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 しかし、この時期には、世間の“引きこもり”への目が一段と厳しくなっており、甲斐が“聖なる引きこもり”へ到達するまでには、辛く険しい道のりが待っていた。

彼の壮絶な戦いの日々は次のようなものである。

まず数日、学校へ行かなかったことに気づいた両親が、怒気を含んだ足音とともに部屋へ乗り込んできた。

甲斐は抗った。どんな暴言も、どんな脅し文句も、彼の決意を揺るがすことはなかった。

ひたすら無視を決め込み、布団を砦のように抱え、声も表情も一切動かさない。

両親は早々に業を煮やし、「力づくでも連れて行く」という強行策に出たが、甲斐はその手を振りほどき続けた。


 翌日。

両親はついに教師を複数名引き連れ、甲斐の部屋へ雪崩れ込んできた。足音は重く、怒りと焦りを含んだ空気が部屋を押し潰す。

「行くぞ、甲斐くん!」

狭い部屋に男たちの影が差し込み、甲斐の腕を何本もの手が掴んだ。

甲斐は必死に暴れた。爪が食い込み、体をねじり、足をばたつかせる。

だが人数が違いすぎた。

教師たちは無言のまま、まるで御輿のように彼を担ぎ上げた。

廊下へ運ばれる途中、甲斐の足先が壁にぶつかり、痛みが走る。彼は喉が裂けるほど叫び、腰を捻り、抵抗し続けた。

しかし、教師たちはまるで訓練された集団のように微動だにしない。

学校へ連れ込まれ、自席へと押し込まれるや否や、教師の一人が肩を押さえつけた。

「大人しくしろ!授業が始まるぞ!」

その声を聞いた瞬間、甲斐の中で何かが切れた。

机を蹴り上げた。

乾いた衝撃音とともに机が浮き上がり、周囲に教科書が散らばる。

「なっ――!?」

驚いた教師に肘鉄を食らわせ、甲斐は教室の扉へ向かって突進した。

胃の奥が熱く、息が荒い。

視界の端が揺れている。

それでも走る。走るしかない。

「止まれ!!」

廊下に響く怒号。別の教室の教師が飛び出してくる。職員室の扉が開き、教師たちが次々と合流する。

足音が増える。怒声が重なる。

甲斐一人を止めるため、十数人が追いすがる異様な光景。

だが、甲斐は足を止めなかった。

校門へ向かう廊下で二人の教師が左右に広がり、壁となって立ちはだかった。

「ここで止まりなさい!!」

甲斐は迷わず体当たりした。

鈍い衝撃と共に、教師の身体がよろけて倒れる。その隙間をすり抜け、土埃の舞う校庭へ駆け出した。

息が切れ、足が悲鳴を上げる。喉は乾き、酸素がうまく吸えない。

それでも走る。

ここで捕まれば、ゲームに戻れない。心が死ぬ。

校門を抜け、街路に出た瞬間、甲斐の胸に小さな希望が灯った。そこから家まで、彼は一度も振り返らず、ただ道路を蹴り続けた。

昼間の家には両親はいない。

だから学校から逃げ切れば、ほぼ勝ちが確定する。

家に到着すると、玄関の鍵を震える手で閉め、階段を駆け上がり、自室へ飛び込む。

息を整えることも忘れ、甲斐は両手でコントローラーを掴んだ。

――帰ってきた。

たったそれだけのことで、胸の奥がじわりと温かくなる。

こうして、甲斐はようやくゲームにありつけた。

この、馬鹿げた死闘の日々は――

一ヶ月以上も続いた。


 何度同じ手口で突破されても学習しない学校側だったが、“引きこもり生徒がいる”という事実が世間へ広まり、全国的な非難が噴出し始めた頃、ついに学校はさらなる強硬策に乗り出した。

