苦くて甘い、ライバルの味
承知いたしました。
それでは、長編小説『キッチンカーは恋の始まり』第2話をお届けします。
第2話:苦くて甘い、ライバルの味
黒川蓮という男が私の日常に現れてから、オフィス街でのランチタイムは、甘いクレープの香りと、心の平穏には縁遠い緊張感が漂う戦場と化した。
戦いの火蓋は、毎朝の場所取りから切って落とされる。私が朝七時に来れば、翌日、彼は六時半に来ている。ならばと私が六時に来れば、その次の日、彼は涼しい顔で五時半からスタンバイしているのだ。早朝の静かな公園前に、レモンイエローと漆黒の車体が無言の火花を散らす光景は、我ながらシュール極まりなかった。
営業が始まれば、今度は客足の探り合いだ。私の店に若い女性客の列ができれば、彼のキッチンカーからやけに大きなコーヒー豆を挽く音が聞こえてくる。まるで「俺は俺の仕事に集中してるんで」とでも言いたげな当てつけのようだ。かと思えば、彼の店に、いかにもコーヒー好きそうな男性客が吸い寄せられていくのを見て、私が「負けるもんか!」と普段より大きな声で呼び込みをしてしまう。まったく、大人げないにもほどがあった。
面白いことに、私たちの店は客層が見事に分かれていた。「Sunny Crepe」には、ランチの後のデザートを求めるOLさんや、見た目の可愛さに惹かれた女性客が。「Kurokawa Coffee」には、スーツ姿の男性会社員や、テイクアウト用のタンブラーを持参するような、見るからにコーヒー通っぽい人々が。まるで磁石のS極とN極のように、私たちは互いに反発しながらも、この一角で奇妙なバランスを保っていた。
そんなライバル関係が始まって一週間が過ぎた頃。私は一つの結論に達した。「敵を知り、己を知れば百戦殆うからず」と言うじゃないか。あの黒魔術コーヒーが、一体どれほどの魔力を持っているのか、この舌で確かめてやる必要がある。
昼のピークが過ぎ、客足が途絶えたタイミングを見計らって、私は財布を握りしめ、敵陣へと向かった。
「……コーヒー、一つください」
自分でも驚くほど、声が小さくなった。窓口から顔を出した黒川さんは、相変わらずの仏頂面で私を一瞥する。
「豆は」
「は? え、えっと…普通ので…」
「うちに『普通』はない。ブラジルか、エチオピアか」
メニューボードを指差す彼の、ぶっきらぼうな口調。そこには、私が聞いたこともないような産地の名前がいくつか並んでいた。そのこだわりに少し気圧されながらも、「じゃ、じゃあ、ブラジルで…」と、かろうじて知っている名前を口にする。
彼は「ブラジル」と短く復唱すると、無言で作業に入った。まず、ガラスの容器から、つやつやと黒光りするコーヒー豆を計量スプーンで正確に掬い取る。それを電動ミルに入れると、ガガガッというけたたましい音と共に、えもいわれぬ芳醇な香りが車内から溢れ出した。その匂いだけで、私の店の甘い香りが一瞬にしてかき消されてしまうような、圧倒的な存在感があった。
彼は挽きたての粉をドリッパーにセットし、細い注ぎ口のケトルから、一滴、また一滴と、まるで儀式のように丁寧にお湯を注いでいく。その真剣な横顔は、いつも私をイラつかせる仏頂面とはまるで別人のようだった。ただひたすらに、目の前の一杯と向き合う職人の顔。私は、その無駄のない美しい所作から、目が離せなくなっていた。
「…四百円」
差し出された紙コップは、じんわりと温かかった。私は無言でお金を払い、そそくさと自分の車へと逃げ帰る。まるで、見てはいけないものを見てしまったような気分だった。
運転席に座り、恐る恐る黒い液体を口に運ぶ。
一口、飲んだ。
(……え)
二口、飲んだ。
(うそでしょ…)
そして、三口目。私は、目を見開いたまま固まった。
違う。私が今までコーヒーだと思って飲んできた、ただ苦いだけの飲み物とは全く違う。最初にガツンと来る香ばしさ、その後に広がるチョコレートのような深いコク、そして、後味にふわりと鼻を抜ける、ほのかな甘みと酸味。複雑で、奥行きがあって、それでいて驚くほどすっきりと飲める。
悔しい、悔しい、悔しい。
心の底から、腹が立つ。
でも――美味しい。
それは、彼の仕事が決して「黒魔術」などではなく、確かな知識と技術、そして何より、コーヒーへの深い愛情に裏打ちされたものであることを、何よりも雄弁に物語っていた。私は、手の中の紙コップが空になるまで、ただ黙ってその「本物」の味を噛み締めることしかできなかった。
その日から、営業終わりに彼のコーヒーを買って帰るのが、私の屈辱的で、しかし抗いがたい日課となった。
