第2話 掃除道具ですか? いいえ、武器です
甘い香りがほんのりと漂う店内で、掃除道具で武装した男爵令嬢と丸腰の男爵家の居候が睨み合っている。うっかり、この現場を訪れてしまった人物がいたならきっと、「これってどういう状況なんだろう?」と疑問に思い、そっと扉を閉めて去っていくことだろう。
「頼まれてもいないのに助言ですって?貴方って、よ~~~っぽど暇で、なぁ~~~んにも考えることがないのかしらぁ~~~?」
お菓子を買いに来た子供たちに向けるものとは違う、寒気を呼び起こす笑顔。カトラが放つ、凄まじい殺気に怯んだローイがじりじりと後退り、彼女はじりじりと前進する。
「あのねぇ~?あの男爵には絶っっっ対に連れて来られないだろうと考えて、光り輝く貴公子の御名前を出しただけなのよおぉ~?本当に彼と結婚したいだなんて、私、これっぽっちも願っていないのよぉ~?」
一定の距離を保って移動していた二人は店の外までやって来て、偶然通りかかった男性をぎょっとさせる。箒を剣、塵取りを盾のように持ち構えたふくよかな体型の女性が怯えた表情の男性を追い詰めていっているのだから、何が起こっているのだと混乱するのも致し方ないかもしれない。街灯の下で井戸端会議に花を咲かせていた御婦人方も閉口して、異様な男女に釘づけだ。
「貴方って口を開けば私のことを白豚だとか、夢見がちな愚か者だとか、庶民の血を引く半端者の貴族だとか罵るけれど……貴方こそ、鏡をしっかりと見ているのかしら?」
「あ、当たり前だ!貴族たる者、身だしなみには気を使っているに決まっているだろう!」
「あらあらぁ~、それじゃあ目が悪いのかしら?それとも、頭が不具合を起こしているのかしら?貴方って髪の生え際がそれなりに後退しているし、頭のてっぺんも、まあまあ薄くなっているわよ?焦げ茶色の髪をしているから、隙間の地肌が目立つのよねぇ~。それ以外の毛は無駄に濃いのに、不思議よねぇ~?」
頭髪は薄いが体毛は濃いことを、ローイは気にしていた。カトラの言葉が槍となって心に突き刺さり、彼はよろめいた。だが、カトラは攻撃の手を緩めない。
「身に着けているものは上等なのに組み合わせが悪いから、貴方って、とってもダサい印象を他人に与えているの。お気づきかしらぁ~?」
気づいていなかったローイの膝が崩れ落ちる。
「確かに私は太っているわよ。否定はしないわ。けれどね、容姿を否定されて傷つかないなんてことはないの。他人を傷つけて悦に入っているクソッタレな貴方に、私から言葉を贈ります。私が夢見がちな白豚なら、貴方はもれなくハゲ散らかす運命のとんだ勘違いクズ野郎よ!!!スカスカの頭によぉ~く刻み込んで毛根を刺激することね!!!」
天高く箒を振り上げたカトラに恐れをなし、ローイは情けなく逃走を図るが、足が縺れて転倒してしまった。それを好機と捉えたカトラは石畳の上に転げたローイに素早く接近し、箒で彼の体を容赦無く何度も殴る。頭を狙わないでやったのは、せめてもの情けか狙いが定まらなかっただけか。殴るのに必死な彼女には分からない。
「はしたないぞ、カトラ!?いでっ!それでも、男爵ぅ、令嬢か!?あだぁっ!」
「今の私は紛うことなき庶民ですので!あんな家に未練なんてないのよ、貴方と違ってね!跡取りの席は空いているのだから、貴方がさっさと爵位を継げば良いじゃないの!欲しかったのでしょう、跡取りの座が!私を蹴落とすことに必死になっていたのだから!」
貴族然として振舞うが、実のところローイは貴族ではない。彼の母親ビュルギャは政略結婚で伯爵家に嫁いだのだが、素行の悪さが災いして離縁される。一人息子のローイは伯爵家の爵位継承権を剥奪され、母親と共にアスクロー男爵家に居候する身となった。この時、男爵家の人々の不手際で、母親を世帯主とする新しい戸籍が作られた為、ローイ母子は男爵家の血縁である一般人となった――彼らはそれを全く認識していないようだが。それでもローイには男爵家の爵位継承権が与えられており、存命であった頃の祖父母やカトラの実父がローイ母子を不憫に思って甘やかしに甘やかしたので、勘違いは今尚続いているようだ。
