第20話 眠りと目覚めのあいだで
セラフィエルへ向かう馬車は、出だしからうるさかった。板バネが鳴るたびに声も跳ねる。
「だからワシは馬車は好かん!聞かせてやろう、戦時中の行軍の話を!」
「その話、何百回も聞いたよ!日に四十キロ行軍、でしょ!」
「うむ、あの頃は——」
「じいちゃんの足じゃセラフィエル間に合わないの!冬で閉山しちゃうの!これも何度も言ったよね!?」
「……そうじゃったかのう。なら、仕方ない!」
「このやりとりも三回目だよ」
しかし、その騒がしさは長く続かなかった。
最初に変わったのは食だった。
「じいちゃん、ほとんど食べてないじゃん」
「……あぁ、もう腹がいっぱいじゃ」
手は箸を持つが、箸は茶碗を越えない。馬車の揺れは同じなのに、匙の音だけが減った。
次に、起きている時間が短くなった。
「じいちゃん、ご飯食べないの?せめてスープだけでも」
「身体がだるくてのう。……後で食うわい」
言葉の終わりが布団の中へ落ちていく。午前の丘も、午後の峠も、眠りの境目が曖昧になる。
やがて、意識を保つのが難しくなっていった。
「じいちゃん!起きて!じいちゃん!!」
「……ルカか?ここは療院か?」
「馬上の療院だよ。……一緒にセラフィエル行くんでしょ?もうすぐだよ」
「そうか、そうじゃったのう……かっかっか……」
車窓の外では、旧国境の稜線が日に日に白くなる。風は針のように細く、夜明け前は息が白い糸になって揺れた。ルカは背嚢の脇に手帳を開き、短く記す。
〈脈拍90、体温37.5——三日継続〉
書いた指先が一瞬止まり、またページをめくる。馬車は雪の気配を鼻先に受けながら、きしみ声で進んでいく。
揺れる座席で、クレインは時々目を開ける。開けた目は必ず、前を向いている。峠の向こう、慰霊碑の方角。ルカは毛布を直し、手綱の音を合図に、また小さく拍を刻んだ。
セラフィエルの麓は、空の端をそのまま地上へ引き延ばしたようだった。幾重にも連なる稜は神々しく高く、上(かみ)のほうは早くも雪で薄く白んでいる。風が鳴るたび、雪化粧の面(おもて)がわずかにきらめいた。
「この山脈が……セラフィエル」
ルカは小さく息を呑み、馬車の幌へ振り返る。毛布に沈むクレインは、胸の上下だけがはっきりし、呼吸は荒い。ときおり、痰が絡むように低くゴロゴロと鳴った。
「じいちゃん、着いたよ」
恐る恐る声をかけると、クレインはゆっくりと瞼を上げた。
「……水を」
数日ぶりに戻った意識に、ルカは目を見張る。革袋の水を少しずつ口へ運ぶ。
「ゆっくり飲んでね」
口縁を離し、クレインは短く頷いた。
「行くかのう」
鎧は音を立てないように着けられる。胸当ての紐、籠手の留め、鞘の重み。ひとつずつ確かめる所作は、病み上がりの人間のそれではなかった。立ち上がる姿にも、どこか現実離れした静けさがある。
「無茶だ!」
ルカが思わず声を荒げる。
「数日、意識なかったんだよ!僕がどんな思いでこの数日間——」
クレインは不自然なほど穏やかな声で遮る。
「大丈夫じゃ。理由はわからんが、不思議と軽い」
彼は草地に出て、足を二、三度だけ跳ねさせた。続いて、型に入る。
剣先は大きく振られない。肩も腰も、無駄を捨てた回転だけがある。水が小石を撫でていくように、重心が前へ後ろへ移り、足の裏が土を押す。切先は空を裂かず、ただ空気の層を“通す”。拍は静かだが、一拍ごとに場の温度が変わる。激烈という言葉から遠い、澄んだ流れ——小川が日差しを映しながら曲がり角を受けていく、そのたわみ方に似ている。
「……本当に、大丈夫なんだよね?」
ルカの確認は、祈りに近かった。
クレインは、ただ頷く。
そこへ、雪焼けの地元の男が声をかけてくる。背には古い雪崩避けの板。
「登るのかい?もう来週には締めるところだったよ。山越えなら諦めな」
「問題ない。中腹までじゃ」
「……ああ、慰霊碑あたりの調査か何かか。今の時期、行くには金級ライセンスがいるよ」
クレインは懐から革入れを抜き、金級の冒険者証を示した。男の目がわずかに見開く。
「おっと、そいつは失礼」
ギルド章に通行許可の印が押され、赤い蝋が山風の中で冷えていく。
「この季節は雪崩がある。気をつけてな」
印の乾きを待つ間、ルカはもう一度、祖父の横顔を盗み見た。痩せた輪郭に、奇妙な静けさが宿っている。真剣であればあるほど、どこか可笑しくなる彼の顔——今は、その可笑しみすら澄み切って、山の空気のなかで輪郭だけが少し薄くなって見えた。風がひゅう、と通り、雪の匂いと、遠い岩の匂いが交じる。
「行こうかのう」
クレインが言い、ルカは頷いた。二人の影は、中腹へ向かう細い踏み跡へ重なり、雪化粧の稜線へ向けて、静かに歩みを始めた。
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