世界は征服されている
@maj_ime
第一章
女が立っていた。薄手のワンピースを身に纏い、手をぶらりと垂らし、ざあざあの夕立に濡れ、こちらをじっと見つめている女が、そこに立っていた。
なんだ?
思わず俺はそれを凝視する。目が合う。その瞬間、女がわずかに口角を上げたように見えた。俺はなにか気持ちが悪くなって、すぐに目を逸らそうとする。だがそうするより先に、女は突然背中を撃たれた。
無論それは比喩だけれども、実際に背中を撃たれたらきっとこんなふうに膝から崩れ落ちるのだろう、と思った。
一瞬の驚きの後に、面倒を覚える。俺はたまたまここで雨露を凌いでいただけだ。それが、突如十メートル先で倒れた得体の知れぬ女を救う使命を帯びることになってしまった。
俺は半身の姿勢を保ちつつ、恐る恐る女に近づく。すぐ傍まで接近して、続けて女の肩を指先で突いてみる。反応はない。
「おい。大丈夫か」
そう言いながら、今度は手のひらを使って少し大きく揺らす。が、やはり女は体重の全部を大地に預けてだんまりしている。
俺はひとまず女を抱え庇の下のベンチまで運んだ。肩ほどまでの髪がフードから漏れ出す。
若いな。二十前後か。貧血でも起こしたのだろうか。
俺は急いで傍にある自販機で水を買った。貧血を起こした人間に水を与えることが果たして正しい措置なのかは判らないが、まあ逆効果ということはないだろう。
庇の下まで戻ってくると、女はいつの間にかベンチから体を起こし、立ち上がろうとしていた。
「おいおい、まだ大人しくしてろよ」
俺はそう叫び、肩を掴んで女を制止する。
「ほら、これ飲めるか。しばらくは大人しくしとけよ」
そう言って先ほど購入した水を差し出すと、女は意外にもすんなりとそれを受け取ってがぶがぶと飲みだした。掴めない女だ。
「にしても酷い雨だよなあ。こんな土砂降り、いつ以来だろうな」
俺がそう言うと、水を満足に飲んだ女はまだ飲みかけの瓶を俺の方に差し出した。
「いや、返されても。やるって」
すると女はぺこりと頭を下げて、その手を引っ込めるのだった。無口なやつだ。
「お前さん、家どこだよ。もう少し雨弱くなったら近くまで送ってやるよ」
しかし女は今度も口を開くことなくただ首を横に振るだけだった。
「いや、そうは言ってもな。また倒れちまうかもしれないだろ」
そう言うと女は、今度は首を動かす代わりにポケットから徐にメモ帳とペンを取り出した。俺は変な目でそれを見る。メモ帳は半分ほどのページが濡れてダメになっていたが、かろうじて生き残ったページもあるようだ。女はそこに何かを書き出す。ペン先の形から、それが万年筆だと判る。
『助けていただいてありがとうございました』
「いや……え」
女の行動に俺は戸惑いを覚える。何の真似だろう。
『家はこの地区にはありません』
女は淡々と書いては俺に見せ、そしてまた何かを書き始める。俺の動揺は増すばかりだった。
そして女はついに、俺の疑念を確信に変える。
『私は、声が出ません』
それから女は、およそ三日間飲まず食わずでこの街を徘徊していたということを紙面上で説明した。動機を尋ねたが、変な顔をしてはぐらかされた。混乱が直らない。
「家族とかダチは一緒じゃないのか」
『家族は皆〈
「ああ、そうか」
悪いことを訊いてしまったと反省する。
『知り合いもこの地区にはいません』
この地区というのは、今俺達の居るR−01地区のことだろう。しかし、それはおかしい。
〈火雨の日〉をきっかけに地区ごとの棲み分けが為されて以降、各地区間の越境は認められていない。つまり、女の知り合いが他の地区にいるなら、彼らは〈火雨の日〉以前からの旧友ということになる。そして、〈火雨の日〉から時は既に十年以上経過している。その間に何らかの形で知人関係を築いた者もいるはずである。でなければ、この荒廃した世界を独りで生き抜いてこられたはずもない。しかし今、彼らがこの地区には居ないとこの女は主張している。
俺はひとまず、抱いた疑問をそのまま女にぶつけてみることにした。
「お前さん、別の地区から来たのか」
すると女は少し考えるような顔をした後、先ほどと同じように何かを書いてこちらに見せた。
『宿を提供してもらってもいいですか』
どうやら質問に答える気はないようだった。
雨の勢いが少し弱まったのを見計らい、俺と女は庇の下を離れることにした。帰路の間、二人に会話はなかった。この雨の中女にメモ帳を取り出させるわけにもいかないので仕方あるまい。
俺の家は職場から二五分ほど歩いた場所にある。郊外に出るほど、戦争の名残が道路の脇に顔を出す。鉄筋の飛び出たコンクリート、粉砕したガラスの破片、割れた食器、万年筆、片耳の外れた犬のぬいぐるみ、おしゃぶり。負の遺産が街灯に照らされて一斉にこちらを睨む。俺にはそれらが各々名前の付いた幽霊に見える。そしてその視線に胸を傷ませることにも、幾分か慣れてしまっていた。
