—6—
しかし、この時期には、世間の“引きこもり”への目が一段と厳しくなっており、甲斐が“聖なる引きこもり”へ到達するまでには、辛く険しい道のりが待っていた。
彼の壮絶な戦いの日々は次のようなものである。
まず数日、学校へ行かなかったことに気づいた両親が、怒気を含んだ足音とともに部屋へ乗り込んできた。
甲斐は抗った。どんな暴言も、どんな脅し文句も、彼の決意を揺るがすことはなかった。
ひたすら無視を決め込み、布団を砦のように抱え、声も表情も一切動かさない。
両親は早々に業を煮やし、「力づくでも連れて行く」という強行策に出たが、甲斐はその手を振りほどき続けた。
翌日。
両親はついに教師を複数名引き連れ、甲斐の部屋へ雪崩れ込んできた。足音は重く、怒りと焦りを含んだ空気が部屋を押し潰す。
「行くぞ、甲斐くん!」
狭い部屋に男たちの影が差し込み、甲斐の腕を何本もの手が掴んだ。
甲斐は必死に暴れた。爪が食い込み、体をねじり、足をばたつかせる。
だが人数が違いすぎた。
教師たちは無言のまま、まるで御輿のように彼を担ぎ上げた。
廊下へ運ばれる途中、甲斐の足先が壁にぶつかり、痛みが走る。彼は喉が裂けるほど叫び、腰を捻り、抵抗し続けた。
しかし、教師たちはまるで訓練された集団のように微動だにしない。
学校へ連れ込まれ、自席へと押し込まれるや否や、教師の一人が肩を押さえつけた。
「大人しくしろ!授業が始まるぞ!」
その声を聞いた瞬間、甲斐の中で何かが切れた。
机を蹴り上げた。
乾いた衝撃音とともに机が浮き上がり、周囲に教科書が散らばる。
「なっ――!?」
驚いた教師に肘鉄を食らわせ、甲斐は教室の扉へ向かって突進した。
胃の奥が熱く、息が荒い。
視界の端が揺れている。
それでも走る。走るしかない。
「止まれ!!」
廊下に響く怒号。別の教室の教師が飛び出してくる。職員室の扉が開き、教師たちが次々と合流する。
足音が増える。怒声が重なる。
甲斐一人を止めるため、十数人が追いすがる異様な光景。
だが、甲斐は足を止めなかった。
校門へ向かう廊下で二人の教師が左右に広がり、壁となって立ちはだかった。
「ここで止まりなさい!!」
甲斐は迷わず体当たりした。
鈍い衝撃と共に、教師の身体がよろけて倒れる。その隙間をすり抜け、土埃の舞う校庭へ駆け出した。
息が切れ、足が悲鳴を上げる。喉は乾き、酸素がうまく吸えない。
それでも走る。
ここで捕まれば、ゲームに戻れない。心が死ぬ。
校門を抜け、街路に出た瞬間、甲斐の胸に小さな希望が灯った。そこから家まで、彼は一度も振り返らず、ただ道路を蹴り続けた。
昼間の家には両親はいない。
だから学校から逃げ切れば、ほぼ勝ちが確定する。
家に到着すると、玄関の鍵を震える手で閉め、階段を駆け上がり、自室へ飛び込む。
息を整えることも忘れ、甲斐は両手でコントローラーを掴んだ。
――帰ってきた。
たったそれだけのことで、胸の奥がじわりと温かくなる。
こうして、甲斐はようやくゲームにありつけた。
この、馬鹿げた死闘の日々は――
一ヶ月以上も続いた。
何度同じ手口で突破されても学習しない学校側だったが、“引きこもり生徒がいる”という事実が世間へ広まり、全国的な非難が噴出し始めた頃、ついに学校はさらなる強硬策に乗り出した。
その朝。
甲斐が目を覚ますと、全身が太いロープでぐるぐる巻きにされていた。手足どころか指一本動かせない。まるで宅配便の大きな荷物である。
いつものように教師が家を訪ねてきて、ロープごと甲斐を担ぎ上げ、学校へと運び込む。
到着して自席に置かれても、拘束は一切解かれない。
甲斐は芋虫のように身をくねらせ、呻き声を上げるが、「うるさい」と言わんばかりに、口にはガムテープが貼られ、声の自由まで奪われた。
放課後には、また担ぎ上げられて家へ戻され、ベッドに放り込まれる。
