瀬崎翔瑠のラブレター作成記

るんAA

第1話 告白じゃないんだ……

 第一章


 街中で通りすがっただけの女の子に見惚れたことはあるだろうか。

「可愛いな」

 とか

「綺麗だな」

 とか、俗に言う一目惚れというものだ。

 俺は何度かある。

 でも、面識がないうえで話しかけるのはどう考えても非常識だ。まず、その大きな壁が立ちはだかる。そして

「別の形で出会っていればな」

 と、俺たちは負け惜しみの言い訳をして何もせずに通り過ぎる。その非常識な行為をなんて呼ぶのか、知っているからだ。


 だから。


 別の形で出会ってしまった俺は、言い訳する暇もなく彼女を追いかけていた。




 陽は落ちかけ、オレンジの光が廊下の床を照らす、夕方頃。

 男は、血相を変えて女に迫っていた。


「お、おい! お、お茶でも飲まないか? 一緒に……」

「待ちません」

「なあ。ちょ、ちょっと待ってくれよ……」


 動転した声色を漏らしながら駆け足で彼女の背を追っていく。

 自分の声、行動だと信じられないくらいに必死に追いかけていた。


 絶対に見逃せない。

 見逃したくない。

 通りすがりの赤の他人よりかは、はるかに条件の良い遭遇なのは間違いないはずだ。


「一分だけ、という約束ですから」

「せっかちなこと言うなよ。階級VIPの俺が引き留めてるんだぞ?」


 呼び止めたいがために傲慢な態度で女に言い寄る。

 女は我慢の限界に達したのか男の目を睨み、単調に吐き捨てる。


「君は誰なんだよ。私に話しかけるな」


 ただ、男にとって自己紹介は絶好の機会だった。

 男は早歩きの女に追いつくと、歩調を合わせて身体を近づける。


「俺の名はつい口ずさみたくなるほど語感がいいと言われている、あの……」


 瀬崎翔瑠だぞ。

 自分の名前を有名人のように豪語しようとした途端、彼女の顔を見て気が変わった。


「俺は……名乗るほどの人間じゃない」


 満開だった花が萎んだように自重した。


「大体の一般人がそうだと思う……」


「けど!」

「けれど」


 切り返しの手札を出すタイミングが重なり、声が重なった。

 ただ声のトーンは似ても似つかないもので。


「けれど、貴方は機会を失った。意中の女子とお近づきになる機会を」


 意図的にも偶発的にも思える被さり具合だったが、意味合いは全く違った。

 サヨナラと振った気でいる今にも消えそうな背中に、男は今度は自分のターンだと言わんばかりに


「サインだけ!」

「はい……?」

「サインだけ、書いてくれないか? 俺はアンタのファンなんだよ!」


 彼女の足は立ち止まる。

 まだ挽回の機会があるみたいに、振り向いた。

 存外、悪くない顔をした彼女はその言葉の意味を瞬時には理解できていなかった。

 プライドを捨てて振り絞った勇気は、彼女の面を見事に食らわせることに成功した。


「その勢いで告白じゃないんだ……」

「告白だろ! 神坂美成子。キミは俺が知っている歌手の中で一番理想に近い、人間だ」


 誠意を。

 どんな手を使ってでも胸いっぱいに漏れそうな愛を、伝えてやるんだ。


「ずっと、探してたんだ。俺の――歌姫を」


 滅多に言わない賛辞。

 カバンから差し出した、持参したCD。

 そこまでしても、瀬崎翔瑠が見据えた彼女のロマンチックは――揺らがない。




