女子プロレスラーと恋愛するだけの話 第一部

円つみき

第1章 スカーレットキャットとジンリッキー

 四日市ドームで、女子プロレス団体「ブレイズ」の大会を観てきた。


 僕のお目当ては、「ブレイズ」所属の覆面レスラー、スカーレットキャット。

 “推し”と言うには、もはや気持ちが深すぎる。これはもう、恋なのかもしれない。  


 マスクをしているから素顔はわからない。もしかしたら、可愛いかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、そんなことはどうでもいい。

 僕は彼女の「技」に、心底惚れ込んでいる。あの小さな身体を体操選手のように自在に操り、空中を舞う。

 特にフライングニールキック、旋風脚、レッグラリアート。跳び蹴りのバリエーションには、強いこだわりが感じられる。そのこだわりが、見ている僕の胸を鋭く突いてくる。

 変形タイガースープレックス、ファルコンアロー、そしてタイガーフロウジョンといった投げ技のセレクションにも、彼女のプロレスへの哲学が感じられる。

 身体が軽いせいか、試合ではなかなか勝てない。でも、僕は彼女の姿をこの目で見られるだけでいい。それだけで深い満足感と幸福感を同時に得られるのだ。


「ブレイズ」は、名古屋を拠点とする女子プロレス団体だ。愛知、岐阜、三重を中心に巡業する。

 僕の住む四日市にはブレイズがなかなか巡業に来ないから、名古屋で試合があるときはできるだけ見に行くようにしている。


 今日は四日市ドームにブレイズが来ると言うことで、朝から何も手につかない。

 試合開始よりずいぶん早めにドームに着いて、会場の雰囲気やグッズ販売などを楽しんだ。

 特に試合前の握手会がこの上ないイベントだった。なぜならこの日の握手会はスカーレットキャットが担当だったからだ。

 憧れのスカーレットキャットが目の前にいて、さらにその手に触れることができて、あまりの興奮に鼻血を出してしまった。

 周りが騒然となってかなり恥ずかしい目にあったけれど、スカーレットキャットはマスク越しに笑ってくれたから、まあいいかなと思った。

 スカーレットキャットはマスクをしててもかわいい。


 今日のスカーレットキャットは六人タッグマッチに出場した。

 実質、リングに立っている時間は短かった。それでもスカーレットキャットの代名詞ともいえる空中戦を、間近で見られたことは眼福この上なかった。


 リングに立つ彼女を思い出すだけで顔がにやけてしまう。

 帰りの電車の中でもにやにやとしている僕は、きっとかなり気持ち悪い種族になっていただろう。


 居酒屋で一人、今日のパンフレットを眺めながらスカーレットキャットのことを考える。そんな至福の時間を楽しんでいた。

 最近のお気に入りの居酒屋は「おだや家(おだやか)」という。四日市の繁華街からちょっと外れた場所にひっそりと店を構えている。

 カウンター席が8つと4人掛けのテーブルが2つだけの小さな店だ。だけど、僕みたいなボッチが行くにはちょうどいい。

 飲食店らしからぬ、もじゃもじゃ頭の店主が料理も接客も一手に担っている。

 たまにアルバイトの女性が手伝いに来るときもあって、店の雰囲気がちょっとだけ明るくなる。


 店主は一見いい加減そうなのに、料理にはどこかしらのこだわりがあって、酒のラインナップも妙に豊富だ。

 話してみると驚くほど聞き上手だし、いい意味で脱力感があって居心地がいい。お気に入りの空間だった。


 僕はだいたいカウンターに座る。

 この日もカウンターの一番端の席に腰を下ろして、キュウリとわかめの酢の物とアジフライをつまみにビールを飲んでいた。すでに何度も見たパンフレットを、またペラペラと眺めていた。


