懐中時計

藤宮一輝

第1話

網戸の隙間から生ぬるい風が入って、僕は窓のほうに目を向けた。陽が沈んでしばらく経った黒紫色の空を、ほんのり透けた薄雲が流れていた。それらが時折、少し欠けた月を隠したり見せたりするのを僕は何も考えず目に映し続けた。


ふと、立ち上がって台所の方へ歩き出した。サイズの割に大きな音で稼働する冷蔵庫の前で立ち止まり、中腰になって扉をゆっくりと開ける。中に溜まった冷気が、なめらかに体の前面に広がっていくのを5秒ほど楽しんだ。


気を取り直して、上段に敷き詰めた缶を、手探りで手に取ってはまた戻してを繰り返したが、どれだけやっても目的のものは現れなかった。どうやら、こんな月見日和に限って、麦芽飲料を切らした不届き者がいるらしい。


全ての缶を確認した後、小さくため息をついて冷蔵庫を閉め、立ち上がった。ベッドに投げ捨てられた薄灰色のパーカーと、玄関に置いた財布を掴んで家を出た。いつもならケチって発泡酒を買うところだが、今日は本物のビールを買おうか、そういえば前にビールを飲んだのは大学生のときだったか、などと思いを巡らせながら、また月を見た。


「空が、少ないなぁ。」


ふと、口をついて出たその言葉の意味を考えた。


家からコンビニまでの道は、川に沿って続いている。この川というのが、確か10年くらい前だったかに氾濫したとかで、大規模な護岸工事が行われたらしい。そのおかげで、今は見上げるくらいの土手に挟まれる形となったと、先月ここに越してくる際に不動産屋が言っていた。


そして、今日の月は川の方角にあった。そのせいで、月を見上げた時に見える空の割合が少なく、大半が土手の斜面だったわけだ。


考えてみれば大したことのないことだった。ただ、その時の僕は、そんな大したことのない事実を口にして気分が悪くなった。僕はどうやら、月を見ようとする権利を、誰かに侵害されているようだ。権利を行使するには、土手より高い所に行く必要があると思った。


僕は歩きながら、どこかに階段はないかと黒い土手に目を凝らした。コンビニを2つ過ぎた辺りで、ようやく凹凸の影を見つけた。


100段ほどの階段を一段飛ばしで登った。すっかり夜となった世界は、先程までの不自由が嘘のようにそこにあった。空は開け、月だけでなく星座を形作る二等星までも鮮明に見て取れた。目を閉じると、川のせせらぎと、時折蝉の鳴き声が鼓膜に響いた。


何者にも邪魔されぬ視界に満足して、コンビニに戻ろうと視線を水平に戻した時、奥の街灯の下に丸い影が見えた。見間違いかと何度か目をこすったが、目を凝らせば凝らすほど、それが人、しかも子供であるとわかった。


逃げよう、そう思った。こんな時間に、こんな暗い所に子供がいるはずがない。いるとしたら、それは幽霊の類だ。なおさらすぐに立ち去らないといけない。


一方、竦んで一歩も動かない踵を返そうと必死に力を入れながら、こうも思った。もし本当に幽霊なら、とっくに襲ってきているはずだ。これだけ色々考える時間があるということは、もしかすると本当にただの子供なのかもしれない。


思いのほか、進む方向には足が動いた。丸い影の後ろまで来ると、土手道の端に、オレンジ色のカチューシャを付けた女の子が、川の方を向いて座り込んでいた。


「何してるの、こんな時間に。良い子は寝る時間だよ。」


女の子は、はっとした顔で振り向いた。小学生くらいだろうか、と思った。中学生にしては、随分と幼い顔立ちだった。


「おじさん、誰?」


いつの間にか、自分がおじさんと呼ばれる見た目になっていたことに、何より驚いた。確かにここ最近は髭も髪も伸ばしっぱなしだったが、それでもせいぜいお兄さんくらいには見える予定だった。あるいは、このくらいの子供からすれば、父親以外の労働世代の男性は皆おじさんに見えるのかもしれない。


「おじさんは、……おじさんだよ。初対面の人に個人情報を教えちゃダメって、小学校で習わなかった?」


「大人でもそれ守ってるんだ。大変だね。」


「それで、何してるの?」彼女の隣の草に腰を下ろして、改めて問いかけた。


「時計を探してるの。」


彼女はそう言って、あっけにとられた僕を尻目にまた川の方に視線を戻した。


親に怒られたとか、友達と喧嘩したとか、こんな時間に小学生が独り川を眺める理由を色々想定していたが、そのどれでもなかった。ただ、目を皿にしてじっと目の前の川を見つめている姿は、彼女の言葉が嘘ではないことを物語っていた。


「そうだ。」ふと、彼女は長い髪を振りながらこちらを向いた。「おじさんも手伝ってくれる?」


僕は一瞬迷ったが、「いいよ。」と答えた。


「ほんと?」暗くてよく見えなかったが、彼女の表情が少し緩んだ気がした。


「昔から得意なんだよね、失くしたもの見つけるのは。」


数年前に買って忘れていたキーホルダーから大事に使っていたシャープペンシルまで、自分のものかどうかも関係なく、なんとなくこの辺りにあるだろうという目星がつくほうだった。これは自分の超能力なんだと、中学生くらいまで信じていた。

社会人になってからは使う機会はめっきり減った。使う必要がなくなったというのもあるが、経験上、大人になってからの探し物が見つからない場合は、誰かが意図的に隠していることが多い。


案の定、古いサーバーに隠された会社の不祥事の記録を、あろうことか僕は社長に報告した。次の日には、僕はその不祥事の責任とやらで、8年働いた会社を解雇されていた。


「でも、今から探すの?もう真っ暗だよ?」


隣にいる彼女さえも、街灯の光から離れれば見失ってしまいそうだった。それに、こうも暗いと、見つかるものも見つからないだろう。


「うーん、続きは明日にしよっかな。今日は雲が多いし。」


彼女はすくっと立ち上がると、「じゃあね、おじさん。また明日。」と言い残して、さっさと土手の奥へ走っていった。


呆然としていたが、「気をつけて帰るんだよー!」とすっかり小さくなった後ろ姿に叫んだ。彼女が振り返って手を振った気がして、次の瞬間には彼女を暗闇の奥に見失った。

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