 事の発端は、数時間前までさかのぼる。


「なあ、頼むよ。話だけでも聞いてくれよ~」


 開かずの扉をドンドンと叩いてみては嘆きを吐く。


「無茶ぶりにも無茶で応える。それがなんでも屋のモットーだろ~?」


 そんな反ワークライフバランスのモットー、俺は知らねーよ……。


「春明けのプール掃除と同じレベルで断る。俺はこの通り忙しいんだよ」

「どの通りだよ! せめて顔を見せてくれ!」


 とある放課後の、とある一室での会話。

 とある一人の男子学生が藁にも縋る想いで一つの扉を介して、交渉の交渉を求めていた。


 ああ、待てよ……。そんなに『とある』を多用すると、どこも『とある』という便利だけど特定性の低い曖昧な言葉で片付けられてしまうな、使用は控えた方が良さそうだ。


 なんせ、俺まで、曖昧で中途半端な人間と認識されても困る。


「となると、凡人側の劣等感は心理描写を多く書き加えた方が共感は得やすいか……」


 熱を帯びた尻を持ち上げて、椅子に座り直す。

 蒸し暑い環境音の中でぼそぼそ漏らすと、キーボードを乱雑に叩く音は一層、強くなる。


「なんか言ったか~? お前のことだからどうせ、原稿の話(ひとりごと)だろうけどー」


 諦め半分の来訪者が分かったような口ぶりでそう言う。


「…………」


 背筋を伸ばして前傾姿勢になりながら不規則なリズムで頭から指に出力する。


「今日はダメな日か……? あ、そういえば、噂になってんぞ~。現代文の鬼教師が出す地獄みたいな課題をたった数分で手品みたいに解決してくれる文才がいるって」

「…………」


 無数のケーブルが何重にもなって後頭部に繋がれていて、入力された動力に手を加えることのないまま、生身で出力しても、稼働しているような充実感が指をさらに加速させた。


「あと、答辞を推敲してもらったってのも噂になってたよな~。先生たち、わんわん泣いて来賓、保護者が立ち上がってスタンディングオベーションをしたあの衝撃的な感動卒業式のオチが一年生の文芸部に書いてもらった、なんて、ダサすぎるもんな~」

「…………」


 鼓膜を刺激するのは目の前にある無数の四角形から鳴る音と、風が靡きそうな荒い鼻息

 それと、断捨離し切れていない友人の声。

 少しの静寂が挟まると、環境音は意思を持ってピタリと止まった。


「おっ」


 思わず、来訪者から期待の声が弾む。

 そして、じきに堪忍したような呆れた声色が何百回目のノックをようやく返した。


「……随分な物言いだな、中陳。藁にもすがる思いで頼んできた恋文書いてやらないぞ」

「やっと釣られたか。そろそろ開けてくれ、天才作家。お悩み相談だ」

「だから、俺をそう呼ぶな」

「なに言ってんだ? ここはお悩み相談室だろ?」

「……違うし、論点はそこじゃない、チンチン野郎」

「ああ~。なるほどね、了解」


 扉一枚隔てた向こうにいる友人は分かったような口ぶりで唇を尖らせ、一拍空けた。


「天才作家、瀬崎麻績の息子さ……痛っああ⁉」


 次の瞬間、男は胸を膨らませていた友人を扉ごと突き飛ばしていた。

 その表情が穏やかでなかったのは、尻餅をついてやれやれ顔する友人にも理解できた。


「――翔瑠。た・だ・の、瀬崎翔瑠だって何回も言ってるだろ」


 翔瑠は名前の部分を強調するように言う。

 首にかけたヘッドホンから、彼の機嫌とは似ても似つかない音が漏れていた。


 