 ふと、今日のお客さんに目がいった。

 隣の客は――女性だ。

 チラリと見えた横顔は、髪が肩にかかるくらいの長さで先のほうだけ軽くウエーブがかかっていて、赤みを帯びた色に染められていた。

 ぱっと見では派手さを感じさせないけど、照明の加減でふわりと赤色が浮かび上がる。

 …おしゃれだ。思わず口から洩れそうだった。

 そんな自分のキモさで爆散しそう。


 彼女はつまみをいくつか頼んで、ひとりで酒を飲んでいた。

 4人掛けのテーブル席では、大学生くらいの女の子が二人、ビールジョッキを手に笑い合っていた。

 しかし、僕は女性が近くにいると本能的に目を逸らしてしまう。僕はボッチ中のボッチであり陰キャ中の陰キャである。

 我ながら残念すぎる。そんな自分にうんざりしながらカウンターの奥にある酒瓶の棚に目を向けた。


 棚には焼酎にウイスキー、ブランデーからジンやラムなども置いてある。酒の種類が多いちょっと変わった居酒屋だ。その品ぞろえは酒好きの店主の趣味らしい。

 スカーレットキャット、今日の君に乾杯…、などと妄想を膨らませつつ、ビールを楽しんでいた。


 と、そのとき、隣の女性が酒を注文した。

 普段なら他人のオーダーなんて気にしない。でも、耳に残ったのはその一言だった。

「ジンリッキー。ライム強めで」

 ジンリッキー自体は珍しいカクテルじゃない。僕も好きで、何度か頼んだことがある。だけど「ライム強め」なんて頼み方は初めて聞いた。どんな味になるんだろう。

 ここの店主は変わり者だ。「客が飲みたい酒を出すのが真の居酒屋じゃん?」が口癖だ。

 この前、「それ、言いたいだけじゃないの」と突っ込んだら、焼き鳥を一本食べられてしまった。なんて奴だと思う。

 そんな店主だから「ジンリッキー、ライム強めで」なんて頼まれたら、嬉々として乱舞しながら作ってくるに違いない。

 僕はつい、興味がわいてちらちらとその女性とグラスの様子をうかがっていた。


 ほどなくして店主が満面の笑みでジンリッキーを差し出した。乱舞はしていなかったが。

 彼女はグラスを目の前にして、小さく間を置いてから、一口、口をつけた。

「あ」

 小さな声が漏れた。僕は思わず息をのむ。

 そしてもう一口飲むと、眉をひそめて、こう言った。

「これ…、違う」

 思わず身を乗り出しそうになった。

 何が違うんだろう?

 そもそも女性のことが少し気になっていたこともあり、余計気にしてしまった。

「あの…」

 僕が声をかけると女性は少し驚いた様子でこちらを見た。

 その驚いた表情を見て我に返った。

 そうだった!僕は陰キャ中の陰キャ、キモオタ中のキモオタだった!こんな底辺のくず男に突然声をかけられたら卒倒するか、原子ごと消滅するよな。


 しかし、その女性は卒倒も消滅もせず、すぐに笑顔になった。

「はい?」

「すみません、変なことを聞いてもいいですか?」

「え?あ、はい」

「そのジンリッキー、なんか違うんですか?いつも頼む味と違うなーって思ったんですか?」

 僕は思い切ったように早口で言ってしまった。

 女性はきょとんとした顔で僕を見つめた後、にやっと笑った。

「あなたも飲んでみる?」

 え!?いいんですか!?やったー! と心の中でガッツポーズをしたが、それは間接キッスになるんじゃないの?そんなことをしたら、あなたと結婚するしかない。

「あ、いや……あの……」

「遠慮しないでよ」

 女性がグラスを僕に差し出す。

 僕は動揺しながらも彼女の顔を正面から見ることになった。


 こんなふうに正面から女性の顔をまじまじと見るのは、ずいぶん久しぶりだ。目がぱっちりしていて、声も思っていたより大きい。

 年齢は…多分20代前半か中頃くらい。僕と同じくらいに見えるけど、落ち着いて見えるから少し年上だろうか。化粧っけはないけど、顔立ちがはっきりしていて、美人だ。間違いない。

