鏡合わせの睡眠薬
古木しき
告白
――告白します。
これは、私が誰かを殺そうとしたこと。そして、殺せなかったこと。
いえ、正確には"殺すことすらできなかったこと"です――。
つまりは未遂。厳密にはその一歩手前。だけれど、それがどれほど恐ろしいか、わかるでしょうか。
*
私はごく平凡な大学生です。
地元の進学校を出て、そこそこの国立大に入り、経済学部に在籍。高校時代は真面目な優等生と呼ばれていて、皆勤賞の常連。特別に明るい性格ではありませんが、問題を起こすような人間でもありませんでした。
大学に入り、初めての自由に戸惑いながらも、少しは青春というものに触れてみたくて、ある文芸系のサークルに入りました。活動は週に二回、あとは自由参加の読書会や作品批評会がある程度。堅苦しさはなく、趣味を共有する仲間がいる空間は、居心地がいいはず――でした。
ですが、一年生の春。
私はそこで、“G先輩”という人物と出会ってしまったのです。
*
G先輩は二つ上の学年の先輩で、見た目はごつく、体格もよく、声も大きい。最初は頼りがいがある人だと思っていました。けれど、それはすぐに幻想だと気づきました。
私に対してだけ、明らかに態度が違ったのです。
「なあ、アッ君、ジュース買ってきてくれ」
そんな軽いパシリは日常茶飯事でした。お金を渡されることはほとんどありませんでした。
「なんかお前、怖い顔してるよな。いや、ビクビクしすぎって意味で」
「なんか気ぃ使わせるんだよ。お前、場の空気冷やすタイプだよな」
他のメンバーと打ち解けることができなかった私は、いつの間にか“サークルにいるけど、空気のような存在”になっていました。一方でG先輩はサークルの中でも人気者とも言えない浮いた存在でした。
「Gさんたまに疲れた顔してんだよね。いつもあんな強気なのに」
そんな話を聞いた私は少し首を傾げました。
それでも、私は休みませんでした。
講義も、サークルも、バイトも。
熱が出ても、腹が痛くても、私は“サボる”という選択肢を自分に与えませんでした。
子供の頃から、皆勤賞をもらうのが嬉しくて仕方なかった。
どんなに辛くても、私は「きちんといること」に価値を感じていたのです。
*
春が終わり、夏が始まる頃、私は眠れなくなりました。疲れているのに眠りにつけず、何度もトイレへ入っては出て……。気づいたら朝になっていて体はとても怠く……。少しでも眠れたと思って時計を見ると5分ちょっとしか経っていませんでした。
理由はなんとなくわかっています。G先輩のことです。
部室で視線が合うたびに心臓が強く跳ね上がり、胃の奥が痞えてくるのです。サークルがある日は朝から呼吸が浅くなり、夜は布団の中で目を開けたまま天井を見ていました。
目を閉じると、G先輩の顔が浮かびます。
重い声。圧迫する視線。笑っているのに、どこか怒っているような口調です。
私は大学の保健室に相談し、そこから心療内科を紹介されました。
診断は、うつ状態と重度の不眠症。
処方された薬は、抗うつ薬と強力な睡眠薬。
それは、よく効きました。
ひどく効いた、と言ってもいいでしょう。
薬を飲んで三十分も経てば、記憶が途切れ、目が覚めたときには朝でした。頭はぼんやりしていましたが、深く落ちるように眠れることが、どこか快感になっていました。
……そのとき、ひとつの声が生まれました。
自分の中の、聞いたことのない恐ろしい悪魔の声でした。
「その薬、他人に飲ませてみないか?」
*
最初は、冗談のように思いました。
でも、夜が深くなるたび、その声ははっきりと形を持ち始めます。
「G先輩に飲ませればいい」
「眠らせてしまえば、あとは簡単だ」
「殺っちまえ」
「誰も気づかない。自殺に見せかければいい」
自分でも、そんなことを本気で考えていることに気づいて、怖くなりました。
でも、同時に、どこかで“それしかない”と思っている自分がいました。
あの人から解放されるには、逃げるか、消すかしかない――と。
私は薬をポケットに忍ばせ、何度か先輩を探しました。
しかし、その頃、G先輩の姿をあまり見かけなくなっていました。
サークルも休みがちで、誰に訊いても、
「最近見ないね」と首を傾げられるばかりです。
すれ違うと、妙にそっけなく、目も合わせてくれません。
私は逆に警戒されているのではないかと不安になりました。