「悪かったよ、翔瑠。表の要望箱がいっぱいだったんだよ」

「悪く思う奴はこの真っ白じゃない部屋を目にしたら、掃除したくなるか、黙って出ていくと思うんだが。おもてなしの心を忘れるなよ、日本人」

「それはお前の役目だ」


 部屋の主の視線は白い画面に釘付けで、来客に背中を向けたまま話す。

 もちろん、茶を出す素振りなんてこれっぽっちもない。


「それにここも部室の一角だろ? 俺だって、元は文芸部員だし」

「ここは俺の缶詰め部屋だ。そんな部屋に引きこもってる理由くらい一度はノリで文芸部に入ったものの、女子に浮かれてテニス部に入ったボール拾いの中陳にも分かるだろ?」


 ついでに言うと、ここは俺以外立ち入り禁止の聖域。


「後半は不要な情報が多かった気もするが……でもさ、翔瑠、いっつもここにいるじゃん」

「毎日が本能寺の変なんだよ。それくらい察してくれ」

「そっかー。毎日忙しいんだな~……」

「そういうこと」


 最近、影武者じゃない光秀が来たのもあって、本当に忙しいんだけどな。


「でもさー、先月のアレは酷いと思うけどなー」

「だから言ったろ! あれはラッキースケベの不可抗力だったんだって」


 謂れのない言いっぷりに思わず、翔瑠はイスを回転させて面と向かって猛烈に反発した。


「本人にも謝ったのか? 学校中、大騒ぎだったんだぞ?」

「頭が擦り減るくらいは謝ったさ。結果は……中陳の想像する通りだけど」

「まあ、翔瑠は翔瑠らしくやりたいことをやればいいんじゃないか?」


 来客者は投げやり風にそんなことを言ってのける。


「言ってる意味が分からん。日本語で頼む」

「それは……偉大な人間に近づくために、いろんな経験をした方がいいって話だよ」

「…………」


 中陳が冗談を言うトーンではなかったことに気が付くと、翔瑠は沈黙した。


「相手は世界で活躍するスーパー作家だ。賞だって、いくつ取ってるか数え切れないし、年端もいかない俺だって、彼の文章は好んで読む。それくらいの目標だ」


 俺だって、賞くらい取れる。応募さえすれば。


「そこで、今日の用件を聞いてくれ。きっと、翔瑠の将来の糧になる」

「……目的はそれか」


 結局のところ、中陳は面倒事しか持ってこない厄介な友人だ。

 説教じみたところは、お節介だと思えばどうということはない。


 ムカつくけど。




 事件というほどではないが、不可解な事案が学内で発生しているらしい。

 翔瑠は中陳の言われた証言通りに、行動パターンを真似してみることにした。


 放課後……を過ぎたさらに夜。

 つまり、部活に入っている奴らも帰路に着く頃の時間の噂。

 生徒Aが部活終わり、教室に忘れ物をしていることに気が付いたらしい。

 暑さが近づいている季節とはいえ、19時にもなれば辺りは暗くなるそんな時間帯。

 生徒Aは監守の目を盗んで閑散とした校舎に忍び込み、忘れ物を取りに行くことにした。

 忘れ物は無事に回収でき、後は一階の中庭から手当たり次第に見回りを始めた監守をどうやり過ごそうかと考え始める。


 問題だったのは、その帰り道だった。


「忘れ物を取った生徒Aは安心したのか、尿意を催し、トイレに立ち寄った……」


 男子トイレは一階、二階、三階の計三つ。その中で最も可能性が高いのが一階男子トイレ。

 翔瑠はぶつぶつと独り言を漏らしながら、一階男子トイレに入り、小便器の前に立ってみる。


 一見、何の変哲もない小便器。

 ただ、小便器で用を足していた生徒Aはどこからともなく聴こえてくる、音。

 いや、何者かの歌声に背筋が凍り、一目散に逃げ帰ったというわけらしい。

 恐怖のあまり、腰が抜けて尻餅をついたと痛みを訴えていた、という証言もある。

 しかし。


「誰も歌ってないけどな……鼻歌すら聞こえない」


 証言通りに行動してみたものの、ここに来て差異が生まれた。

 五分ほど小便器の前で待ってみたが、音楽室が近くにある一階の男子トイレからは歌声どころか、物音すらも何も聴こえて来なかった。

 念のため、クラス教室が多い二階でも試してはみたが、案の定、聴こえなかった。

 だとしたら、残りの三階ということになるのだが……


 翔瑠が三階への階段を昇り始めると、微かに誰かの歌声が聞こえてきた。

 女性の喉奥から出したような深い声がまるで、三階への到着を祝福するかのように。


「やっぱりか……」


 三階は聴こえて当然なのだ。

 なぜなら、三階では月、水、金の週三日で空き教室を使って職員らが発表会に向けて居残りの合唱練習をしているからだ。

 生徒の何人かが誰もいない校舎から歌声が聴こえてくるという相談を受けてきたが、ここ一ヶ月、職員らが保護者に面目を保つために居残りの合唱練習をしていると言えば、大体は腑に落ちて、納得するだろう。

