本音を伝えるということ
海乃マリー
本音を伝えるということ
カクヨムを始める時、「小説を書いてみたい!」と最初はそんな単純な気持ちだった。でも、その奥にはその時点では認識していない本当の理由も眠っていたように思う。
それは、私は文章を通して『本音を伝えたい』と願っていたということだ。
私にとって本音を伝えることは簡単な事ではなかった。だからこそ、心の奥底ではそれを強く望んでいたのだと思う。
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私は子どもの頃、自分の気持ちを人に伝えるのがとても苦手だった。引っ込み思案で大人しく、幼稚園や学校ではほとんど話すことができなかった。家では普通に話せるのに声が出ない「場面緘黙症」だったのかもしれない。診断を受けたわけではないけれど、大人になってその存在を知ったとき、「あれはまさに昔の私だ」と驚いたのを覚えている。
私以外にも同じような経験をしている人がいること、それにその症状に名前まであることを知った時、私は少しだけホッとした。
私の場合は、生まれ持った性質と、幼少期の環境、その両方が影響していたのだと思う。一般的に、場面緘黙症は生育環境とは無関係と言われているけれど、その限りではないと個人的には思っている。
「三つ子の魂百まで」というように、幼い頃の環境は人格のベースとなる。親などの養育者の価値観が組み込まれて、自己イメージの土台の部分が作られる。コンピューターで言えば「初期設定のプログラム」だろうか。
そのプログラムは無意識の中にあり、自動的に常に作動している。間違った設定が入っていると、間違った反応が起きる。
もちろんそのプログラムの書き替えは後からでも可能だと思う。けれど、まずは自分の中にどんな設定があるのかを知る必要がある。そのためには現実とぶつかりながら、一つ一つ見つけるしかない。そしてその都度、気付いて、書き換えていくしかないのだろう。その作業はとても時間がかかるし、根気もいる。
でも、それこそが「自分を知る」ことであり、人生の醍醐味なのかもしれない。
なぜ、私が「本音を伝える」ことにつまずいたのか。その背景を少し話してみたい。
最初に申し上げておくと、私の両親は子どもを愛していた、これは間違いないということだと思う。それだけに、育ててくれた親の悪かった点を述べることに少しの罪悪感が伴う。なので、なるべくニュートラルに当時感じていたことと、私自身が大人の視野で感じたことを書いてみたい。
私は三姉妹の長女として生まれた。父はサラリーマン、母は専業主婦で、ごく普通の家庭だったと思う。ただ、両親共にとても不器用で、余裕がなく、愛情の表現も上手くなかった。
父親はとてもキレやすい性格だった。突然怒り狂って暴力を振るい、暴言を吐き、人格を否定するような言葉を浴びせてきた。私は、いつも父の顔色をうかがい、機嫌を取って、言いなりになっていた。怒りのスイッチがいつ入るかのかわからないのが一番怖かった。理由の分からない怒られ方をすると、子どもはどうしたらよいか分からなくなるものだ。「やっていいこと」と「やってはいけないこと」の基準が曖昧になり、自分の行いや振る舞いにも自信が持てなくなる。私も自分がどうすればいいのか分からなくなっていった。
父はよく一緒に遊んでくれたし、楽しい時間もあった。でも、いつ「地雷」を踏んで機嫌を損ねるか分からないという緊張感が付きまとい、常にアンテナを張っている必要があった。
今思えば、父はただ「気分」で怒っていただけだったと思う。会社での人間関係や評価など、何かしらのストレスを抱え、私たちにぶつけていたのかもしれない。
母親は、基本的には優しい人だった。でも、自己主張がなく父の言いなりだった。私たちが暴力を受けていても、一度も助けてくれなかった。母にとって一番大切なのは「世間体」だったのだと思う。口癖は「しんどい」でいつも弱々しかった。
体力的にも精神的にも子育てに向き合う余裕がなかったのかもしれない。そんな母は子どもに無関心で、共感力も乏しく、放任気味だった。そして、子どもの私から見ても頼りない人だったので、何も相談できなかった。まともな答えが返ってくる気がしなかったから。
長女だから、自分がしっかりしないといけない。親にも頼れない。甘えられない。そんな感じだった。
母親が子どもを叱る基準はいつも「世間体」だった。「○○さんに何か言われた」、「どう思われるか」、「恥ずかしい」——そんな理由ばかりで、人として大切なことを教えられた記憶がほとんどない。母は穏やかだったけど、自分の気持ちを語らず、何を考えているのか分からなかった。