しかし拘束は解かれない。
食事と排泄は母親の手助けが必要という、屈辱的な日々が続いた。
こうした“拘束されたまま学校と家を往復するだけの生活”は、一週間続いた。
だが、一週間目で学校側に想定外の問題が発生した。
――臭いである。
風呂に入れず、衣服も変えられず、ロープに締め付けられた身体は汗と湿気を溜め込み、甲斐は強烈な悪臭を放ち始めた。
家族、クラスメイト、教職員……誰もが鼻をひそめた。
当然である。だが、生真面目病に侵された学校側は、その当然の未来を予測できないのだ。
学校では三日間に及ぶ対策会議が開かれた。
議論は白熱し、意見の食い違った教師同士が罵倒し合い、ついには胸ぐらを掴む者まで現れた。
「このままでは授業にならん!」
「ではどうするんだ!風呂に入れるのか!」
「拘束を解くのは危険すぎるだろう!」
結果、三日間かけて導き出された結論は――「ロープで拘束したまま洗う」という、あまりにも短絡的なものであった。
甲斐はロープに巻かれたまま風呂場へ運ばれ、教師たちが液体石鹸を乱暴に浴びせて洗い始めた。
甲斐は転がされ、仰向けにされ、うつ伏せにされ、されるがまま泡まみれにされていく。
だが、石鹸がロープにべっとり絡みついたことで、ロープ自体が滑りやすくなっていることに甲斐は気づいた。
――今だ。
甲斐は全身を使って暴れ始めた。
泡で滑りやすくなった身体がロープの中でもがき、軋み、少しずつ隙間を広げていく。さらに、この一週間で痩せたことも幸いし、腕がスポッと抜けた。
「ちょっ、ちょっと!?抑えろ!抑えろ!!」
教師たちは慌てふためくが、甲斐の身体はツルツルと滑り、まるで巨大なナメクジのように捕まえられない。
「うぃやーー!!」
甲斐は意味不明の叫びを上げながら暴れまくり、ついにロープから完全に脱出することに成功した。
全裸のまま、身体中泡だらけで風呂場を飛び出し、自室へ疾走する。
そして扉を閉め、箪笥、勉強机、棚など、動かせるものをすべて使ってバリケードを構築した。
「ここを開けろ!甲斐!!」
「危険だぞ!出なさい!!」
教師たちは扉を叩き続けるが、甲斐の返答はただの狂笑だった。
「うひゃひゃひゃ!バーカバーカ!僕の勝ちだ!僕はもう二度とこの扉から出ない!!」
一週間にわたる拘束生活で、すでに正気の糸はどこかへ切れていた。
しかし彼にとっては、これが“自由”の絶叫だった。
数日後、甲斐はなけなしの小遣いをはたいて業者に依頼し、木製の扉を鉄扉に改造した。
こうして甲斐は、ついに部屋から一歩も出ない生活へ突入し、月日はそのまま静かに流れていった。
――――――――――――――――――――――――――
停滞した時間が三時間ほど経過した。
依然として駿河は私を睨みつけ、室内に籠もっている甲斐は、相変わらず呑気にゲームを続けている。
私は暇つぶしのように口笛を吹きながら、駿河の非難がましい視線を軽く受け流し続けた。
やがて駿河は、睨むのをようやくやめ、わずかに目を伏せ、長く細いため息を洩らした。
その直後――
彼が小さく呟いた。
刹那、ゲームに夢中だった甲斐の手がぴたりと止まった。
その光景は、どこか神秘的ですらあった。
――十年間、錆びつき、誰にも触れられず、閉ざされ続けていた“開かずの扉”。
その扉が、不快な金属音を立てながら、ついにゆっくりと動き出す。
隙間から差し込んだ陽光が、長年積もっていた埃をふわりと舞い上がらせ、その粒子が光を受けてキラキラと輝く。
部屋に、風の通る音がしたような気がした。
「……一緒にゲームをやらないか?」
その言葉は、十年閉ざされていた扉を開く、まさに“魔法の言葉”であった。
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