キセイの宿り
笹谷ゆきじ
キセイの宿り
「ただいまあ。」
「おう、おかえり。」
戸を開けると、父が出迎えてくれた。奥の台所から、甘辛い匂いが立ちのぼる。そちらを見ると、姉がすき焼きを煮ていた。丸まった背中は、昔よりさらに歪んで見えた。
およそ八年ぶりに、姉が帰ってきた。祖父母が相次いで亡くなり、家には父と母だけが残った。
たかだか名古屋に住んでいるだけで、そんなに顔を見せない姉に父は苦笑していた。
「海外赴任でもしよるみたいじゃ。」
私はそれを補うように家に帰り続けた。家事手伝いはもちろん、五月は農繁期だから田植えの人手も必要になる。祖父母も同居している手前、健気な孫の役だって演じた。
祖母が膝を悪くして介護が必要になると、母のフラストレーションは増した。ただでさえ細い身体はますます痩せて、表情が暗くなった。
「仕事以外でジジババの顔なんて見とうないんよ。」
そう悪づいて、祖父母と食卓を共にしなくなった。かつて和やかな家族の空間だった筈の食卓は変わり果てた。それがどんなに私を悲しませても、帰省だけはやめなかった。疲弊していく母を放っておくのは、裏切りのような気がしたからだ。
夕飯の時間になると、姉はクチャクチャと音を立てて肉を噛み、テレビにかじりついていた。俳優の顔を見て、ひとりで騒いでいる。
「ヨシザワくん、ほんと最高なんよ。表情の奥にある感情が、ちゃんと伝わってくるんよなぁ。」
その声がうるさくて、テレビの音が聞こえない。ニキビの痕が残る脂っこい横顔。歯の隙間から飛ぶ唾。これでも子供の頃は可愛い顔だったのに、何がどうしてここまで崩れたのだろう。目の前にあるすき焼きは、姉が隣にいるだけでただの脂の塊みたいに感じる。
───死ねばいいのに。
私が何かしくじる度に、姉はよくそう言った。それが脳内でこだまする。まるで宿主の身体を齧り続けながら居座る寄生虫のように、いつも私の胸を穿った。
「おい、風呂入れ。」
「その言い方なに…。」
「じゃあ入るな。」
もうすぐ四十歳になる女が、妹にかける言葉がこれだ。私は言い返す気もなく、それに従った。
風呂から上がると、居間に姉がどっかりと寝そべってテレビを観ている。
「父さん、今から出るの?」
「おう。」
「じゃあ飲み物買ってきて。ほら、LINE送ったやつ。」
父は苦笑して、財布を手に外へ出た。玄関の戸が閉まる音がして、家の中は静かになった。
父も母も、昔から姉に甘い。第一子だからだろうか。それとも、勉強がよくできたからだろうか。中学校に進学すればお祝いにブランド物の財布を与え、高校に進学すれば時計を買い与えた。二十歳の誕生日の時なんて、振袖を着せてわざわざ後楽園で写真を撮った。私の時はそんな事、一切してくれなかったのに。
姉はいつも美味しいところを取る。家族の愛情は食い尽くして、都合が悪ければ逃げる。ほとぼりが覚めたらのうのうと顔を出して、また両親の愛情を受けようとしている。これを寄生虫と言わずして何と呼ぶのか。
目の前の照りついた頬は丸っこく太っている。無性に引っ叩いてやりたくなって、手を振りかぶった。
「────ねえ。」
ふいに掛けられた声に、手を引っ込めた。
「お茶入れてよ。」
私は素直に頷いた。居間から立ち上がると台所へ行き、コップにお茶を注いでお盆に乗せた。
ふと、シンクの隣に置かれた食器用の塩素系洗剤に目が留まる。
これをお茶に混ぜて飲ませたら、姉はどうなるだろう。
───これで、姉の寄生は終わる?
私は洗剤に手を伸ばした。誘われるようにキャップを開けるとぐぽ、と音が鳴り、塩素の匂いが鼻腔を刺す。
私はそろりそろりと洗剤の容器を傾けた。
無駄に広い家の中、カン高い笑い声だけが、遠くに響いた。
キセイの宿り 笹谷ゆきじ @lily294
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