そして、家で起きた不都合なことは外で話すことを禁じられていたし、両親共に人付き合いが苦手で、他人との交流が少なかったため、家は風通しが悪くとても閉鎖的だった。
他の家庭と比べる機会もなかったので、自分の家はごく普通の家庭だと信じて疑わなかったし、暴力も無関心も当たり前のこととして受け入れていた。あの時代においては、私のような環境もそんなに珍しいことではなかったのかもしれないとも思う。
そんな訳で、外から見れば何の問題もなさそうな円満な家庭に見えたかもしれないけど、その内情は私にとってキツいものだった。今で言う機能不全家族というものかもしれない。
ちなみに母と私の間には「愛着」という面でも課題があったと思う。子どもの心は、寄り添い、共感されることがないと、情緒の成長に問題が起きやすい。
そういう訳で、私は家庭環境に多大な影響を受けた。マイナスからのスタートだった。
歳を取るにつれ、当時は分からなかったことが後から後から、明らかになっていった。複雑に絡んでいた糸が少しずつ解れていった。これは私にとって一大事業で、ずっと取り組むべき人生の課題だった。
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私は言わないことで、自分の気持ちを守っていたのだと思う。
家で、本音や自分の気持ちを言ったとしても、父に激しく否定されるだろうし、母もきちんと受け止めてくれない。そんな状況だったから。言っても無駄。言うだけ無駄。何も言わない方が余計な火種を作らなくて済む。
「自分の本音を伝えることは、大切なものを踏みにじられるかもしれない怖いこと」だと無意識に刻み込まれていた。
母もまた、自分の気持ちを表現することが極端に少ない人だった。そして、子どもの気持ちにも耳を傾けなかった。そもそも「気持ち」を大切にするという価値観が無かったのかもしれない。私は母から、「世間に恥ずかしくないように、やらなければならないことをただこなす」という価値観を学んだ。
そうして、私は極端に自信のない子どもになった。何をしても怒られたので、どう振舞えば良いのか分からなかった。幼稚園でも学校でも人間関係に躓いていた。
さらに、「話せない」ことで、みんなが当たり前にできていることすらできないと自信を失って、自分を責めて、否定した。負のループだった。
そんな中でも救いはあった。私は勉強ができる方だった。テストではいつも高得点が取れていたし、色々と要領も良くて、運動もそこそこできた。「たとえ話さなくても、理解できていない訳ではない、だから問題ない」と先生に問題視されることはなく、むしろ優等生の扱いを受けていた。いじめはほぼなかった。
あまり努力しないでも簡単に出来ることがある一方で、どんなに努力しても出来ないことがあると小学生なりに学んだ。
その頃の私は「普通」に憧れた。ただただ「普通になりたい」と願った。
小学校の頃、学校ではいつも緊張していて、全く楽しくなかった。でも、学校に行かないという選択肢はなかった。もし登校拒否になってしまったら、父親に殺されそうだし、母の一番嫌う「世間様に顔向けができない大変恥ずかしい事態」になってしまう。なので、学校に行かないなんてことを考えることすら自分に許していなかった。
何でもない毎日のはずなのに普通に生きていくのが辛かった。もう消えたいと何回も思った。私は日常を生き抜くために、感覚を麻痺させていたように思う。
痛みを感じないように。何も感じないように。痛みを感じないと、喜びや感動も薄くなる。これは実感した。
もちろん、生活の全てが辛い時間だったわけではなかった。家で妹と遊んだりや近所の友達と楽しく遊んだ思い出もあるし、習い事も楽しかったし、気楽に過ごせた時間もそれなりにあった。そこでバランスを取っていた。
しかし、学校は安心して自分のままでいられない場所だった。こなすだけの毎日のために心の一部を殺しながら学校に通っていたように思う。
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中学生になり、表面的には「話せる」ようになったけど、本音や気持ちを言うことは相変わらず苦手だった。母と同じように自己主張ができない人間になっていた。嫌だと思うものに気付いたらなっているという、世代間の負の連鎖だ。