「勿論、次代の男爵は私に決まっている!お前が婿をとったとしても、私がアスクロー男爵だ!いや、そんなことよりも、我が身を心配するんだな、カトラ!いででっ!?」
ローイの口を塞いでやろうと箒を振り回す腕により一層力を籠めてやるが、彼は口を開くことを諦めない。
「作家になりたいという馬鹿な夢を追って、家を飛び出し、夢破れて、ちんけな菓子屋を営んで細々と暮らす哀れな女になったお前の将来を悲観して、叔父上は結婚相手を探してやると仰ったんだ!救いの手を振り払うなんて、お前は愚かだ……っ!」
一方的にローイを殴打していたカトラの動きが止まる。逆転する好機だと考えたローイがべらべらと捲し立てているが、カトラの耳に雑音は届いていない。彼女の頭の中は別のことでいっぱいになっているのだ。
『魔法の胡桃を食べてリスになってしまった王子様は、隣の国の綺麗な王女様の口づけで人間の姿に戻りました?何なんだ、この下手糞でしかない話は!?人真似をしているくせに何一つとして面白くない!』
『この程度で作家になろうだなんて、お前は馬鹿だな!世の作家たちはお前を見下すに違いない。才能のないヘボ作家だと。何もできない白豚のくせに夢を見るんじゃない!』
幼いカトラは確かに既存の物語を真似た。真似ることで自分のやり方を見つけていこうと考えていたからで、それでも懸命に物語を考えたのだ。じっくりと読みもしないでカトラの物語を否定し、彼女の夢までも否定したローイは奪い取った雑記帳を広げ、祖父母や父親、伯母に見せつけると醜く笑いながら、それを破り捨てた。その様を大人たちは楽しい余興だと言って、笑って見ていた。
「……五月蠅いのよ、コノヤロウ!!!」
遠い日の忌々しい記憶が鮮明に蘇り、怒りに支配されたカトラは箒と塵取りを放り、ローイに体当たりをした。不意を突かれた彼は咄嗟に反応できず、石畳に尻餅をついて、呆然としている。
「あの男爵に爵位を継げだなんて言われたことはないし、政略結婚にも利用できないと太鼓判を押されたから、あの家を出たのよ。私には価値がないのだと呪いの言葉を吐き続ける魔物と一緒にいたくないから、捨ててやったのよ!!」
このまま男爵家に居続けてはカトラの心が壊れてしまう――いや、壊れる寸前だったのかもしれない。現状を打破したいと願ったカトラは外の世界に出ていくことから始めたのだ。
「細々と経営しているけれど、自分が働いて得たお金で生活していることの何がいけないというの?働きながら、叶うかも分からない夢を追い続けることが恥ずかしいというの?御生憎様ね、私はちっとも恥ずかしくないのよ!!!」
ディーサ・カトラ菓子店はカトラ一人の力で開いた店ではない。何も持たない非力なカトラが独りでも生きていけるようになりたいと願い、母方の伯父と従姉のディーサが力を貸してくれて、成し得たのだ。彼らが忍耐強く見守ってくれているから、カトラは生活していく力を身につけられたのだ。因みに、アスクロー男爵家は菓子店にびた一文として出資していない。
「……成金の血を引いている庶民のくせに偉そうな口を利くな!弁えろ!」
堂々としているカトラに対抗心を燃やし、体勢を直したローイが箒を拾って大きく振り上げる。光の速さで塵取りを回収したカトラは応戦し、彼の攻撃を防ぐ。店外であれだけ大騒ぎしていれば自然と野次馬が集まっていて、彼らは歓声を上げて、居合わせた酔客が「いいぞ!もっとやれ!」と二人を煽ってくる始末だ。
「両親が貴族である私はお前よりも格が上なんだと、昔から教えてやっているだろうが!」
「はあ~~~?金の力で爵位を買った庶民が先祖なのをお忘れなのかしらぁ~?どうかしてるわね!」
