キッチンカーは恋の始まり
はるさき
太陽のクレープと黒いコーヒー
「つきましては、本日をもちまして退職させていただきたく…」
私が差し出した退職届を前に、人事部長の眉間の皺は、地殻変動でも起きたかのように深くなった。無理もない。入社五年目、そこそこの評価を得て、安定という名のレールの上を順調に走っていたはずの私が、突如として脱線を宣言したのだから。
「天野くん、本気かね。理由を聞いても?」
「はい。私、クレープ屋さんになります!」
シン、と静まり返った会議室で、私の声だけが妙に明るく響いた。唖然とする部長、隣でこっそり噴き出す同期、呆れたように首を振る先輩。その反応のどれもが、今の私にとっては心地よいエールに聞こえた。もう、誰が何と言おうと、私の決意は変わらない。
私の名前は天野ひかり、27歳。高校時代からの夢だったパティシエへの道を、一度は諦めて一般企業に就職した。けれど、パソコンのモニターに映る数字を追いかける毎日の中で、心の中でくすぶる小さな火は、消えるどころか年々大きくなっていった。香ばしい生地が焼ける匂い、純白のクリームが泡立つ音、そして、スイーツを頬張った人の、あのとろけるような笑顔。それらすべてが、私の本当の居場所はここではないと、叫び続けていた。
退職後、私は水を得た魚のように動き回った。専門学校時代の教科書やノートを引っ張り出し、クレープ生地の配合を夜な夜な研究した。理想の味を求めて、都内の人気クレープ店を食べ歩き、その舌と記憶を頼りに試作を繰り返す。小麦粉とバターの匂いに満ちたアパートの一室が、私の最初のラボであり、夢への発射台だった。
そして、最大の関門であり、最大の投資。私の城となる、キッチンカー探しが始まった。新車を買う資金など到底なく、中古車サイトを巡回する日々。そして出会ったのが、走行距離こそかなりのものだったが、一目で恋に落ちたレモンイエローの中古ワゴンだった。くたびれてはいたけれど、丸っこいフォルムが、太陽みたいに笑いかけてくれているように見えた。
なけなしの貯金を頭金にし、残りは震える手でサインした事業用ローン。手元に車のキーが渡された日、私はその小さな運転席で、嬉しくて少しだけ泣いた。
名前は「Sunny Crepe」。太陽みたいなクレープで、みんなを笑顔にしたい。そんな願いを込めた。専門業者に頼むお金はないから、内装はすべてDIYだ。ペンキの匂いにむせながら壁を白く塗り、インターネットで見つけた可愛いタイルをカウンターに貼り付けた。窓にはギンガムチェックのカーテンを吊るし、小さな黒板に拙い字でメニューを書く。それは決して楽な作業ではなかったけれど、自分の手で一つひとつ夢の城を築き上げていく高揚感は、何物にも代えがたかった。
そして、ついに開業の日。
出店場所に選んだのは、高層ビルが林立する都心のオフィス街だった。ランチタイムになれば、お腹を空かせたビジネスマンたちがどっと街に溢れ出す。彼らの胃袋と心を、私のクレープで満たしてあげよう。そんな野望を胸に、私は公園前の、木漏れ日が降り注ぐ絶好のロケーションに車を停めた。
「Sunny Crepe、オープンです!焼きたての美味しいクレープはいかがですかー!」
我ながら、弾けるような声が出た。甘く香ばしい匂いが風に乗って広がり、道行く人が物珍しそうにこちらを見る。よし、いい感じだ。
最初の客は、近くの会社に勤めているらしいOLさん二人組だった。「可愛いお店!」「インスタに載せよー!」と写真を撮り、チョコバナナクレープを買ってくれた。幸先の良いスタートに、私の胸は期待で大きく膨らんだ。
しかし、現実は小説のようにはいかない。
開業から三ヶ月。
「はぁ…。今日も売り上げ、いまいちかぁ」
平日の午後二時。ランチタイムの喧騒が嘘のように静まり返ったオフィス街で、私は一人、カウンターに突っ伏した。
開業当初の物珍しさはあっという間に薄れ、客足は伸び悩んでいた。もちろん、「ひかりさんのクレープ、午後の仕事の癒やしなの」と言ってくれる常連さんもできた。その言葉が聞きたくて、その笑顔が見たくて、私は毎日ここにいる。けれど、通帳に記帳される数字は、容赦なく現実を突きつけてきた。ローンの返済、毎月の出店料、そして高騰する一方の材料費。夢だけではお腹は膨れないし、車も走らない。
「弱気になってどうする、私!」
両手で頬をパン、と叩いて気合を入れる。大丈夫。私のクレープは、絶対に美味しい。生地にはフランス産の小麦粉と発酵バターを使い、注文を受けてから一枚一枚丁寧に焼き上げる。クリームだって、数種類の生クリームをブレンドして、甘すぎず軽やかな口当たりに仕上げている。このこだわりが、いつかきっと、たくさんの人に届くはずだ。