 だが、仲介者の中陳によると、生徒Aはその回答に納得が付かなかったらしい。

 何故か。今聞いた通り、彼ら彼女らのパートごとに分けられた野太いような逞しいような、そんな合唱を聴けば、一耳で判別できそうなものだというのに。


『それが……身体の神経を逆撫でされるような、寒気の走る歌声だったらしい』


 バカバカしいと思った。

 それじゃあ、幽霊が歌でも歌っているのかと冗談交じりに聞いてやると、


 かもな。


 と、中陳は投げやりに答えた。

 肝心なところは教えないアイツのいつものやり口。

 今回もまんまと乗せられたわけだが、その歌声すら聴けないんじゃ意味がない。


 どんなのか楽しみだったんだがな。


 翔瑠は首にかけたヘッドホンから微量の音楽を流して小便器の前で立ち尽くす。

 現在は18時55分。

 あと、5分。

 5分待って、合唱しか聴こえて来なかったらもう帰ろう。

 そう、心に誓った。


 19時になっても、何も起きなかった。

 正しくは、唯一聴こえていた合唱の野太い声が疲れてきたのか小さくなっただけだった。

 無駄なことに時間を費やしている暇はない。

 たしかに、そう思っていた。


 窓を開けるまでは。


 翔瑠は見回りを始めた監守をどうやり過ごすか、考える必要があった。

 監守の見回りが一階の中庭から始めるということは、三階のトイレの窓から様子を窺う必要があった。そして、様子を窺うには、必然的に窓を開ける必要がある。


 ここまで言えば、分かるだろう。


 瀬崎翔瑠は生徒Aと同じ行動を今現在、初めて取ったということを。


 そして、窓の向こう側からは聴き心地のいい歌声。

 職員らの野太い合唱とは対比するような、冷気的で芯の通った証言通りの歌声が空から降ってくるように、流れてきたのだ。

 歌声の主がいる場所は……おそらく、ここではない。同じ階の教室であれば、配置的にある程度は聴こえてくるはずの音が三階トイレでは窓を開けないと聴こえて来なかった。


 つまり、この歌声は三階からではない。


「どうして……キミが?」


 屋上に辿り着くと、制服を纏った黒髪の女が振り向きざまにこちらを覗いた。

 長身の骨格に、人形のように感情の読めない瞳が衝撃を与える。

 立ちくらみのような気怠さに視界が覆われる。

 自身が何らかの錯覚を起こしながら、息を切らしていることに、止まってから気が付いた。


「ごめん、お客さんいた」


 彼女はただ一人の聴衆に向けて、一言だけ、そう言った。

 さっきまでヘッドホンから垂らすように流していたあの歌が。


 たしかに、聞こえた。


「あのっ……」

「はい」


 人が変わったような冷静すぎる返事とは裏腹に、翔瑠の声は怯えるほどに震えていた。


「い、一分だけ……話、いいか?」


 それは野球選手にサインをもらうファンボーイのような慎重ぶり。

 それが出会いで、それが初めましての挨拶。

 感嘆して場を繋げることすらできず、思いの丈を、情熱を、ぶつけたのはその後の話。




「ずっと探してたんだ。俺の――歌姫を」


 そして、翔瑠の敬遠していた非常識な行為、通称ナンパに繋がったわけだが。

 勝ち目のあるナンパだと、踏んでいた。


「……貴方、変わってますね」


 黙っていた彼女は、淡々と相手の印象を語った。


「そうかな? 自国の勇者を知らない方が変わってると思うけど」

「……は?」

「この俺を知らない方が変わってると思うけど、と言ったんだ」

「そうですか。貴方の言う通り、私は神坂美成子という者です。知名度はそこそこあると自負していますが、学校で話しかけられたのは入学してからは、貴方が最初ですね」

「だって、屋上というよりも山頂気分で歌ってたし……」


 それも開放的に。


「山頂にはいませんでしたが。それは……そうでしたね。私も油断してましたから」

「観衆はいないと思って歌ってた?」

「そうですね。貴方に聞かれたので、もう歌いませんが……」

「俺が観衆だ。これからも歌ってくれ! ……って、俺の中の俺が言ってる……」


 初対面の人間に非常識なことを言う貞操観念が、発言を鈍らせる。

 

 今更アンコールですか……

 

