第三部 第3章 灰のレストラン ― 味を忘れた神父 ―

 地平が、灰色に沈んでいた。


 焦げた森、崩れた町、ひび割れた川。

 風は乾き、空は鈍い銀色。

 俺たちはその荒野を歩いていた。


「……ここ、本当に人が住んでるの?」

 エルナがマントを握りながら言う。


『かつては“聖厨房領”と呼ばれた地だ。』

 ルーファスの声が重く響いた。

『お前の料理が神話になり、人々が祈りのために食卓を囲んだ。

 だが、ある時を境に“味”が禁じられた。』


「信仰が、罪を生んだのか。」

 俺は地面に残る焦げ跡を見つめた。

 そこには、かつて火を灯していた“料理台”の跡があった。


 夕暮れ。

 丘の上に、崩れかけた教会が見えた。

 鐘楼は折れ、壁の隙間から枯れた蔦が垂れている。

 だが、中からかすかな光と――スープの匂いがした。


「……まだ誰かが、料理をしてる。」


 俺たちは慎重に扉を押し開けた。

 そこにいたのは、黒い法衣の男。

 痩せた身体、白髪混じりの頭。

 だが、その目だけが異様な光を帯びていた。


「……旅の者か。」


「料理人だ。」


 男は鍋をかき混ぜながら、微笑んだ。

「神の使いよ。よく戻ってきたな。」


「……俺を知ってるのか?」


「当然だ。」

 男は杖をつき、ゆっくりと近づいた。

「我らは、あなたの料理で救われた民。

 あなたが天を満たしたその日から、我々は“食べること”を祈りとした。」


 教会の奥には、数十人の信徒が並んでいた。

 彼らは手を合わせ、無言で鍋の前に膝をついている。

 鍋の中身は、ただの灰色の液体。

 匂いは――ほとんど、しない。


「これは……?」


「“灰のスープ”。」

 男は誇らしげに言った。

「あなたの味を模倣し、味を消した聖なる食。

 人は味に惑わされ、堕落する。

 ゆえに我々は“無味”を以て救いとした。」


「救い……?」

 俺は眉をひそめた。

「それで人は、生きているのか?」


「生きるとは、罪を耐えることだ。」

 男――神父リオンの声が響く。

「食は快楽を生む。快楽は欲を呼ぶ。

 あなたの料理が世界に満たしを与えた後、人はさらに飢えた。

 だから私は、あなたを否定することで、彼らを救った。」


 信徒たちが一斉に頭を垂れる。

 灰色のスープをすくい、口に運ぶ。

 その表情には、苦しみと恍惚が同居していた。


「味を失うことで、心が清められる。

 これが“食の贖罪”だ。」


「……違う。」

 俺は静かに言った。

「食べるってのは、罪じゃない。

 それは、生きている証だ。」


「証……?」


「誰かと食べる時間が、心を繋ぐ。

 そこに“欲”があるからこそ、人は互いを必要とする。」


 リオンが首を振る。

「それが神の過ちだ。

 あなたが“味”を与えたせいで、我々は欲を知った。

 愛を知り、憎しみを覚え、戦争を起こした。

 だから私は、“味”を封じた。」


「……それは、ただの逃げだ。」


 静寂。

 灰の中で、火が小さく鳴った。


 リオンが杖を上げた。

「ならば、証明してみろ。

 味が、人を救うというなら――この灰の厨房で、料理を。」


 俺は頷いた。

「望むところだ。」


 信徒たちが円を描くように並ぶ。

 彼らの目は祈りと恐怖で揺れていた。


 俺は鍋を取り出し、薪を組み、火を灯した。

 炎が立ち上がると、信徒の中から悲鳴が上がる。

 「火は罪だ!」「匂いが心を汚す!」


 それでも、俺は火を絶やさなかった。


「匂いを恐れるな。

 それは、心がまだ生きている証拠だ。」


 乾いた大地の根を砕き、水を注ぐ。

 焦げた香りが広がる。

 信徒たちの顔が、少しずつ緩む。

 リオンの手が震えた。


「やめろ……その匂いは、罪だ!」


「違う。

 それは“記憶”だ。

 母の台所、家族の食卓、誰かの笑顔――

 お前だって、知ってるはずだ。」


 リオンの瞳が揺れた。

「……私は、妻を救えなかった。」


「?」


「あなたの料理を食べた夜、彼女は泣いていた。

 “こんな幸せ、長く続かない”と。

 そして戦火に巻き込まれ、死んだ。

 あの日の味が、私を苦しめた。

 だから……味を憎んだ。」


 その声は、神ではなく、ただの人の叫びだった。


 俺は鍋の中からスープをすくい、差し出した。

「だったら、もう一度“味”で思い出せ。

 彼女と笑った夜を。」


 リオンは震える手で椀を受け取る。

 一口、口に含んだ瞬間――目から涙がこぼれた。


「……ああ、この匂いだ。

 焦げたパンと……彼女の笑い声。」


 膝をつき、嗚咽がこぼれる。

 信徒たちが静かに見つめる。

 その涙が、床に落ちた瞬間――教会の壁が微かに光った。


 灰が風に舞い、まるで“雪”のように降り注ぐ。


 夜。

 リオンは焚き火の前でスープをすすっていた。

 その顔には、疲れと安らぎが混ざっていた。


「……私は、あなたを憎んでいた。

 だが今はわかる。味は、神ではなく人のものだ。」


「俺も神でいることをやめた。

 だから、もう一緒だ。」


 リオンが笑った。

「なら、もう一度祈らせてくれ。

 ――“いただきます”。」


 その言葉を聞いて、俺は微笑んだ。


 翌朝、教会の鐘が鳴った。

 信徒たちがパンを焼き、スープを分け合う。

 灰に覆われた大地に、わずかな香りが戻っていた。


 リオンが見送りに出てきた。

「この教会を“灰のレストラン”と呼ぶことにした。

 罪ではなく、再生の場所として。」


「いい名前だ。」


 彼が差し出した布袋の中には、温かなパンがひとつ。

 「旅の糧に。」


 俺は受け取り、軽く頭を下げた。


 丘を下りながら、エルナが呟いた。

「ねえ、ユウタ。

 食べ物って、なんでこんなに人の心を動かすんだろうね。」


「たぶん、“生きる理由”がそこにあるからだ。」


『神も人も、腹は減る。

 違うのは、何で満たそうとするか――それだけだ。』

 ルーファスの声が、静かに風に溶けた。


 空の彼方で、朝日が昇る。

 その光はまるで、熱いスープの湯気のように、優しく世界を包んでいた。


第三部・第4章「銀の食卓 ― 世界のレシピ ―」へ続く


“灰のレストラン”が再生の象徴となる中、

ユウタは各地の食卓を巡り、ひとつの伝承を耳にする――。

「世界の果てには、“最後のレシピ”がある」


そこには、神々が封印した「究極の一皿」。

それを食べた者は、“すべての味”を知るという。

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