第13話:影の王、黒の玉座にて。

 王都の地下には、王さえ知らぬ「もう一つの王国」がある。


 それは古の修道団が築いた影の回廊。

 信仰と禁忌、祈りと裏切りが交わり、

 今は“新しい王の玉座”がそこにあった。


 石造りの広間に、黒い炎が灯る。

 その中心で、銀髪の青年がゆっくりと外套を脱いだ。


 ――セドリック・ルヴェ・レオニード。

 王弟にして、黒の修道団を束ねる「影の王」。


 天井の聖画には、王の冠を奪う天使が描かれている。

 それはかつての戒めであり、今や彼の信仰そのものだった。


「……兄上の理想は、あまりに脆い」


 セドリックは玉座に腰を下ろし、

 手にしていた杯を静かに揺らした。

 赤い液体が光を受けて揺れる。


 それは血ではなく、葡萄酒だった。

 けれど、その香りはどこか鉄の匂いを含んでいた。


 背後に控えるのは修道団の司祭たち。

 黒衣の男たちが、ひとり、またひとりと頭を垂れる。


「陛下は民に寄り添う“光の王”を気取っているが、

 民は光を見上げるより、影に怯えて従うほうが早い」


 セドリックの声には皮肉も怒りもない。

 それはまるで、医師が死因を告げるときのように淡々としていた。


「だから、私が治す。

 ――この国の病を、根から」


 司祭たちが一斉に跪いた。


「影の王よ、道を示したまえ」


 静寂の中、ひとつの足音が響く。

 柱の陰から、ひとりの男が現れた。


 長い黒髪、鋭い目。

 傷の走る頬に、深い影。

 ――カイン・ヴァルディス。


 その名を口にした瞬間、空気が変わった。


「……やはり、ここにいたか」

 セドリックが微笑む。

「噂どおり、死人は死なないものだ」


 カインは答えなかった。

 ただ、腰の剣に手を添えた。


「何をしに来た」

「確認だ」

「確認?」

「お前が、どこまで堕ちたか」


 セドリックは笑った。

 その笑みは、氷よりも冷たい。


「堕ちた? 違う、登ったのだ。

 兄の作った“嘘の王国”の上に、

 ようやく現実を築こうとしているだけだ」


「現実……? 民を脅し、支配し、恐怖で縛ることがか?」


「理想で人は救えない、カイン」

 セドリックの声は低く、深かった。

「お前こそ知っているはずだ。

 あの夜、兄が貴族たちを見逃したせいで、

 どれだけの民が焼かれたかを」


 カインの指が、剣の柄を強く握る。

 思い出した。

 炎に包まれた村。

 罪なき者たちの悲鳴。


 セドリックの瞳が、焔のように輝く。


「兄は“罪を背負う王”を気取っていた。

 だが、罪を背負うだけでは誰も救えない。

 だから私は、裁く側に立った。

 王ではなく――神として」


「……お前は神じゃない」

「では何だ? 英雄か? 騎士か? “忠義”の名で命を捨てる者か?」


 カインの目が細くなる。

 その眼差しに、かつての主への忠誠がわずかに揺らいだ。


「セドリック。お前が何を言おうと、

 兄はこの国を“守るために”罪を選んだ。

 だがお前は、“壊すために”正義を選んでいる」


 沈黙。

 長い沈黙のあと、セドリックが立ち上がる。


「ならば、見せてやろう」


 彼が指を鳴らすと、背後の幕がゆっくりと開く。

 そこにあったのは、氷のように冷たい寝台。

 その上に、ひとりの人影が横たわっていた。


 顔には白布がかけられている。

 カインが近づくと、心臓がひときわ高鳴った。


 セドリックが布を取る。

 そこにあったのは――


「……リュシア」


 カインの声が震えた。

 白い花のような髪、閉じたままの瞳。

 それはかつて、カインの婚約者だった女の顔。


「彼女は死んだはずだ」

「死んだ。だが、救いとは形を変えるものだ」


 セドリックが手を伸ばし、彼女の額に触れる。

 その瞬間、微かに瞳が開いた。


 蒼い光。

 それは人のものではなかった。


「黒の修道団が行っていた“魂の再生”だ。

 この国の古い技術を、私は取り戻した。

 人の罪を浄化し、再び生き返らせる――完璧な秩序だ」


 カインが一歩後ずさる。

「お前は、死者を道具にしたのか……」


「違う。これは希望だ」

「それを希望と呼ぶなら、お前はもう人ではない」


 セドリックの瞳に怒りの光が宿る。


「カイン。

 お前は王を愛し、女を失い、そして神を拒んだ。

 だから、何も得られなかった。

 だが私は、全てを手に入れる」


「……なら、その手で滅びを掴むがいい」


 二人の視線が交錯した。

 言葉はもう不要だった。

 剣の音が響く。


 金属がぶつかる瞬間、闇が揺れた。

 黒い炎が天井まで燃え上がる。


 セドリックが笑う。

「兄上は“光”を選んだ。

 だが、俺は影の中で神になる」


 カインが叫ぶ。

「神は、人を救うために生まれるものじゃない!」


 火花が散る。

 鋼の軌跡が交差する。


 そして――

 セドリックの剣が、わずかにカインの肩をかすめた。

 血が地面に落ちる。


 だがカインは退かなかった。


「お前の正義を止めるのが、俺の最後の仕事だ」


 セドリックは静かに笑う。

「ならば、影の王国へようこそ。

 ――最初の罪人として」


 黒い炎が吹き上がった。

 その光の中で、二人の姿が消える。


 どこか遠くで、鐘が鳴った。

 それはまるで、神ではなく“影”の祈りだった。

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