「庶民がいきがるな!無礼だぞ!」
「その庶民の私の給金で大学の学費を払ってもらっていたのは何処の何方でしたかしらぁ~!?」
この自称貴族様は他人のお金で大学に行っていたの?やばくない?御婦人方のヒソヒソ話が耳に入り、ローイの顔が一瞬で真っ赤になる。一応、羞恥心はあるらしい。
「中退したとはいえ、貴方、士官学校に在籍していたわよね!?戦いの素人の私に攻撃を全て防がれているなんて、一体、何を学んできたというの!?」
「……っ!う、五月蠅い、白豚ぁっ!!!」
数々の失敗にもめげないというか、何一つとして学んでこなかったローイだが、士官学校を中退したことだけは物凄く気にしていた。彼の実父は有能な軍人として知られ、その血を受け継いでいるのに軍人になれなかったことが悔しくて、悲しくて、目を向けないようにしていたのだがカトラの言葉で怒りが爆発した。劣等感を刺激されたことでローイの運動神経が飛躍的に上昇し、カトラの手首に箒を当て、塵取りを落とすことに成功する。
「無防備になったな。お前はもう何もできない!今直ぐに私に謝罪し、慰謝料を払え!」
自分から喧嘩を吹っかけておいて、相手に謝罪と慰謝料を要求する奴はどういう神経をしているんだ?観客はローイの発言に引き、酔客の酔いも一気に醒めた。
「何を仰っているのかしらね?箒と塵取りがないなら、拳で戦えば良いのよ!!!」
仮にも男爵令嬢であったので、殴り合いなんてしたことはないのだが、勢いで何とかなるだろう。カトラは安易に考えて、とりあえず拳を構えた。これでもかと力を入れて睨んでやれば、ローイが怯む。
――勝てる。根拠の無い自信を得たカトラは、追い詰められたネズミが恐怖と不安のあまり捕食者の猫に一矢報いることがある可能性を考えもしなかった。武器――もとい掃除道具を失っても尚、カトラが闘志を燃やして拳を構えるだなんて、ローイの貧弱な頭では対処できず、然し彼女には負けたくなくて、誤作動を起こしたのだ。
「う、うわぁーーーーっ!!!」
いきなり絶叫したローイが箒を投げ捨てた。彼の奇行に驚いたカトラに隙が生まれ、ローイに突進されて、彼女は仰向けに押し倒された。受け身を知らない彼女は後頭部を強打し、視界に綺麗な星が散った。
「お、お前なんか、お前なんか……っ!!!」
うわぁ、嫌だなぁ。毛嫌いしているローイに馬乗りになられているなんて。押し倒されるなら、母方の伯父の愛犬に――フカフカの毛並みの、大きな体の可愛いあのこに押し倒されて、顔中を舐められて、涎でベタベタになりたかった。
ゆっくりと動いていく世界で、振り下ろされるローイの鉄拳を他人事のように眺めていたカトラが目を閉じる――だが、強烈な衝撃と痛みがなかなかやって来ない。ローイが馬乗りになって全体重をカトラにかけているはずなのに、幾分か重さが減っているようにも感じられるし、周囲がざわついているような気配もしてくる。現状を確認しようと恐る恐る目を開けると、ローイの顔が先程よりも遠くなっている――というか、誰かに背後から取り押さえられているではないか。
「放せ、無礼者っ!!!」
「無礼を働いていたのは貴殿ではないですか?暴行罪の現行犯で逮捕しても宜しいのでしたら、放しますが?」
「た、逮捕っ!!?」
心地の良い、落ち着いた低い声に、光と豊穣を司る男神の御姿を彷彿とさせる美貌を兼ね備えた長身の青年の出現に、周囲の女性たちはうっとりとして目を奪われ、漸く身を起こしたカトラはというと、あんぐりと口を開けることしかできない。
(身目麗しい男性を目にしたことは幾度かあるけれど、これほど美しい男性が存在しているなんて……幻を見ているよう……というか、あまりにも眩しくて目が潰れそう)
上質な琥珀に似た目を不意に向けられて、カトラは反射的に身を強張らせた。
「お怪我などはありませんか?」
「え、ええ……」