もしかして、気づかれた? 何か、バレている? そんな不安が私を更に震わせたのです。
ですが、ある日、ふと思い立って声をかけてみたのです。
──「今日の夜、先輩の家に行ってもいいですか?」
──「ちょっと、話したいことがあって」
G先輩は、最初は少し驚きつつも、意外なほどあっさりと了承してくれました。
「……ああ。実は俺も、お前とちゃんと話したいと思ってたんだ」
そのとき、G先輩の笑顔はどこかぎこちなく、疲れ切って見えました。
今思えば――いや、この時点で、私は気づくべきだったのかもしれません。
*
夜になっても、私はなかなか落ち着けませんでした。それどころか、指先が震えていました。体温がわずかに高いのです。思考の端にずっとG先輩の顔が張り付いていて、何度も胸の内で“やめよう”という声が聞こえました。けれど、それを振り切るように、私はゆっくりとコートのポケットに手を入れ、小さな袋を確認しました。
錠剤が三粒、丸い形のまま袋の中をコロコロと揺れていました。
G先輩の部屋は、大学近くの古いアパートの二階にありました。
鉄製の階段を上がると、足元の振動で枯れ葉が音を立てて転がっていきました。
緊張で唾がなかなか飲み込めませんでした。ドアの前に立つと、インターホンを押し、ついでに小さくノックを二回しました。
「……おう、アッ君、来たか」
ドアが開き、G先輩は黒いジャージにスウェット姿で現れました。普段の派手なシャツも、香水の匂いもありません。ただの疲れた男がそこにいました。
「まあ入れよ。あんま広くないけど」
六畳の和室にローテーブル、こたつ。横に古い本棚、ギターケース、脱ぎっぱなしの靴下が片隅にある。生活感はあるのに、どこか“昨日のまま”という印象が拭えませんでした。
「ビール買ってきたんで、冷蔵庫借りますね」
私は靴を脱ぎながら、手提げ袋を掲げました。
中には缶ビールとつまみ、そして薬を混ぜるための紙パックジュース。
私の手は自然な動きを装いながらも、あらゆるタイミングを計っていました。
「お、サンキュ。俺もなんか用意するわ」
G先輩は冷蔵庫を開け、紙パックの烏龍茶と、缶酎ハイを取り出しました。
「最初は軽く、ジュースで乾杯するか」
そして、紙コップを二つ取り出しました。
……予想していたはずの光景でした。
なのに、私は心の奥がぞわりと波立つのを感じました。
G先輩がキッチンへ行った隙に、私は錠剤を潰して粉にしました。
ジュースの中に、ゆっくりと混ぜる。沈殿しないように丁寧に。
手の中のコップを見ながら、私は不意に不安になりました。
これで、本当に――眠るのだろうか?
「じゃ、乾杯」
コップを合わせ、ジュースが跳ね、互いの唇がコップに触れる音、喉を鳴らして飲み干す音。
飲んだ。
確かに、G先輩は飲んだんです。
ですが、彼はすぐに笑いました。
……飲んだ。
けれど、先輩の顔色は変わりません。
喉を鳴らし終えたあとも、平然とした表情で、コップをテーブルに戻しました。
私はその様子を、まるで静止画を観察するようにじっと見ていました。
一分も経っていないのに、時間が止まったように感じました。
――効いていない?
そう思った瞬間、彼はゆっくりと笑った。
「そういや、アッ君。なんかお前から誘ってくれるなんて初めてだな」
私は少しだけ頷きました。
「……そうですね」
「なんか……嬉しかったよ。お前、最近元気なかったから、俺なりに気にしてたんだよ。……いや、嘘。たぶん、自分のことしか考えてなかった。俺、結構ひどいやつだったよな……」
G先輩は一気に話し出した。
自分の過去、就活への焦り、親のこと、彼女と別れた話。
そのどれもが、妙にリアルで、取り繕うようで、同時に弱さに満ちていました。
「……なあ、アッ君。実は、俺さ……ずっと、眠れてないんだよ」
その一言に、心臓が跳ねました。
G先輩はローテーブルの下から、薬袋を取り出したのです。
私が病院から処方されている同じ睡眠薬でした。
私は無表情を保ちながら、動きを止めました。
「……さっきのジュース、ちょっとだけ混ぜた。……ごめんな、変なことして」
しばらく、言葉が出ませんでした。
G先輩の言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかったのです。
私は自分の手元のコップを見つめました。
薬を混ぜたコップ。
あれは、どっちだった?