 なんて空耳も聞こえてくるくらいには鈍っている。

 けれど、その少しの勇気が届いたのか、彼女は口元を綻ばせた。

 愛想笑いか本心からか、微かな笑みをこぼしてから、目線を地面に降ろした。


「じゃあその、貴方の中の貴方にも伝えておいてくださいますか?」

「おう! なんでもとは言わないが、伝えるぞ」

「丁重にお断りさせていただきます、と」

「……えっ?」

「ということで失礼しますね。私、次の授業がありますので」


 そう言って、彼女、神坂美成子は潔い挨拶を添えて、清々しく廊下を去っていった。


 追いかける暇も余裕も、なく。

 ただ焦燥感だけがそこに残ったまま。

 あれだけ眩しく反射していた夕陽の廊下は姿を晦まし、頭上の蛍光灯が白く光った。

 置いて行かれた一人の男子生徒Bは呆然としたまま、その場で立ち尽くしていた。


「そこは断る流れじゃなかっただろーが……」


 言葉では彼女に責があると言いながらも。

 自分のした行動の愚かさと後悔の方が、大きく押し寄せてくる中で……。


「諦めないぞ……お姫様は……」


 挽回の目を探る。




「定時制?」


 叩いていたキーボードから指が離れた。

 彼女の受ける授業というのが何かは存外、すぐに判明した。


「ああ、そうだぞ。完全下校時刻の18時の一時間後から始まるのが定時制」

「うちの学校にもそんな都市伝説あったのか……」

「本当にあるぞ。ただ、あんまり知られてないのは事実だなー」


 うちの生徒なら、制服を着てるのも納得だ。


「19時から何時まで?」

「21時までじゃね? 俺も詳しいことはよく知らないよ。翔瑠が知らないなら尚更」

「そうか。21時までなら魔法が解ける恐れはないな」

「とにかく、俺が知ってることはここまでだ。参考程度にどうぞ」

「依頼してきた人間がこれだけの情報とは。中陳は所詮、下っ端仲介役か」

「一端の仲介役として言わせると、翔瑠がここまで興味を持つのは意外だったね」

「どういう偏見だ?」

「偏見もなにも事実だろ。放課後は文芸部のアトリエに必ず引きこもってキーボードを仕事人のように叩いていた人間が今、まさに外に出ようとしている」


「それはつまり、外に連れ出すほどの、魅力的な何かを見つけたってことだ」




 ああ、その通りだ。

 だから、今日だって俺は行動で示すよ。


「書いてきたんだ、歌詞」


 完全下校時刻の過ぎた、薄暗がりの放課後。

 屋上に行くと、やはり彼女は居た。

 だが、その表情はあの日見た清々しい顔ではなく、への字になった怪訝の顔。

 警戒心を緩めることなく、彼女は黙ったまま紙の束を受け取る。


「一日で、これを……?」


 彼女のページをめくる手は早まり、感嘆の声を挙げる。


「ああ、寝ずに書き上げてきた」


 翔瑠は毅然とした態度で口角を緩めない。


 わずか一日でこの作業量をこなしたのか? という意味なのか、

 わずか一日でこのクオリティを作り上げたのか? という意味なのか。

 前者は聞き飽きているから後者であるべきだ、と瀬崎翔瑠は信じて疑わなかった。


 自身の作家としての実力を、矜持を、信じていた。

 今の今まで。


 数分後、一通り目を通したらしい美成子が口を開いた。


「この文章は、詞のつもり?」

「そうだが」

「率直に言うと、まるで成ってない。交換日記じゃないんだからさ……」


 彼女は苛立ちを露わにして、つむじを掻く。


「面白い意見だな。俺の文章を否定するのか?」

「当然。吐き気のするポエムをどうも、ありがとう」

「ぽ、ポエ……⁉」

「一つ一つ上げてもキリがないから言わないけど……一つ、端的に感想を」


 その瞬間、狼狽しながらも翔瑠は悟った。彼女のなんとも鼻につく澄ました表情から読める、沸々と心の底から湧いた貯め込んだモノがこれから、僕の顔に吐き出されることを。


 けれど、的確に。

 適切な表現を選ぶように吟味して、言霊を喉の奥から手に取った。


「貴方は、誰をメインヒロインにするの?」

「……は」

「貴方が書いたコレ。純粋なひたむきさを引き出すためにラブソング調の甘い言葉を並べるのは結構だけど、貴方の頭の中では少なくとも……三人、ヒロインが息をしてるよね」