「今日はエチオピア」「明日はグアテマラ」と、ぶっきらぼうながらも毎回違う豆を勧めてくる彼に、「べ、別にあなたのコーヒーが飲みたいわけじゃないんだからね!市場調査よ、調査!」と、我ながら意味不明な言い訳をしながら。
そんな日々が二週間ほど続いた、ある金曜日のことだった。
客足が一段落し、私が片付けを始めようとした時、目の前にすっと影が差した。顔を上げると、そこに立っていたのは、黒いエプロン姿の黒川さんだった。まさかの、敵陣からの来訪。私の心臓が、どきりと大きく跳ねた。
「クレープ、一つ。一番甘くないやつ」
低い声で、彼はそう注文した。その挑戦的な眼差しに、私の負けん気に火がついた。甘いものが苦手そうな顔をして、私のクレープを試しに来たというわけだ。いいでしょう、望むところよ。あなたのそのひねくれた舌を、私のクレープで唸らせてあげる。
「はい!シュガーバターですね!少々お待ちください!」
私は、これから世紀の対決に挑む料理人のような気迫で、生地の準備に取り掛かった。熟練のフレンチレストランでシェフを務めていた祖父から叩き込まれた、我が家の秘伝のレシピ。最高級の発酵バターの芳醇な香りを最大限に引き出す、完璧な配合。
熱した鉄板に、お玉一杯分の生地を流し込む。トンボと呼ばれる道具で、薄く、均一な円を描く。ぷつぷつと気泡が浮かび、香ばしい匂いが立ち上ってきたら、ひっくり返す最高のタイミングだ。裏面にも美しい焼き色がついたら、熱々の生地の上に、黄金色の発酵バターをたっぷりと塗る。じゅわ、と音を立てて溶けたバターが生地に染み込んでいく。最後に、フランス産のブラウンシュガーをさらさらと振りかければ、私の原点にして最高の自信作、「黄金バターのシュガーバタークレープ」の完成だ。
「お待たせしました!」
私は、震える手で完成したクレープを彼に手渡した。彼は無言でそれを受け取ると、私の店の前から少し離れた公園のベンチに腰掛け、食べ始めた。
その一挙手一投足が、気になって仕方がない。仕事なんて、まったく手につかなかった。
彼は、大きな口で一口。そして、何を考えるでもない無表情な顔で、もぐもぐと咀嚼する。また一口。その繰り返し。美味しいのか、不味いのか、そのポーカーフェイスからは何も読み取れない。やがて、あっという間にクレープを食べ終えた彼は、包み紙を小さく丁寧に畳んでゴミ箱に捨てると、私の店の前を通り過ぎ、自分の車へと戻ろうとした。
(な、なによ!感想の一言もないわけ!?)
私が心の中で叫び、あまりの仕打ちに愕然とした、その瞬間だった。
「…悪くない」
彼は、前を向いたまま、ぽつりとそう呟いた。
その声は小さくて、雑踏にかき消されてしまいそうなほどだったけれど、私の耳には、はっきりと届いた。
残された私は、しばらくその場で呆然としていた。悪くない、ですって?なんだか、ものすごく上から目線。素直に美味しいって言えないのかしら、あの人は!
そう思うのに、なぜだろう。胸の奥が、じんわりと温かくなった。顔が、カッと熱くなる。彼なりの、最大の賛辞。そんな気がしてならなかった。
その日を境に、私たちの間に張り詰めていた険悪なムードは、春先の薄氷が溶けるように、少しずつ和らいでいった。
朝の準備中や、営業後の片付けの最中、ぽつり、ぽつりと会話が生まれるようになった。
「天野さん、そのバター、どこで仕入れてるんだ」
「黒川さんこそ、その発電機、うちのより静かですね。どこのメーカーですか?」
「この辺りは、風が強いからタープの固定はしっかりした方がいい」
「そっちの店、排水のタンク、満タンになりかけてるぞ」
同業者だからこそ分かる苦労や、キッチンカーならではの悩み。そんな、誰にも言えなかったことを分かち合える相手が、すぐ隣にいる。その事実は、私が思っていた以上に、心強いものだった。
私は、彼がただの無愛想で意地悪な男ではないことを、日に日に知っていった。コーヒー豆の産地の、貧しい農園の子供たちの話を、少しだけ寂しそうな目をして語ること。商売道具であるミルやエスプレッソマシンを、まるで我が子のように、毎日丁寧に磨き上げていること。彼の仕事は、彼の生き方そのものなのだ。
いつからだろう。私が心の中で彼を「黒魔術コーヒー」と呼ぶことは、なくなっていた。まだ少し、むかつくけれど。まだ全然、素直じゃないけれど。
黒川蓮。
彼は、私の好敵手(ライバル)であり、そして、同じ夢を追う、一人の「仲間」なのかもしれない。
そんな風に思い始めていた、夏の気配が近づいてきた、ある日のことだった。
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