『最後の答案』

すまげんちゃんねる

最後の答案

深町讓の記憶は、夕暮れの紫陽花のように滲み始めていた。元高校国語教師。言葉を紡ぎ、多くのものを生徒に「譲り」、与えることを生業としてきた彼にとって、言葉を失うことは存在が侵食されるに等しい恐怖だった。


その日も縁側で庭を眺めていると、制服姿の少女、桐谷沙雪が音もなく現れた。学校をまた休んだのだろう。讓は何も聞かず、麦茶を差し出す。その儚い魂にとって、この場所は唯一の避難所だった。


「先生」と沙雪が呟く。「幸せって、頭が良くないと見つけられないのかな」


父親に罵られた後の言葉だった。その問いは、讓の胸に深く突き刺さる。教師として無数の問いに答えを与えてきたが、この根源的な問いに彼の言葉は無力だった。そして悟る。いずれ自分は、目の前の少女の顔も名前も忘れてしまうだろうと。


だから、決めた。記憶というインクが涸れ果てる前に、この少女のためだけに、人生を懸けた「最後の答案」を作ろうと。


書斎の机で、妻・悠の形見である万年筆を握る。答案用紙に「問:幸せとは何か。」と記す。だが、そこからが続かない。「愛情」「努力」。空虚な単語が脳裏を漂う。


夢に見るのは職員室で笑う悠や、感謝を伝えてきた生徒の姿。輝かしい記憶も、朝には色褪せ、靄のかかった現実との落差が彼を苛んだ。沙雪は日に日に影を濃くし、腕の痣が増えた。心を閉ざした彼女に、讓の言葉は届かない。


ある日、学校から、沙雪が家出したとの電話が入った。


頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。自分のせいだ。讓は書斎に籠り、再び万年筆を握った。「沙雪君のために」。その一点だけが、混濁する意識の中で揺るがぬ灯火だった。何度も書き損じ、紙を丸めては捨てる。言葉が、思い出が、指先からこぼれ落ちていく。それでも、彼はペンを止めなかった。


家出から三日目の夜、雨が世界を叩いていた。玄関の前に、ずぶ濡れの人影があった。全てに疲れ果てた沙雪だった。讓は静かにドアを開け、何も言わずに彼女を中に招き入れた。温かいタオルとココアを差し出す。


少し落ち着いた彼女の前に、一枚の答案用紙をそっと置いた。インクが所々滲み、文字は拙く、震えていた。


【答案用紙】


問:幸せとは何か。


答:


その横には、たった一行。


「きみの話を聞かせてくれるかい」と、誰かが隣にいてくれること。


用紙には、古い卒業アルバムの写真がクリップで留められていた。美術教師だった悠と、生徒たちが屈託なく笑い合っている写真だ。讓は震える指で、写真の中の一人の少女を指差した。


「この子も…君と同じで、絵が好きだった。だが…」


言葉が続かない。記憶の糸が、そこでぷつりと切れた。


だが、沙雪にはもう十分だった。写真の中、その少女の隣で、悠先生が身を乗り出すようにして話を聞いていた。評価するのでも、指導するのでもない。ただ、あなたの存在そのものが嬉しいのだと、全身で語っているようだった。


それが、沙雪がずっと渇望していたものだった。


次の瞬間、彼女の瞳から大粒の涙がとめどなく溢れ出した。答案用紙を胸に抱きしめ、声を殺して泣きじゃくる。讓は、そんな彼女の頭を、何もかも忘れ去ろうとしている曖昧な笑顔で、ただ優しく、ゆっくりと撫で続けた。


一年後、施設の庭で、讓は車椅子に座っていた。庭の紫陽花が静かに咲いている。彼の視線は穏やかだが、その焦点はどこか遠くを漂っていた。


「先生、こんにちは」


現れたのは桐谷沙雪だった。一年前の影は消え、瞳には芯の通った光が宿る。讓の隣に腰を下ろすと、スケッチブックを開いた。彼が自分を認識しているかは分からない。それでも、彼女は微笑んで語りかける。


「公園の噴水を描きました。光が当たって、虹みたいでしょう?」


讓は無反応だったが、沙雪は続ける。

「悠先生なら『命が弾けてるみたいね』って言ったかな。先生なら…『光源と陰影の対比が的確だ』なんて言うかもしれませんね」

彼女はくすりと笑う。答えは返ってこない。それでよかった。先生がそうしてくれたように、今度は自分が彼の静寂に寄り添う。それが彼女の見つけた幸せだった。


同じ頃、息子の賢は父の書斎を整理していた。ゴミ箱の紙屑に手を伸ばし、止まった。丸められた無数の紙。その一つを広げると、震える文字があった。


『幸せとは、愛する人の記憶である』


父の血を吐くような苦闘と、それが人生をかけた問いであったことを知る。賢は、今まで知らなかった父の深い愛情に胸を打たれ、静かに目頭を熱くした。


机には、インクの切れた万年筆が横たわっていた。賢はそれをそっと手に取ると、新しいインクカートリッジを慣れた手つきで交換した。カチリ、と小さな音が響いた。


数ヶ月後、沙雪はアトリエで大きなキャンバスに向かっていた。描いているのは、光に満ちた一枚の絵。公園で笑う人々、木漏れ日の下でスケッチをする自分。その笑顔の中心に、彼女は二人を描き加える。太陽のような悠先生と、隣で全てを包み込むように穏やかに微笑む、讓先生。


彼女はもう問わない。答えを生き、描いているのだから。


深町讓が遺した最後の答案は、白紙ではない。それは、一人の少女の未来というキャンバスの上に、そして、彼を愛した人々の心の中に、永遠に消えない鮮やかな色彩となって、確かに描き続けられていく。

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