その朝。

甲斐が目を覚ますと、全身が太いロープでぐるぐる巻きにされていた。手足どころか指一本動かせない。まるで宅配便の大きな荷物である。

いつものように教師が家を訪ねてきて、ロープごと甲斐を担ぎ上げ、学校へと運び込む。

到着して自席に置かれても、拘束は一切解かれない。

甲斐は芋虫のように身をくねらせ、呻き声を上げるが、「うるさい」と言わんばかりに、口にはガムテープが貼られ、声の自由まで奪われた。

放課後には、また担ぎ上げられて家へ戻され、ベッドに放り込まれる。

しかし拘束は解かれない。

食事と排泄は母親の手助けが必要という、屈辱的な日々が続いた。

こうした“拘束されたまま学校と家を往復するだけの生活”は、一週間続いた。

だが、一週間目で学校側に想定外の問題が発生した。

――臭いである。

風呂に入れず、衣服も変えられず、ロープに締め付けられた身体は汗と湿気を溜め込み、甲斐は強烈な悪臭を放ち始めた。

家族、クラスメイト、教職員……誰もが鼻をひそめた。

当然である。だが、生真面目病に侵された学校側は、その当然の未来を予測できないのだ。


学校では三日間に及ぶ対策会議が開かれた。

議論は白熱し、意見の食い違った教師同士が罵倒し合い、ついには胸ぐらを掴む者まで現れた。

「このままでは授業にならん!」

「ではどうするんだ!風呂に入れるのか!」

「拘束を解くのは危険すぎるだろう!」

結果、三日間かけて導き出された結論は――「ロープで拘束したまま洗う」という、あまりにも短絡的なものであった。


甲斐はロープに巻かれたまま風呂場へ運ばれ、教師たちが液体石鹸を乱暴に浴びせて洗い始めた。

甲斐は転がされ、仰向けにされ、うつ伏せにされ、されるがまま泡まみれにされていく。

だが、石鹸がロープにべっとり絡みついたことで、ロープ自体が滑りやすくなっていることに甲斐は気づいた。

――今だ。

甲斐は全身を使って暴れ始めた。

泡で滑りやすくなった身体がロープの中でもがき、軋み、少しずつ隙間を広げていく。さらに、この一週間で痩せたことも幸いし、腕がスポッと抜けた。

「ちょっ、ちょっと!?抑えろ!抑えろ!!」

教師たちは慌てふためくが、甲斐の身体はツルツルと滑り、まるで巨大なナメクジのように捕まえられない。

「うぃやーー!!」

甲斐は意味不明の叫びを上げながら暴れまくり、ついにロープから完全に脱出することに成功した。

全裸のまま、身体中泡だらけで風呂場を飛び出し、自室へ疾走する。

そして扉を閉め、箪笥、勉強机、棚など、動かせるものをすべて使ってバリケードを構築した。

「ここを開けろ!甲斐!!」

「危険だぞ!出なさい!!」

教師たちは扉を叩き続けるが、甲斐の返答はただの狂笑だった。

「うひゃひゃひゃ!バーカバーカ!僕の勝ちだ!僕はもう二度とこの扉から出ない!!」

一週間にわたる拘束生活で、すでに正気の糸はどこかへ切れていた。

しかし彼にとっては、これが“自由”の絶叫だった。


 数日後、甲斐はなけなしの小遣いをはたいて業者に依頼し、木製の扉を鉄扉に改造した。

こうして甲斐は、ついに部屋から一歩も出ない生活へ突入し、月日はそのまま静かに流れていった。



――――――――――――――――――――――――――



 停滞した時間が三時間ほど経過した。

依然として駿河は私を睨みつけ、室内に籠もっている甲斐は、相変わらず呑気にゲームを続けている。

私は暇つぶしのように口笛を吹きながら、駿河の非難がましい視線を軽く受け流し続けた。

やがて駿河は、睨むのをようやくやめ、わずかに目を伏せ、長く細いため息を洩らした。

その直後――

彼が小さく呟いた。

刹那、ゲームに夢中だった甲斐の手がぴたりと止まった。

その光景は、どこか神秘的ですらあった。

――十年間、錆びつき、誰にも触れられず、閉ざされ続けていた“開かずの扉”。

その扉が、不快な金属音を立てながら、ついにゆっくりと動き出す。

隙間から差し込んだ陽光が、長年積もっていた埃をふわりと舞い上がらせ、その粒子が光を受けてキラキラと輝く。

部屋に、風の通る音がしたような気がした。

「……一緒にゲームをやらないか?」

その言葉は、十年閉ざされていた扉を開く、まさに“魔法の言葉”であった。

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