、静かに煮込む。


 やがて、香りが立ち上った。

 風が止まり、空が光を落とす。

 雲が割れ、天から無数の光の粒が降り注いだ。


「……見えるか?」


 エルナが息を呑む。

 空の皿の上に、淡い光が形を取っていた。

 それは、最初のスープ――

 俺が異世界に来て初めて作った、“あの一皿”と同じ匂いだった。


 俺は笑った。

「結局、最初に戻るんだな。」


『輪は閉じる。だが、味は残る。』

 ルーファスが静かに言った。

『お前が作ったものは、世界の呼吸のように広がっていく。』


「ユウタ。」

 エルナが小さく呼ぶ。

「これが……最後なの?」


「最後じゃないさ。」

 俺は皿を見つめた。

「このスープは、もう俺のものじゃない。

 誰かが食べれば、また世界が動き出す。

 食卓は、何度でも始まる。」


 彼女が微笑んだ。

「あなたの言葉って、いつも“おかわり”みたい。」


「そりゃ、料理人だからな。」


 二人で笑った。


 風が強くなる。

 塔全体が光に包まれる。

 俺は皿を食卓の中央に置き、両手を合わせた。


「――いただきます。」


 その言葉と同時に、皿が輝き始める。

 光は渦を巻き、空を満たしていく。

 それは、火でも、魔法でもない。

 “食べる”という祈りそのものだった。


 光がやがて静まり、塔の中に穏やかな風が吹いた。

 空の皿には、もう何も残っていなかった。

 でも、そこに立つだけで、確かに満たされた。


 エルナが呟く。

「ねえ、ユウタ。

 この世界、もう大丈夫かな。」


「味を知った世界は、二度と完全には壊れないよ。

 だって、“もう一度食べたい”って気持ちは、滅びない。」


 帰り道、塔を降りる途中で一人の少年とすれ違った。

 まだ幼い顔。手には木の匙。


「……あなたが、料理人のユウタさん?」


「そうだけど、君は?」


「お母さんが言ってたんです。

 “昔、世界を食べさせてくれた人がいた”って。

 だから、僕も料理人になるんだ。」


 俺は微笑み、肩を叩いた。

「いいじゃないか。

 味は伝わる。火は、誰にでも渡せる。」


 少年が笑った。

「じゃあ僕が、次のスープを作ります!」


「期待してるよ。」


 塔を降りたあと、エルナが空を見上げた。

 雲の間に、金色の線が走っている。

 それはまるで、見えない大鍋の中で世界が煮立っているようだった。


『……行くんだろう?』

 ルーファスの声が問う。


「ああ。」


「どこへ?」


「もう決めてない。

 どこでもいいさ。

 誰かが腹を空かせていれば、そこが俺の厨房だ。」


 エルナが苦笑する。

「ほんと、最後まであなたらしいね。」


「それが俺の“第七の味”だよ。」


 夜。

 焚き火のそばで、最後のスープを作った。

 誰のためでもない、自分のための一皿。


 香りは、静かに夜風に溶けていく。

 空を見上げると、星がひとつ、またひとつ光った。

 それは、かつての旅で出会った人々の灯りのようだった。


「みんな、まだ食べてるかな。」


『ああ。

 味は記憶だからな。

 誰かが覚えている限り、お前の料理は生きている。』


 俺は笑って、湯気の中に手をかざした。

「じゃあ、俺ももう一度食べよう。」


 一口飲む。

 温かかった。

 そして、その温かさが胸の奥へ広がる。


 エルナが隣に座る。

「ねえ、ユウタ。

 これで、旅は終わり?」


「いや――これからが始まりだ。」


 風が頬を撫でた。

 空は広く、星はどこまでも続いていた。

 その星々は、まるで無数の小さな食卓の灯りのように瞬いていた。


「この世界は、食べることで回ってる。

 なら、俺たちはその匂いを絶やさなきゃいけない。」


「あなたがいなくても?」


「俺がいなくても、誰かが作るさ。」

 俺は微笑んだ。

「火は、渡したからな。」


 夜明け。


 風が静かに吹き抜ける。

 鍋は空になっていたが、湯気だけがまだ漂っていた。


 ユウタは立ち上がり、最後に空を見上げて呟いた。


「――ごちそうさまでした。」


 その声は風に乗り、

 世界中の食卓へと、静かに届いていった。


――完 ――

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転生したら料理スキルだけチート! 異世界グルメで王や竜まで胃袋で支配しました 妙原奇天/KITEN Myohara @okitashizuka_

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