ローイの拘束を解かないまま、美丈夫はカトラとローイの関係を問うてきたので、彼女はにっこりと笑って答えた――赤の他人です、と。するとローイがすさかず「違う、従兄だ!」と訂正してきたので、彼女は舌打ちをした。これ以上カトラに危害を加えないと約束したことで解放されたローイが再訪を宣言すると、カトラが鬼の形相で「二度と目の前に現れないで、顔も見たくないのよ」と本音を吐き捨てる。ローイは何も言わず、走り去っていった。
「あの御仁、涙目になっていましたよ?」
「……あら、そうでしたの。私からは見えませんでしたわ」
座り込んでいたカトラを助け起こしてやると、美丈夫は箒と塵取りを回収して、持ち主を確認してからカトラに渡してくれた。実は先日買い替えたばかりの箒はボロボロになってしまっているし、金属製の塵取りも彼方此方に凹みが出来てしまっている。二つとも買い替えなくてはならない。思わず、カトラから溜息が漏れた。
「何か心配事でも?」
「ぎゃあっ!!」
美しすぎる顔面が視界に現れて、心臓が飛び出そうになったカトラの口から奇声が出る。恥ずかしくて真っ赤になったカトラは「失礼致しました!」とお詫びしてから、美丈夫に「何でもないで御座います」と返答した。彼が神々しい微笑を湛え、老いも若きも関係なく、周りにいた女性陣は膝から崩れ落ちていった。
(……あら?あらあら?)
やたらと良い声をしている美丈夫に見覚えがあるような、ないような。羞恥心を放り投げたカトラは美しすぎる顔面をまじまじと見つめる。彼は慣れているのか、微笑を湛えたまま、カトラの好きにさせている。
(も、もも、若しかして、この人……っ!?)
記憶の片隅にこびりついていた姿よりも大人になっているので、一目では気づけなかった。よくよく見てみれば、あの頃の面影がうっすら残っている美丈夫の正体に気づいたカトラの体から汗が滝のように吹き出し、目の動きが挙動不審になる。恐怖のあまり、彼を直視できなくなった。
「あのぉ~、危ないところを助けて頂きまして、誠に有難う御座いました。それではぁ~、これにて失礼致します、ほほほ……っ」
美少年も成人すれば、ただの人。そんなことを誰かが言っていたような、何かの本で読んだような気がするが、多くの場合では事実だったりするとかしないとからしいが、彼は極上の美少年から極上の美丈夫に成長したようだ。
いや、そんなことは最早どうでもよい。一刻も早く此処から去り、店に逃げ込んで扉の鍵を閉めなければ。動揺しているカトラは壊れた掃除道具を抱きしめ、そそくさと背を向ける。
「何方へ向かわれるのですか、ケティルビョルグ・アスクロー嬢?」
「えっ?どうして私の名前をっ?」
カトラは一方的に彼を知っているが、彼は彼女のことを知らないはずだ。それなのに彼は良い声でカトラの本名を呼び、彼女はうっかり振り向いてしまう。美丈夫は、にやり、と笑った。彼の背後にどす黒い何かが漂っているように見えたのは気のせいであってほしい。
(ま、まさか!?男爵はこの人に接触できてしまっていたの……っ!?)
無理無理、絶対無理。あの男爵にはできっこないから、大丈夫よ!と、高を括っていた過去の自分をぶん殴ってやりたいカトラは蒼白し、ゼンマイ仕掛けの人形のようにカタカタと震えるしかできない。
「お初にお目にかかります。私はヘルギ・クヴェルドゥールヴ、貴女が結婚を望んでいる男です」
「や、やっぱり……っ!ヒイィィィィィィ~~~~~~ッ!!!」
光り輝く貴公子とカトラを結婚させようだなんて、結婚の女神ですら権能を行使することはできまい。絶対の自信を持っていたカトラに、結婚の女神はこう思ったに違いない――女神をなめるなよ、人間の小娘、と。
これはきっと女神がカトラにくだした神罰に違いない。そうでなければ、彼のような極上の美丈夫がカトラの前に現れるわけがないのだから。
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