私の友人は大きく二つのタイプに分かれていた。一つは、自分と似た大人しいタイプ。もう一つは、やたらと自己主張の強いタイプ。自己主張が強い人に好かれたのは、たぶん私が言い返せなくて言いなりになってしまっていたからだろう。私は表面だけ楽しく合わせたりはできるようになっていたけど、生きづらさはずっと続いていた。
「変わりたい」——そう思った私は、高校生になると、派手な格好をし、夜遊びをし、「ギャル」になっていた。短大に入ってからは、パブスナックのような場所でアルバイトを始めた。お酒の力で対人関係に対する苦手意識は薄れて、比較的楽しく接客できた。若さと勢いだけで乗り切っていた。
大人しくて自己主張のできない自分を否定していたから、自分から遠い真逆の自分になりたかったのだろうと思う。
※未成年の飲酒は禁じられています。
恋愛もあまり上手くいかなかった。その頃は自分が大嫌いだったから、自分を好きになってくれる人を生理的に受け入れられない時があった。私を好きと言ってくれる人ではなく、自分を大切にしない人の方が楽だった。私を好きと言ってくれる人だって、どうせ表面だけで中身なんか見ていない。というか中身を開示できなかった私にも問題はあった。何にも上手くいかない。学生時代はそんな感じだった。
十九、二十歳ぐらいの時に、ふと小中学生時代を思い出し「あの頃と比べて今は心がだいぶ楽になった」と感じた瞬間があった。大人になるにつれて心は楽になっていったと感じた。
社会人になると、コミュニケーションの問題はだいぶ改善していた。接客の経験は私にとってプラスに働いたのだと思う。表面の付き合いはできる。楽しいことも共有できる。でも、自分の気持ちや本音を相変わらず言うのは苦手で、いつも人に合わせてばかりだった。
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辛かったあの頃から長い月日が過ぎた。
麻痺させてしまった心を取り戻したい。人と本音で繋がりたい。そんな願いを抱きながら、自分を取り戻す旅をしていたのかもしれない。
カクヨムでは、本音をそのまま書いてみたい。そう思って、エッセイなどを書いた。ちゃんと書けたかはわからないけど。
もともと、「言って後悔するぐらいなら最初から何も言わず、話さない方がいい」という方針で生きてきたから、自己開示に慣れていなくて、どこまで開示していいか加減がわからないことが多々あった。
つい余計な事まで書いてしまい、後から「うわああああ!!なんであんなこと書いた?」と悶えるような後悔が襲ってきた。
別に誰も何も思ってないだろうって、頭では分かっているけど。でも、深層の心はそれを「怖いこと」「間違えたこと」と感じて過剰反応する。そんなことを繰り返した。
対面で人と話すときは、無意識に相手の受け入れ度を推し量りながら話していた。相手が受け入れられることだけを話そう、と。
そんな風に相手に合わせすぎていると、自分は単なる鏡でしかないと思った。当たり障りなくしていれば相手を傷付けることも自分が傷付くことも少ないかもしれないけれど、自分がそこにいる意味もない。
ちゃんと生きてないな、と思った。そして、そんな風に自覚できるようになるにつれ、自分のままでいられる時間は増えいった。
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話すこと。伝えること。自分の気持ちや本音を言葉にすることに——ずっと向き合ってきたように思う。
「本音を伝える」というのは、私にとって今も怖さを伴う。伝える相手を選ぶような内容やマイノリティに分類されるような内容だとなおさら気を遣ってしまう。批判されたり、否定されるかもしれないと身構える。
「わざわざ言う意味ある? 何も言わない方が楽。誰も傷付かないし、自分も傷付かないでしょ」と昔の自分が囁く。
それでも──これが自分だと胸を張っていたい。自分が感じたことや考えたことを、人と違うから受け入れてもらえないだろうという理由で、抑える必要はない。そのままの自分を肯定して、自由に表現したいし、自分にも人にも嘘をつきたくない。
これが今の自分の現在地だ。
怖くてもいいから。
自分の心に耳を傾けて、心の声を聞いて
自分の言葉を紡ごうと思うんだ。
本音を伝えるということ 海乃マリー @invisible-world
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