隣を歩く女は、この積み重なった瓦礫を見て、何を思うのだろう。女の表情はよく判らない。ただ、十歩進むごとに街頭に照らされる緑の黒髪だけが網膜に映る。
俺はその黒髪を知っている気がする。
俺の目線に気づいたのか、女はこちらに顔を向けて首を傾げる。俺はばつが悪くなって目を逸らし、足を動かすことに専念した。
そうして、全身を適度に濡らしながらも、なんとか家に到着した。壁はコンクリートが露出し、地面には間に合わせの絨毯やクッションが敷き詰められている。戦争の跡地から、かろうじて居住可能な廃屋を拝借しているにすぎないので、部屋の数と広さ以外に贅沢を言うことはできない。
女を部屋の奥に促す。そこにはいつものようにロッカーと戯れるプーマが居た。
俺はまずプーマに女のことを軽く説明する。
「プーマ、唐突ですまないんだがちょっと道でこの姉ちゃん拾ったんだ。出会い頭で急に倒れちまってよ。すぐに頼れる身寄りもないらしいから、まあとりあえずここに泊めることにした。勘弁な」
するとプーマは口をあんぐりさせて言う。
「……はあ? いやちょっと、どういうことだよ、カンさん」
俺はひとまず彼の悪態を無視して、女に俺の同居人を紹介した。
「あのちっこいのはプーマ。確か今十二とかだったかな。まあ生意気なガキだ。容赦はしなくていい。そんで更にちっこい方はロッカーだ。いつもプーマの玩具にされてる。基本は大人しいんだがあんまりちょっかい出すと引っ掻くから気をつけろ」
一通り説明すると女はプーマの方を見つめたまま口を半開きにして固まっていた。女に気づいたロッカーもこちらをじっと見つめている。まだプーマが悪態をついているのが聞こえたが、俺は女の表情を見てハッとし、説明を補足した。
「この地区では、原則一つの家屋に二人以上で暮らさなきゃなんねえんだよ。ほら、住む場所限られてるから。事前に説明するの忘れてたな、悪かった」
そう言うと、一応は納得してくれたのか、女は戸惑いながらも部屋に一歩踏み入れた。
「埃臭くて悪いな。まあ適当にくつろいでてくれ。あ、その前に着替えねえとだな。ちょっとこっち」
そう言って俺は女を寝室に招き、もう小さくなって着なくなった服を選んで女に渡した。
「まあこれでも多分お前さんにとっちゃ一回り大きいだろうが、我慢してくれ」
そう言い捨てると俺は女を寝室に置き去りにし、自分の分の着替えを持ってプーマのいるリビングに向かった。
「急な話で悪いな」
俺は着替えながらプーマに一連の事情を詳しく説明した。
すると彼は声の音量を抑えて「そんな怪しい人、簡単に家に上がらせちゃっていいのかよ。俺今日怖くて眠れないよ」と訴えた。
「しょうがないだろ、あの場で置き去りにするわけにもいかなかったし」
俺もあの女に対する得体の知れなさを拭い切れたわけではなかったので一応は彼の意見にも同情的だが、こちらの言い分も精一杯に伝えてはおく。
すると彼も一応は納得してくれたらしい。ふうん、と吐き捨てて再びロッカーの相手をし始めた。当のロッカーはまだ状況が飲み込めていないようで、眉間に皺を寄せた顔をプーマに撫でられていた。
しかしどうしたものだろうか。見知らぬ女を家にあげる経験は生憎持ち合わせていなかった。とりあえず今は体力を回復してもらって、自力で家に帰ってもらうしかないか。いや、仮に家が別の地区にあるのだとしたら話はそれほど簡単には終わらない。それにしても、一体彼女はどのようにしてこの地区に侵入したのだろうか。そもそも本当に家はあるのだろうか。なぜあれほど衰弱していたのだろうか。なんらかの事情で家を追われ、長い放浪を強いられ、行き着いた先がここだったのだろうか。もしかしたら何者からか逃げているのか。あるいは何者かを探しているのか。
整理のつかぬ脳みそは、お湯の沸騰を知らせるヤカンの合図に注意を奪われ一時回転を止める。
キッチンで茶を淹れてリビングに戻ると、女はソファに腕を乗せ、その上に頭を預けていた。ロッカーは少し離れた場所で警戒しながら遠目で女の顔を観察している。
「ねえカンさん。姉ちゃん、寝ちゃったよ」
「おいおい、まじかよ。せっかく淹れたのに」
悪態をつきつつ、三杯のうちの一杯をプーマに渡し、傍にあった適当な毛布を女の体に被せてやった。
「まあ道端で倒れるくらい弱ってたんだし、無理もねえか。一晩寝れば元気になるだろ」
そう言って俺はプーマとロッカーに就寝の挨拶をして、リビングの灯りを落とした。
まあ、明日のことは明日考えればいい。焦ることはないさ。俺はそうやって現状への不安をなんとか説得し、二人分の茶を飲み干して瞼を閉じた。
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