第3話 仮初めの微笑、初めての舞踏会
王都の夜は、まるで宝石箱のようだった。
黄金の灯が街路を照らし、城の尖塔には無数の灯がともる。
その光の中、私は“王子の婚約者”として、舞踏会の会場に立っていた。
――演じるだけ、のはずだった。
胸元にかけられた小さなペンダントは、王子が渡してくれたもの。
“婚約の証”という名目の、ほんとうは嘘の飾り。
けれど、冷たい銀が胸に触れるたび、心臓が痛いほど跳ねた。
広間の中央では、貴族たちが音楽に合わせて踊っている。
ドレスの裾が花のように広がり、笑い声が響く。
そんな中、私はひとり、王子の腕に手を添えていた。
「緊張しているか?」
レオニード殿下――いいえ、“レオニード様”が、柔らかく笑う。
その微笑だけで、世界が少し優しく見えるからずるい。
「は、はい……少しだけ」
「君はよくやっている。今日の目的は、“誰にも疑われないこと”だ」
“誰にも疑われない婚約”。
その言葉に、胸の奥がかすかに痛む。
「君が笑えば、それだけで十分だ。……私は、君に微笑んでいてほしい」
優しい言葉。けれど、その奥にあるものを私はまだ知らない。
――この微笑の裏で、彼が何を隠しているのか。
*
舞踏の幕が上がる。
音楽が鳴り、王子が私の手を取る。
手袋越しの体温が、指先を焦がす。
周囲の視線が集まっても、彼だけしか見えなかった。
「一歩、私の右に。そう……いい」
囁く声が低く、優しく耳をくすぐる。
その瞬間、まるで世界に二人だけしかいないような錯覚に陥った。
――こんなにも心を掴まれてはいけないのに。
曲が終わり、拍手が起こる。
王子が軽く手を上げて応じたあと、私の耳元で小さく囁いた。
「完璧だった。……君はもう、立派な“私の婚約者”だ」
その言葉に、嬉しさと痛みが同時に押し寄せる。
本物ではないと知っているのに、心が勝手に喜んでしまう。
*
舞踏会の終盤、休憩室に向かおうとしたときだった。
廊下の影に立つひとりの男。
黒髪、金の瞳――カイン・ヴァルディス。
「殿下との舞踏、見事でしたね」
皮肉でも嘲笑でもない。
けれど、言葉の温度が冷たすぎた。
「見事、って……そんな」
「貴女は上手い。“偽り”を本物のように見せる演技が」
その声の奥に、怒りとも悲しみともつかない色がある。
彼が一歩近づく。香のような鉄の匂いがした。
「……殿下が笑っていた。あんな顔、久しく見ていなかった」
「それは、いいことじゃないんですか?」
「違う。――あれは、苦しい笑顔だ」
低く、噛みしめるような声。
カインの拳が小さく震えている。
「貴女は、殿下を救っているようで、壊している」
「そんなつもりじゃ……!」
思わず声を上げる。
涙が込み上げそうになるのを、必死でこらえた。
「私は、言われたとおりにしてるだけです。嘘をつくのも、婚約者を演じるのも……!」
「そうだな。君は“命じられたこと”をしているだけだ」
その目が突き刺さる。
まるで鏡のように、私の迷いを映し出していた。
「だが、殿下はもう、君を“演技の相手”として見ていない」
心臓が跳ねる。
言葉の意味が理解できず、口を開きかけて――閉じた。
「……それは、どういう……」
「聞かない方がいい。君が知れば、もう元の世界には戻れない」
カインは踵を返した。
けれど、その背中に、私の声が追いつく。
「カインさん!」
彼の足が止まる。
私は息を切らしながら叫んだ。
「貴方は、どうしてそんなに殿下のことを……」
短い沈黙。
そして、振り返ったカインの瞳には、痛みと祈りが混ざっていた。
「……殿下が私を救った。命も、誇りも、すべて」
低く呟いた声は、まるで懺悔のようだった。
その言葉が何を意味するのか――私はまだわからなかった。
ただ、二人の間にある絆が、想像よりも深いものだと悟っただけ。
*
舞踏会が終わり、王子の控室。
私は彼の隣で、疲れたように座り込んでいた。
「よくやってくれた」
王子の声は柔らかく、けれど少し掠れていた。
「……何か、あったんですか?」
「いや、何も。ただ、少し……懐かしい夢を見た」
彼は椅子に身を預け、遠くを見るように目を細める。
月明かりが頬を照らし、まるで悲しみを溶かすようだった。
「殿下……」
「レオニード、だ」
その名を呼ぶよう促され、戸惑いながら口にする。
「……レオニード様」
彼が微笑んだ。
次の瞬間、ふいに私の髪に触れる指先。
「君の瞳は、あの人に似ている」
鼓動が止まる。
“あの人”――誰のこと?
「けれど違う。君は君だ。……それが少し、救いだ」
その声は、切なさと優しさを混ぜた旋律のようだった。
彼の指が髪を離れ、沈黙が落ちる。
その沈黙の中で、私は悟っていた。
――この人の心は、どこか別の場所にある。
それでも、私は。
「演技でもいいです」
思わず口をついて出た言葉に、自分で驚いた。
「演技でも、誰かの役に立てるなら、それで……」
「違う」
レオニードの声が、低く響いた。
彼の瞳が真っすぐに私を見つめる。
「君は“役”じゃない。少なくとも、私にとっては」
空気が止まる。
心臓が、痛みを通り越して熱くなる。
「でも、殿下は……」
「その呼び方、嫌いだと言っただろう」
彼が静かに微笑んだ。
次の瞬間、ふいにその手が私の頬に触れる。
熱。鼓動。距離。
すべてが一瞬で溶け合う。
「――君を利用しているのは、私のほうかもしれない」
その囁きに、息が詰まった。
けれど彼はそれ以上言わず、ただ目を閉じた。
まるで、罪を抱える人のように。
*
部屋を出ると、廊下の奥にカインの影が見えた。
彼は何も言わず、私を見つめていた。
その視線に宿る痛みが、なぜか王子の表情と重なって見えた。
――この三人の関係は、きっと誰かを傷つける。
それでも私は、もう引き返せない。
仮初めの微笑の下で、心は確かに本物の恋をしてしまっていた。
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