第三部 第4章 銀の食卓 ― 世界のレシピ ―
風が、白く光っていた。
灰の大地を越え、いくつもの村を渡り歩いたあと、
俺たちは“北端の聖峰”と呼ばれる地に辿り着いた。
そこには、雲よりも高い丘があり、頂には白銀の神殿が立っていた。
『ここが、世界の果てだ。』
ルーファスの声が風に混じる。
『古の神々が最後に食卓を囲んだ場所――《銀の食卓》。』
エルナが空を仰ぐ。
「まるで雪の上に浮かんでるみたい。」
「ああ。でも、これは雪じゃない。」
足元に広がるのは、無数の塩の結晶だった。
白銀の地平線――
そこは、世界を“味付け”した場所だと言い伝えられていた。
神殿の扉を押し開けると、内部には巨大な円卓があった。
長さは百メートルはある。
だが、そこに並ぶ皿はすべて空だった。
かつて神々が宴を開いた跡。
香りも、残り香すらない。
「……誰も、いない。」
『いや、いる。』
ルーファスの瞳が光る。
『この空間そのものが“意識”だ。』
その瞬間、空気が震えた。
天井から光が差し込み、円卓の中央に銀の影が現れる。
人でも竜でもない。
透明な輪郭が、ゆっくりと形を取る。
「――ようやく来たか、料理人。」
その声は穏やかで、同時に底なしの深さを持っていた。
姿を現したのは、銀髪の女神。
瞳は星のように輝き、衣は風そのもののように揺れていた。
「私は“記録者”。
この世界の味を記す者――《レシピア》。」
「世界のレシピを記した女神、か。」
「かつて、神々はこの食卓で“味”を分け合った。
甘味は愛、苦味は試練、酸味は涙、塩味は命、旨味は希望。
五つの味で世界を支えた。
だが、最後の一皿――“第六の味”は封印された。」
「第六の味……?」
「“存在の味”だ。」
レシピアの声が、静かに響いた。
「それを知った者は、この世界のすべてを理解し、やがて消える。」
エルナが息を呑む。
「つまり、その味を作ったら……ユウタは?」
「消える、ということだ。」
俺は少しだけ笑った。
「消えるのは怖いけど――知らないまま終わるほうが、もっと怖い。」
『やれやれ……お前という奴は。』
ルーファスがため息をつく。
『なら、最後まで付き合うさ。』
「ありがとう。」
レシピアが手を差し出す。
その掌に、一枚の銀のレシピカードが浮かぶ。
そこには、文字ではなく“香り”が記されていた。
涙の匂い、焦げの匂い、春風の匂い、血の匂い、土の匂い。
五つの香りが交わり、そして――何もない“空白”があった。
「この空白を、あなた自身の味で満たしなさい。」
俺は鍋を置き、火を灯した。
炎が銀の天井を照らし、影が揺れる。
材料は何もない。
あるのは、世界に残った“記憶”だけだ。
リゼの焼いたパン。
リオンの灰のスープ。
虚無の主の涙。
母の声。
エルナの笑顔。
それらすべてを、心の中で混ぜ合わせる。
――音がした。
包丁が、現実を切り分けるように鳴った。
香りが立ちのぼる。
焦げ、甘み、酸味、涙のような塩気。
それらが溶け合い、銀色の光を帯びてゆく。
『これは……料理じゃない。“世界創造”だ。』
ルーファスが呟いた。
「いや、ただのスープだよ。」
俺は笑って答えた。
スープが完成した。
鍋の中には、透明な液体。
覗き込むと、自分の姿が映っていた。
だがその顔は、どこか懐かしい。
まるで、世界そのものが“俺”を見ているようだった。
レシピアが静かに言う。
「それが、“第六の味”――存在の味。」
「つまりこれは、“この世界そのもの”か。」
「そう。
味わえば、あなたはすべての味を知り、すべての存在と同化する。」
沈黙。
エルナが泣きそうな顔で俺を見つめていた。
「……飲むの?」
「飲むよ。」
「消えるかもしれないのに?」
「それでも、確かめたいんだ。
この世界が、どんな味でできているのか。」
スプーンをすくい、唇に運ぶ。
一瞬、光が弾けた。
甘く、苦く、熱く、冷たい。
生まれたときの記憶、死にかけた痛み、誰かの笑い声――
あらゆる感情が、舌の上で渦を巻いた。
世界の味が、俺の中に流れ込んでくる。
空が光り、塩の大地が輝いた。
遠くの村々の火が灯り、人々が笑い、歌い、食卓を囲む。
全ての命が、ひとつの“味”として溶け合っていった。
そして――静寂。
気づけば、俺は白い空間にいた。
レシピアが微笑んでいた。
「あなたは、“味”のすべてを知った。
だが、それでも消えなかった。」
「……どうしてだ?」
「あなたが“他者と食べる”ことを選んだから。
この味は、分かち合う限り消えない。」
彼女の姿が光に溶けていく。
「これからも、世界は飢えるでしょう。
でも、誰かがあなたの料理を思い出す限り、飢えは希望に変わる。」
光が満ち、世界が再び色を取り戻した。
目を開けると、エルナとルーファスがいた。
風が穏やかで、空は青い。
足元には、銀のスプーンがひとつ落ちていた。
「……帰ってきた?」
エルナが呟く。
「ああ。」
俺は笑い、スプーンを拾い上げた。
「この世界、思ったより旨い。」
エルナが涙を拭って笑う。
「なら、次は何を作る?」
「そうだな……“未来の味”でも。」
ルーファスが空を見上げる。
『お前らしいな。』
夕暮れ。
俺たちは小さな丘の上で鍋を火にかけていた。
湯気が立ちのぼり、雲の間を金色に染める。
エルナがスプーンを差し出す。
「ユウタ、これって……?」
「“世界のレシピ”。
でも、もう難しいことは考えないさ。」
スープをすくい、皆で一口。
風が吹き抜け、星が瞬く。
味は――温かかった。
その夜、世界中の食卓で同じ夢が見られた。
知らない人々が、同じスープを囲む夢。
それは、神々が封印した“第六の味”が、
再び人々の心に戻った瞬間だった。
第三部・完 ―「銀の食卓」編 終幕
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