「……それは……!」

「小説と作詞は、別物だよ――」


 言霊は見事に、僕の顔面を覆った。

 汗ばんだ強く握りすぎた拳がプルプルと震えて、収まることを知らない。


「これで納得してね。自称、天才作家さん」


 完膚なきまでに論破された少年を尻目に、少女は陽が完全に沈んだ屋上を後にした。


 嵐のような出来事だ。

 心当たりがなかったと言えば、嘘になる。

 経験がないということは、恥をさらすリスクを孕んでいるから。

 それでも、挑戦しなければ結果は得られない。


 歌詞を書くとき、学校の身の回りからキーワードを連想させた。

 初恋、後輩、そして憧れ……どれもこれまでの自分の経験から捻り出したもの。


 それでも、足りないというなら……俺は――。


「毎日、ポエムを……ラブレターを贈るしかないだろ」


 断られたのならば、納得させるまで。落ち込むというコマンドは俺には存在しない。


 読んでもらえるまでのラブレターを。

 心に響くような、ドキドキさせるラブレターを完成させてやる。


 神坂美成子を、絶対に堕としてやる――。




「こんにちは~」


 部室の扉を自分の部屋みたいに、押し開ける女生徒。

 机の上で本を読んでいた文芸部員はたちまち視線を扉にやって顔を覗かせた。

 部員の一人は突然押しかけてきた来訪者に真摯に対応する。


「えっと……なにかご用でしょうか?」

「瀬崎翔瑠さん、いますか~?」

「おいおい、アンタ。辞めた方がいいぞ」


 扉の前に立つ、ガタイのいい男子生徒がその名前を訊くと、横槍を入れた。


「アナタは?」

「俺は中陳ってもんだ。その瀬崎翔瑠の仲介人ってところ」

「仲介人……? よく分からないけど、それなら話が早いじゃん」

「どこへ行く?」

「ここにいるんですよね? 通してもらえます?」


 女生徒が部室の一角にある扉に向かうと、中陳はその場で立ちはだかる。

 まるで門番のようだ。


「残念だが、今日は無理だ。依頼は受け付けられない」

「ワタシは彼の顔を見に来ただけなんですけど……」

「そういうのもお断りだ。アイツを誰だと思ってる? そんな簡単には無理だ」

「分かりませんよ? やってみないと」

「いいや、無理だね。なんせ、俺とも口を聞いてくれないくらい集中してるからな」

「トモダチのこと、尊重してるんですね~」

「いや、尊重っていうより管理をだな……っておい、入ろうとするな」

「いてっ」


 ドアノブに伸ばした白い手を、お手付きを注意するように中陳はぺしっと軽めに叩く。

 女生徒は叩かれた左手を抑えて、上目でじろりと門番を見る。


「女のコに手をあげるなんて……」

「初めて見た顔だし、あげない理由がないな」


 門番は平然とした顔で応える。焦りはなさそうだ。


「彼にワタシが来ていることを伝えれば、一声でこの扉を開けてくれるのに……」

「そんなわけないだろ。アイツがパソコンから目を離すときなんて、トイレの時だけだぞ」

「部屋に入ってもこちらを向かない?」

「基本無視がほとんど。目が合わない日なんて珍しくもないね」

「じゃあ、伝えてみてください。ワタシの名前だけでも!」

「意地っ張りな依頼人だな……」

「第三者にそんなこと言われる筋合いはないんですけど……お願いします!」

「まあ……伝えるだけならな。意味ないと思うけど」


 渋るように快諾した中陳は扉の窓越しに声をかけた。

 自己主張の強そうだの、被害妄想がありそうだの、偏向を加えながら説明している。

 そして、最後に名前を言ったら、扉の前で耳打ちしていた中陳は鈍い音ともに頭を抑えて後方に倒れ込んだ。


 神坂美成子。


 その名を聞いた途端、

 友人の頭をかち割る勢いで、血相を変えた部屋の主が扉を開けて出てきたのだ。


「な、な、なんでここに……⁉」


 美成子は上機嫌に人差し指を天に差して、説明をした。


「答えは一つ! ファンサしに来ました」


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