図面の余白

木工槍鉋

赤い線

「この赤い線、何ですか?」

師匠の遺品を整理していて、黄ばんだ青焼き図面を見つけた。外周を斜めに走る一本の赤い線が、小学校の方角へ伸びている。私はそれを手に、事務所で先輩に尋ねた。

「それは松ヶ丘プロジェクトのマスタープランだ。師匠が担当したやつだよ」

懐かしい名を聞いて、胸の奥がざわついた。

翌日、私は現地を訪ねた。図面の赤い線を思い浮かべながら歩く。

集合住宅を抜けると、小さな広場があり、そこから緩やかな歩道が続く。歩道と車道の間には腰の高さほどの植え込みがあり、一定間隔で街路樹のプランターが並ぶ。子どもが勢いよく飛び出そうとしても、必ず視界に入る配置だ。

車道の幅はわざと狭められ、植え込みが微妙に張り出している。直線では走れない。舗装材の色が変わる場所では、ドライバーが自然と速度を落とす。商店街の一階はガラス張りで、店の中から通りが見渡せる。店先にはベンチが置かれ、子どもたちが立ち止まりやすい。

横断歩道の前には花壇が車道に張り出し、車は減速せざるを得ない。縁石は普通より少し高く、小さな子どもなら飛び越えるのに躊躇する高さだ。

派手さはないが、穏やかで人を包み込むような道だった。

「全部、計算されている……」

思わずつぶやく。師匠らしい設計だった。

事務所に戻ると、先輩が静かに言った。

「師匠はあの辺りに住んでたんだ。娘さんが小学校に通っててね」

そして、少し沈黙のあとに続けた。

「でも、設計の前年に病気で亡くなった。十歳だった」

息をのんだ。

「再開発の話が来たとき、師匠は図面に娘の通学路を赤い線で描いた。そして言ったそうだ。『この線上を歩く子どもたちが、絶対に安全でありますように』って」

赤い線は、娘が毎日歩いた道。師匠が何度も一緒に歩いたであろう道。その記憶を頼りに、師匠は街全体を設計したのだ。

私は再び現地を訪れた。放課後の道を、ランドセルを揺らす子どもたちが歩いている。広場で遊び、植え込みに触れ、ガラス張りの店を覗く。花壇のそばで笑い、信号が青になるのを待つ。車は静かに止まり、街全体がやさしい呼吸をしているようだった。

師匠の娘は、ここにいる。

守られながら家路につく子どもたちの中に、永遠に生き続けている。

あの赤い線は、師匠の娘の通学路であり、未来の子どもたちへの祈りだったのだ。

建築とは、形をつくることではない。人の想いを地図に刻むこと――師匠が残した線が、それを教えてくれた。

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図面の余白 木工槍鉋 @itanoma

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