 …かわいい。危うく口に出しそうになり、あわててグッと飲みこんだ。こんな僕なんて、細胞ごと浄化されたほうがいい。


「いただきます」

 思い切って彼女のライムが強めのジンリッキーを一口飲んだ。その瞬間、僕は固まった。

「これ、リッキーやないやん…」

 なんで関西弁やねん。

 ジンリッキーはジンとソーダ、そこにライムを絞ったカクテルのはずだ。

 だけどこの味は…甘い。この甘さと苦みはソーダじゃない。店主が間違えてトニックウォーターを使ってしまったんだ。

 僕の変な関西弁が面白かったのか、女性は笑いながら言った。

「そうよ。これジンリッキーじゃないでしょ?君もよく気が付いたね」

 僕はこくこくと頷いた。

 彼女はグレーのジャケットにパンツスタイルだ。営業職っぽい感じがした。仕事帰りなのだろうか。なんとなく、センスの良さを感じた。


「てーんしゅー」と、店主を呼ぶ。僕は彼を呼ぶときはいつもこんな感じで呼ぶ。店主も店主で、調子を合わせて「なーにー」と答えてくれる。彼のこういうところが好きだ。

「そのお客さんに出したジンリッキーって、トニックで割ったんじゃない?」

 と聞くと、女性が大笑いをした。その隣の大学生が興味ありげに見ている。

「ええええ?本当に?あ、ごめんなさい」

 店主が謝ると、また女性は楽しそうに笑った。

「店長さん、このお兄さん面白いねえ」

 女性が店主に言ったのを聞いて、僕は安心した。

(こんなキモオタのくず男でも女性を笑わせることができた。これで天寿を全うできた、さようならスカーレットキャット…)

 そう心の中でスカーレットキャットにお別れを告げ、胸に十字を刻みかけた。


「ねえ、お兄さん!今日は飲むんでしょ?」

 そう言って彼女は微笑んだ。

 僕はこくこくと頷きながら、彼女の顔を直視できないので、店主が持っているグラスを見ながら言った。

「あ、はい…飲みます…」

(ごめん、スカーレットキャット。僕は浮気をします)

 心の中で、一生貞操を誓ったスカーレットキャットに懺悔した。

 その女性は「店主が間違えたライム強めのジンリッキー」を飲みながら、とてもご機嫌なようで僕に笑いかけてくる。美人に微笑まれると爆発する体質なんだけど。

「お兄さん、名前なんていうの?」

「ふ、藤井…、み、弥浩…です」

 名前を自分から言うのは苦手だ。職場では名前を呼ばれるし、郵便も届く。戸籍もある。だから珍しいことじゃない。

 だけど、こうして誰かに名乗るのは、なんだかすごく特別なことをした気がする。ましてや、こんな美人に対してはなおさらで…。これって、婚姻届にサインしたってことなるんじゃないか?


