第9話 裁かれる者

 夜の空気は、乾いていた。

 雨も止み、外の世界は妙に静まり返っていた。

 それなのに――家の中だけが、音を失っていた。

 床には転がるグラス。

 倒れた椅子。

 散らかったままのリビング。

 美咲の胸の奥で、何かが止まっていた。

 息も、思考も、心拍も。

 ただ、耳の奥で“誰かの声”だけが、ずっと囁いていた。

 ――やっと、静かになったね。

 父の姿はもうなかった。

 母は泣き崩れ、誠は黙って何かを見つめている。

 そして、悠人が小さな声で言った。

 「お姉ちゃん……怖いよ」

 その言葉が、刃のように刺さった。

 守らなきゃ。

 この子だけは、絶対に守らなきゃ。

 でも――何から?

 誠?

 父?

 母?

 それとも、自分自身?

 考えるたびに、世界が揺らぐ。

 視界が歪み、色が混ざる。

 『ねえ、あの子、まだ怖がってるよ』

 『だから、怖くないようにしてあげよう?』

 頭の奥で、声がする。

 優しい声だった。

 子守唄のような、静かな音。

 美咲は、無意識に手を伸ばしていた。

 悠人の頬に触れる。

 小さくて、温かい。

 「……大丈夫。もう何も怖くない」

 自分がそう言ったのか、もう一人が言ったのか分からなかった。

 「お姉ちゃん、苦しい、、、」

 世界はゆっくりと暗転した。

 音も光も消えて、

 残ったのは、自分の鼓動だけ。

 ぎゅっと、何かを抱きしめたような感覚。

 でも、それは温かくも冷たくもなかった。

 ただ、何かが――消えていく感覚だけがあった。

 目を開けたとき、美咲は床に座り込んでいた。

 リビングの空気は静まり返っている。

 窓の外では、夜明け前の薄明かりが滲んでいた。

 悠人の姿は見えなかった。

 手のひらの温もりだけが残っていた。

 彼を――守れたのか。

 それとも、壊してしまったのか。

 わからなかった。

 ただ、胸の奥が空っぽだった。

 玄関の外で、誰かが叫んでいる。

 サイレンの音。

 赤と青の光が、窓の向こうで交互に瞬いた。

 誰かが美咲の腕を掴み、引き離す。

 母の泣き声。

 誠の笑い声。

 そのすべてが、遠く、遠くに消えていく。

 ――「どうして泣いてるの?」

 誰かが訊いた。

 でも、その声が自分のものなのかすら分からなかった。

 美咲は空を見上げた。

 朝焼けが差し込んでいた。

 光の中に、悠人の姿が一瞬見えた気がした。

 笑っていた。

 いつものように。

 美咲はその笑顔に手を伸ばそうとしたが、

 手錠の冷たい金属が、彼女の動きを止めた。

 その瞬間、全てを理解した。

 守ることと、壊すことは、

 ほんの一枚の紙の裏表だったのだ。

 「美咲・K――傷害致死の疑いで、身柄を確保します」

 警官の声が遠くに聞こえた。

 彼女は抵抗しなかった。

 もう何も、守れなかったから。

 胸の奥で、誰かが微笑んでいた。

 ――ほらね、最初からそうなる運命だったんだよ。

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