第4話 反論への回答書(追記)
追記文書:反論への回答書(第1版)
作成者:王家監査妃 セシリア・アルテン
配布範囲:国王陛下/王太子殿下/公証官/宰相府/王宮記録庫
目的:想定される中傷・異議に対する手続上の回答を事前提示し、戴冠式における朗読の円滑化を確保する。
夜は深い。紙はさらに白く、インクはさらに黒い。陰影がはっきりするほど、事実は自分の形を取り戻す。
王弟が置いていった“楽士の証言”という脅しは、音で殴って噂で仕留める算段だ。だったらこちらは記録で受け止め、手続で返す。
「ミーナ、当番表」
「はい、こちら」
彼女が差し出したのは、私室階の警護当番表。見慣れた革紐が静かに鳴る。
「“私室出入り”の記録は兵舎側と二重で一致。時刻も刻みも、噂が入り込む余地がない」
私は回答書のフォーマットを開く。短く、簡潔に。比喩は節約。——けれど、必要なところでは尖らせる。
Q1:楽士が“王妃候補の私室”を出入りしたとの証言がある。
A1:当該“私室”は王妃候補控室(公務室)であり、居室ではない。出入り記録(兵舎・王宮記録庫の二重記録)は音合わせと衣装仮縫い**の時間帯に一致。私的接触の時刻は存在しない。
添付:当番表・仮縫い票・防犯魔眼の通過刻(匿名化済)。
Q2:監査妃は“冷遇”の恨みから監査を濫用しているのでは。
A2:監査妃の職務は王家布告第27号に基づく定員職。監査項目は王家歳出の公共性の範囲内に限る。私怨の証拠が提示されたことはない。むしろ“冷遇”を受けた立場が他用途の支出にノータッチ**だったことは、利害相反の回避に資する。
添付:第27号布告写し/監査起案時の利害相反誓約書。
Q3:宰相府の“訂正版”を受領しないのは業務妨害。
A3:“訂正版”には原本性**(真正本である要件)の欠陥。紙質/墨配合/字体頻度の統計差異、さらに誤差が“皆無”という誤りが検出されている。公証の実務は“最新”ではなく**“真実に最も近いもの”**を正本とする。
添付:照合表・線圧図・統計票(読みやすい図版付)。
Q4:戴冠式の朗読は政治を煽る。
A4:朗読は要旨のみ**・固有名は職名置換・罪責の確定は後段の判示で行う。事実の開示を遮れない形に整えるための最小限の手続であり、政治的煽動に当たらない。
添付:朗読用台本(王家式典規定に適合)。
ペン先が乾く音。回答の骨格は組めた。あとは、決定打——王弟印の版差を裏づける、ひとつの“見えない傷”。
見えない傷は、習慣の中にある。
「刻印師ギルドの親方に、古い原型の保管庫を見せてもらえますか」
老公証官が頷く。「夜分だが、呼べる。親方は“王家の印は王家のもの”という古い倫理で生きておる」
「倫理は、法の前に来ます。壁の土台ですから」
やがて、親方が再び現れた。腰の鑿が月光を吸い、目尻に金粉のような疲れが光る。
「原型庫はこちら」
ギルドの地下室。ひんやりした石室、棚には布で包まれた小箱が並ぶ。親方はひとつを慎重に開き、薄膜の油を拭い、蝋を一滴垂らして型を取る。
「古い王弟印の原型だ。彫りは甘いが、若気の至りというやつでな」
親方はわずかに笑い、次の小箱を開ける。「これが再彫後。角が立ちすぎて、朱が乗らん。だから“左肩”が薄くなる」
「左肩……線圧図と一致します」
「もっと決定的なのがある」
親方は灯を寄せ、小さな彫り痕を指した。「微小な欠けだ。肉眼ではほぼ見えぬが、左下の“王”の横画が髪の毛一本ぶん短い。古い原型だけの“癖”。本当に同じ版なら、必ず写る」
私は息を呑み、羊皮紙にその位置を記した。
「ありがとうございます。版差はこれで確定です」
戻る道すがら、鐘が一つ、また一つ。王都は眠り、式の朝へ向かって沈む。
監査室に戻ると、ローレントが待っていた。二度ノックの合図。
「確認を」
「印の微細欠け、位置特定。古原型にのみ存在。再彫版にはない。線圧差・紙質差・誤差の不在と合わせ、原本性欠落の三点セットが揃いました」
「十分だ」殿下は短く頷く。「……だが、人も必要だ」
「証人、ですね」
「うむ。寺院、刻印師、近衛、いずれも職能名で立つ。最後に——セシリア。君自身の**“恐れの記録”**を載せられるか」