今、どちらの薬が、どちらに効いているのか――全く分かりません。
冷たい汗が背中を伝っていきました。
耳がじわりと熱くなる。血が逆流するような感覚。
私はコップを見ました。どちらのコップだったのか、わかりません。
彼のジュースには、私の粉薬が混ざっていました。
そして、彼の薬は、私のコップが混ざっているのです。
どちらがどちらに、何を盛ったのか――もう、誰にもわかりませんでした。
しばらくして、私はふらつきがきました。
吐き気がし、意識が薄れていきました。
そして、G先輩も同じように、額を押さえ、呻きました。
部屋がゆっくりと、深い水の中に沈んでいき、蛍光灯が滲み、音が遠ざかる感覚。
薬の効果。いつものあの感覚。落ちて、落ちていく感覚。
ですが、今回ばかりは、私はひどく怖かったんです。
自分が何をして、今どこにいて、これから何が起こるのか。
目の前のG先輩が、起きているのか、眠っているのかさえ――わからなかったのです。
*
目覚めたのは、外の鳥の鳴き声でした。
低い鳴き声が、どこか遠くで木霊しているのが聴こえました。
視界がぼやけていて、まず天井の模様だけが見えました。古い木目調の板に、うっすらと亀裂が走っていました。ここがどこか、すぐにはわかりませんでした。
――ああ、G先輩の部屋だ。
その記憶が、ゆっくりと戻ってきました。
頭が重く、胃の奥がひりつき、喉がひどく渇いていて、体を起こそうとすると、手足に鉛を詰められたような感覚が襲ってきました。
隣に、G先輩がいました。
彼も布団に横たわり、こちらを見ているようでした。顔色は悪く、唇は乾いていました。
「……よう、起きたか」
その声は、いつもの大きな声ではなく、かすかな息のようでした。
私は何か言おうとしたが、声になりませんでした。
テーブルの上には、昨夜の残骸が残っていました。
空き缶、紙コップ、しけたおつまみ、そして白い粉のこびりついたコップの底。粉が溶け切らずに乾き、細い筋になって光っていました。
G先輩はそれを見つめながら、小さく乾いた笑いをしました。
「……効かなかったな」
私は目を見開きました。
薄い朝の光が部屋を照らしていました。
私は目を覚ましたはずなのに、どこか夢の中にいるような感覚が抜けきれませんでした。
身体は鉛のように重く、頭の奥がじんじんと痛み……。
横に人の気配がある。
誰だ……ああ、そうだった、G先輩だ。
――生きている。
私はまだ、夢を見ているのかもしれないと思いました。
「え……?」
「俺……お前に飲ませたんだ。薬を。眠らせてから……殺そうとした」
G先輩は冗談のように笑っているのに、目の奥はまったく笑っていませんでした。
唇が震え、冷や汗が頬を伝っていくのがわかりました。
「でも、全然眠くならなかった。逆に吐きそうになって、何度も目が覚めた。……お前も、そうだろ?」
私は視線を逸らしました。
昨夜、あのジュースに自分が仕込んだ薬のことを、口に出すことはできませんでした。
「……はい」
その声は、かすれていてとても弱かったのです。
G先輩は目を閉じ、天井を仰ぎました。額に手を当て、笑い声とも嗚咽ともつかない音を立て、
「ハハハ……俺たち、バカだよな」
その乾いた声は、悲しいほど透明でした。
怒りも、憎しみも、もうそこにはありませんでした。
ただ、疲労と、罪悪感と、恐怖だけが残っていました。
*
窓の外で、朝日が差し込んできてそれがとても眩しく感じました。
灰色のカーテンの隙間から、白い光が床を照らし、その光の中で、二人の影が床に伸びていました。
同じ姿勢、同じ色、同じ形。
私は思いました。
――もしあの薬が効いていたら、どちらが先に殺していたのでしょうか。
――もしあの薬が効いていたら、いまこの光景はなかったでしょうか。
頭の奥で、昨日までの自分が遠くに去っていくのを感じました。
何かが終わったのか、それとも始まったのか――その区別さえ、もうできませんでした。
*
G先輩がゆっくりと起き上がりました。
窓を開け、冷たい空気を吸い込みました。それは白い息が部屋の中に流れ込んでくるようで。
「……もう、終わりにしようか」
私は咄嗟に「ええ……」と肯定とも否定ともつかない返事を、目を逸らして答えました。
そのG先輩の言葉が何を意味しているのか、私にはわかりませんでした。
その言葉が、どこか遠くから響いてくるように聴こえたのです。
“終わりにする”とは――何を?
殺意? 関係? それとも、自分自身の人生?
私は返事をしませんでした。というよりもできなかったというほうが正しいでしょう。
ただ、開けた窓から通ってくる朝の冷たい空気が頬を撫でるのを感じました。
サークルを辞めることなのか、互いの関係を終わらせることなのか、それとも――。
私は立ち上がれませんでした。
ただ、床に伸びた二つの影を見つめ続けていました。
鳥の鳴き声は、まだ続いていて。
それが、まるで私たちの心を試すように、淡く響いていました。
(了)
鏡合わせの睡眠薬 古木しき @furukishiki
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