「よし!明日こそは、行列作るぞー!」
誰もいない車内で一人拳を突き上げる。私の唯一の取り柄は、この根拠のない明るさと、少々のことではへこたれない頑固さなのだから。
そんな決意を新たにした、ある月曜日の朝のことだった。
いつもより気合を入れて、普段より三十分も早く家を出た。月曜日は週の始まり。ここで良いスタートを切れば、きっと今週はうまくいく。そんな願掛けにも似た気持ちで、いつもの公園前のベストポジションへと車を走らせた。
角を曲がり、目的の場所が見えてきた瞬間、私は思わず急ブレーキを踏んだ。
「……え?」
そこには、見慣れない一台のキッチンカーが、我が物顔で停まっていた。
黒。
とにかく、真っ黒だった。光を一切反射しない、艶消しのブラックで塗装された、角張ったフォルム。装飾というものを完全に拒絶した、無骨で威圧感のあるデザイン。窓から覗く厨房機器はすべてシルバーのステンレスで統一され、まるで移動要塞か、秘密組織の特殊車両のようだ。
かろうじてキッチンカーだと分かるのは、車体の側面に、銀色の流麗な筆記体で『Kurokawa Coffee』とだけ、そっけなく書かれているからだった。
「な、なによ、あの車…」
私の定位置。公園の緑と木漏れ日が最も美しく映える、あの一等地を、寸分の狂いもなく奪っている。その事実が、私の頭にカッと血を上らせた。なんで!今日はいつもより、こんなに早く来たのに!
私は自分のレモンイエローの車を、その黒い要塞から少し離れた、日の当たらない場所に仕方なく停めた。エンジンを切り、やるせない気持ちで黒い車を睨みつける。中から人の気配はするが、窓がスモークになっているせいで、どんな人間がやっているのか全く分からない。それが余計に、私の神経を逆撫でした。
「こうなったら、直接言ってやる…!」
ドアを勢いよく開け、仁王立ちで敵陣へと向かう。アスファルトを蹴るスニーカーの音が、やけに大きく響いた。
「すみませーん!ちょっといいですか!」
思い切りよく声を張り上げると、黒い車の提供口の窓が、ゆっくりと、億劫そうに開いた。
そして中からひょこっと顔を出したのは、その車に輪をかけて無愛想な男だった。
黒いTシャツに、黒いエプロン。整っているはずの顔立ちは、完全に寝起きのそれのように不機嫌そうで、色素の薄い瞳はすべてが面倒くさいと物語っていた。切り揃えられた黒髪が、彼の冷たい印象をさらに際立たせている。歳の頃は、三十二、三歳だろうか。
私が呆気に取られていると、男は私を一瞥し、すぐに興味を失ったように視線を外し、手元のコーヒーミルをいじり始めた。まさかの、無視。
「あの、聞いてますか!ここ、いつも私が停めてる場所なんですけど!」
「……」
「早い者勝ちっていうのは分かりますけど、同業者同士、暗黙のルールっていうものが…!」
私の必死の訴えに、男はようやく顔を上げた。そして、低い、体温の感じられない声で、ぽつりと呟いた。
「早い者勝ち、なんだろ」
その、あまりにも人を小馬鹿にしたような態度。私の怒りの導火線に、綺麗に火がついた。
「なっ…!なんて言い草!信じられない!いいわ、見てなさいよ!あなたのその、黒魔術師がやってるみたいなコーヒー屋より、私の太陽のクレープの方が、百倍お客さんを呼べるんだから!」
我ながら、小学生レベルの啖呵だ。売り言葉に買い言葉。でも、もう止まらなかった。私の渾身の捨て台詞に、男は初めて表情を変えた。ほんの少しだけ口の端を上げ、鼻で、ふっと笑ったのだ。そして、それだけ。すぐに彼は自分の作業に戻ってしまった。
完全に、戦力外通告をされた気分だった。悔しさで、目の奥がツンとする。
「…もういいです!」
私は踵を返し、自分の車へと戻った。カウンターの裏でエプロンの紐をきつく結びながら、先ほどの男の顔を思い出す。
(なんなのよ、あの黒魔術コーヒー!)
そうだ、あだ名はそれに決まりだ。あの無愛想で、人を人とも思わないような男にはお似合いだ。私は心の中でそう毒づき、メラメラと燃え上がる闘志を、クレープ生地を混ぜ合わせる泡立て器に込めた。
「絶対に、負けないんだから…!」
こうして、オフィス街の一角を舞台にした、私の甘くてしょっぱい戦いの日々が、幕を開けたのだった。
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