私は目を瞬いた。「恐れ?」
「君は冷遇に耐えた。噂も浴びた。その事実を“被害者の叫び”ではなく、“手続に浄化された報告”として残す。それは象徴になる」
私は少しだけ考え、頷いた。
「付記として最終頁に置きます。文字は短く。感情は節約」
付記案(草稿)
本報告書の作成に際し、妃は“恐れ”を感じた。
恐れ:軽微/理由:手続により軽減
恐れ:一過/理由:証拠により消散
恐れ:再燃の恐れ/対処:公証と記録により予防
——恐れは記録され、王冠の重みで平準される。
ミーナが顔を上げる。「素敵です」
「素敵という評価は、脚注に回しましょう」
軽く茶化すと、彼女は肩をすくめ、笑った。笑いは、紙に油を差す。
そこへ、三度の連打。非常のノック。扉が開き、近衛隊長が息を切らして飛び込む。
「記録庫の内扉、宰相府が“王弟の緊急裁可”でこじ開けにかかっています!」
空気が一段、低くなる。
「寺院は?」
「僧は外扉を死守。ですが、内側から煙が——」
私は立ち上がった。「紙を焼くつもりね」
老公証官が杖を掴む。「行くぞ。火は、壁の内で燃やすと言ったな」
「ええ。壁をもう一枚、人で作りましょう」
私たちは廊下を駆ける。夜の王宮が、短く鋭い警鐘の連なりに変わる。
内扉の前は紛糾していた。宰相府の書記官たちが油灯を掲げ、押しのけ、金具に棒を差し込んでいる。扉の隙間から、薄い煙が帯のように吐き出される。
「退去せよ!」近衛隊長の号令。槍の石突が床を撃ち、音が場を縫い止めた。
「王弟殿下の緊急裁可だ!」宰相の副官が叫ぶ。
老公証官が一歩前へ。「緊急の定義を申せ。王冠に関わる真実の保全より急ぐものがあるか」
「式典を乱す雑音だ!」
「雑音とは火のことか。ならば、火はわしが受け持つ」
老紳士は王印箱から公証印を抜き取り、私に目で合図した。
「セシリア、二重押印の覚書を」
「ここにあります」
運用覚書・抜粋
・記録庫保全のため、外扉:寺院印、内扉:公証印を一時的封緘。
・封緘は王太子裁可により夜明けまで有効。緊急時は監査妃—公証官—近衛隊長の三者承認で一時解除。
・扉破壊を試みる行為は王家記録の毀損未遂として拘束対象。
ローレントが到着し、即時裁可を下す。公証官が印を扉に押し、寺院の僧が外扉側に再び蝋を落とす。二枚の印が夜気に冷え、赤が固まっていく。
宰相はなおも食い下がった。「王弟殿下は、式典で真実を語るおつもりだ」
「ならば朝に語るがいい」ローレントの声は低く、鋭い。「記録は夜に守る。王冠は朝に載せる」
押し問答のさなか、私は煙の筋に目を凝らした。羊皮紙の焼け匂いではない。油灯の炎が吸い込まれ、吐き返すたび、香のような甘い匂いが混ざる。
「ミーナ、嗅いで」
「……香油?」
「ええ。花代のだ。——証拠の臭いよ」
私は扉の隙に布を詰め、煙の流れを止める。近衛が水を運び、床に撒く。
宰相府の書記官が後ずさり、誰かが叫ぶ。「やめろ、蝋が固まる!」
私は淡々と告げた。「固まってください。判子は、真実の味方です」
騒ぎが鎮まるのを待って、私は回答書の末尾に一行を足した。
Q5:式典前夜の混乱は“監査妃の強引さ”に起因する。
A5:混乱は“証拠の保全”を妨げる行為に対する手続上の防壁の結果であり、王太子裁可および寺院・公証官・近衛の三権的連携**に基づく。強引さではない、合意された強さである。
ペン先を置く。
内扉には二つの印が固まり、煙は消えた。宰相府は退き、夜はまた深くなる。
私は報告書と回答書を重ね、封蝋に息を吹く。蝋は赤く、輪は均質。
——前例は、明朝つくられる。ならば今夜は壁をつくる番だ。
更新:提出物一覧(本日起案・追加)
反論への回答書(第1版)
刻印師ギルド証言調書(原型“微小欠け”位置図付)
運用覚書「二重押印による夜間保全」
次回提出予定:朗読用要旨・最終稿/図版掲示の配置図/判示草稿(公証官協議用)
窓の向こう、東の黒がほんのわずか薄くなる。
紙は白く、インクは黒い。
朝になれば、王冠は真実の上に。
そのために、今はただ手続を積む。
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