「弥浩ぉ!」

「は?はいっ!」

 唐突に彼女が下の名前を呼ぶので、思わず背筋が伸びた。

「ねぇ。どうしてフルネームで名乗るの?面接じゃないんだからさ」

 彼女はケラケラと笑いながらグラスを揺らしている。

 僕は確かに、と我に返り、猛烈に恥ずかしくなった。早く帰りたい。逃げたい。いや、いっそこのまま蒸発しよう。


 彼女の質問にうまく答えることができずにしどろもどろしていると、店主が助け舟を出してくれた。

「弥浩くんは陰キャでコミュ障でキモオタだけど、まあ悪いやつじゃないからさ」

 フォローなのかディスなのか判別不能な言葉に、思わず僕は声を荒げた。

「ふざけるな店主!いや確かに!確かに僕は陰キャでコミュ障でキモオタだけど!さらに友達もいないボッチだから!」

 そういう自虐ネタすら楽しく感じる僕は、やっぱりどうしようもなくキモイ。しかし、店主とのこんな掛け合いも楽しい。


 そんな僕を見て、彼女は「ふーん…」と頬杖をついた。

「弥浩くん?あたしだったら、友達になってあげてもいいよ?」

 いたずらっ子みたいな笑顔で、さらっと言う。

 僕はまた固まってしまった。

「は、はい?」

 間抜けな声が出る。彼女はまた笑った。

「でもね。あたし普段、友達って作らないタイプなんだけどねー」

 そう言って彼女はジンリッキーを飲みほすと、僕を真似して「てーんしゅー!」とカウンターに向かって叫ぶ。

「これと同じのおかわりー!」

 これで同じお酒が3杯目になる。この人、お酒を飲むペースがめっちゃ速い。こんなペースで飲み続けたら、いったいどうなっちゃうんだろう。もしかして…ちょっと危険な人なのか?


 女性は佐倉佳音さくらかのんさんといった。

 三重県出身、今は愛知県で働いていて、今年で就職して7年目になるらしい。

 僕よりも少し背が低くて、くりっとした丸い目が特徴的だ。笑うと目がなくなる。

 声も大きく、朗らかに笑うのが印象的だった。

 顔立ちが整い、どう見ても美人だ。…なのに、どこか”かわいい”という印象もある。

 …あれ?完璧超人か?


 僕はほとんど聞き役で、たまに自分のことも聞かれるままに答えたけど、彼女の話を聞いているだけでも楽しかったし、嬉しかった。

 佐倉さんは僕の話に笑ったり、驚いたりしてくれたし、僕が話す内容に共感して頷いてくれた。それだけでも僕にとってはとても幸せな時間だった。

「弥浩って面白いなぁ!」と佐倉さんが笑った。

 いつの間にか、呼び捨てにされている。僕は自分が面白い人間かどうかはわからない。「ありがとう」とだけ返して、微笑んだ。

 僕の笑顔を見た彼女は、また楽しそうに笑った。僕もつられて笑う。

 僕は今まで感じたことがないような、そんな幸せな時間だった。


 やがて彼女は、カシスソーダを飲み干した後、店主におかわりを頼んだ。

 これで何杯目なんだ。もう数えられない。

 僕も彼女に合わせて飲んでいたけど、彼女のハイペースには付き合いきれない。今日はもうだいぶ酔いが回ってきたようだ。頭がふらふらする。

 僕は水に口をつけた。その様子を、彼女はじっと見ていた。


 そして、不意に口を開いた。

「ねえ、弥浩。来週の金曜の夜、あいてる?」

 僕は戸惑ったけれど、すぐに答えた。

「…あいてます」

 週末に予定なんてなんにもない。

 彼女はにこりと笑った。その笑顔を見た瞬間、僕の心臓は飛び跳ねた。

「じゃあさ、いっしょにご飯食べに行かない?」

「え?」

 彼女が言っている意味が理解できなかった。来週?僕と?食事?

「何を固まってるの。予定ないんでしょ?じゃあいいじゃない」

 間違いじゃないようだ。驚いた。でも嬉しかった。

 僕は何度も首を縦に振った。

 その後、連絡先を交換した僕たちは、店を後にしてそれぞれの家路についた。


 帰り道、僕の頭の中は佐倉さんとのやりとりでいっぱいだった。

 連絡先を交換したことも嬉しい。が、それよりも…彼女の方から誘ってくれた。それが何よりも嬉しかったのだ。

 ――「来週の金曜の夜、あいてる?」

 あの声が、何度も頭の中で繰り返される。

 思い出すだけで、顔がにやける。心臓の鼓動が早くなる。

 現実の女の人と話して、笑って、連絡先まで交換した。――この僕が。

 なんだか夢みたいだった。だからこそ不安で胸がざわざわする。…本当に会う約束なんてしてよかったんだろうか。


 ふと、スカーレットキャットに会いたくなった。

 ずっと彼女に励まされてきた。

 勝手にテレビの前で、観客席で、何度も何度も勝手に勇気づけられてきた。

 スカーレットキャットも弱気になることってあるのだろうか。この気持ちを聞いたら彼女はなんて答えてくれるのか。

 薄く今にも消えそうな三日月を見上げながら、そんなことを思っていた。

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