第9話 生きた囮と悪魔の作戦

 蛇のヴィルヘルムを暗殺し、血塗れになって拠点に戻ったアキトを待っていたのは、ゾルグからの冷徹な承認と、リリアンからの甘美な命令だった。


「悪くない。人間兵器アキト。貴様は私にとって利用価値があることを証明した」


 アキトの胸に、かつてない熱がこみ上げてきた。それは、人間界にいたときに、教師や親からかけられることのなかった、「成果」に対する明確な承認だった。彼は、ヴィルヘルムという強大な魔族を、自分の異能とゾルグの力で討った。汚い血に塗れてはいるが、自分は「役立つ」。「必要とされている」。その感覚は、いじめられ、嘲笑され続けた過去の記憶を覆い隠すほどの、悪魔的な誇らしさと高揚感だった。


「ヴィルヘルムの排除により、グスタフは敵、つまり人間兵器アキトの存在を認識した」ゾルグは言った。「奴は単純だ。頭脳を失った今、感情的に貴様を探し回るだろう。我々は奴の単純な怒りを利用する」


 リリアンは、アキトの目の前に立った。彼女の黄金色の瞳は、アキトを道具として見定めながらも、どこか興味深げだった。


「アキト、あなたはこれから、グスタフを誘い出すための囮になってもらうわ。あなたのやることは、まず『生還』することから始まる。そして、生還するためには、わたくしの知恵とゾルグの力が不可欠よ」


 アキトは、自分の身体がゾルグの魔力で強化されたナイフよりも、リリアンの情報と策略によって、より価値のある道具になっていることを理解した。彼の命は、二柱の悪魔の作戦によってかろうじて繋がれている。


「リリアン、作戦を言え」ゾルグが促した。


「簡単よ」リリアンは優雅に微笑んだ。「グスタフは力任せに全てを破壊しようとする。だからこそ、地形と魔界の特性を最大限に利用する。アキト、あなたは今から、グスタフが最も苛立ちを募らせるであろう『旧・魔王の庭』へ向かいなさい」


 リリアンは、魔界の地図を取り出し、アキトに説明した。


「旧・魔王の庭は、魔界でも特殊な場所。魔王の力によって創り出された結界が不安定に作用し、空間や魔力の流れが常に乱れている。グスタフの剛腕と突進は、不規則な魔力の乱れの中では、最大の弱点となるわ」


 リリアンは地図から目を上げ、優雅に付け加えた。 「グスタフはヴィルヘルムを失い、あなたの『人間の血の臭い』を追っている。わたくしたちが、ヴィルヘルムが死んだ場所から、あなたがこの庭へ向かう『最も明確な追跡ルート』を、あえて用意してあげたわ。彼は今、単純な怒りで、あなた以外見えていない」


 作戦の概要はこうだ。


 アキト(囮):旧・魔王の庭の深部へ侵入し、グスタフの注意を引く。グスタフが接近する直前、アキトのプレ・エモーションで、庭の最も危険な魔力不安定点を正確に予測する。


 ゾルグ(狩人):不安定点を利用する。グスタフがその地点に到達した瞬間、ゾルグが僅かに魔力を増幅させ、庭の結界のバランスを崩す。これにより、グスタフの突進の勢いを削ぎ、一時的に行動不能にする。


 アキト(執行者):グスタフが足止めされた隙に、魔力のナイフで仕留める。


「失敗すれば、貴様はグスタフの拳で文字通り肉塊になるだろう」ゾルグは冷たく言い放った。


「成功すれば、あなたは生き残り、次の復讐へのステップに進めるわ」リリアンは甘く囁いた。


 アキトの心には、恐怖とともに、ゾルグの指示を遂行すれば、絶対に負けることはないという、悪魔的な信頼感が芽生え始めていた。それは、いじめっ子に抵抗することすらできなかった過去の自分への、強烈な裏切りだった。


 アキトは、魔力のナイフを再度握りしめた。今、彼が感じている恐怖は、ただのいじめではなく、明確な死が目の前にある恐怖だ。だが、その死の恐怖が、彼のプレ・エモーションを研ぎ澄ませ、彼を兵器へと変えていく。


 リリアンは、アキトの背中を見送りながら、ゾルグに囁いた。


「面白い人間ね。ゾルグ、あなたは彼をただの『道具』と言ったけれど、彼はあなたの『復讐の代行者』でもあるわ。今回の作戦で彼の魂が、どこまで悪魔に近づくか、わたくしは楽しみよ」


 ゾルグは無言で、塔の頂上へと移動した。彼の冷たい視線が、旧・魔王の庭へと向かうアキトの細い背中を追う。


 アキトは、血濡れの谷を抜け、魔力の不安定さが霧となって立ち込める「旧・魔王の庭」へと足を踏み入れた。


 一歩踏み出すごとに、身体が重くなる。結界の乱れが、彼の魔界での存在そのものを揺さぶるようだ。だが、その不規則な魔力の流れこそが、グスタフを討つための唯一の道だ。


(グスタフ。僕を殺しに来い。お前が怒りに狂えば狂うほど、僕のプレ・エモーションは正確になる……!)


 アキトは、自ら獲物として匂いを立て、猛牛の悪魔を誘い出すための罠の中心へと進んでいった。

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