第6話 余白

——〈(余白)〉


 公開から始める。


 展示室は白く、音が薄い。ガラスケースの中、羊皮紙の面は、静かに正しさをまとって横たわる。キャプションには小さく——「不可読層」。

 午前の客たちは、距離の取り方を知らない指先でガラスを覗きこみ、声をこぼす。「古いね」「綺麗」「本当に浮かぶの?」。そのたび、ケースの縁を回る空調の微かな流れが、紙の上を撫でてゆく。撫でられても、紙は無反応だ。見えるものだけを、見えるように見せること——それが今日の役目であり、嘘だ。


 綾は一歩下がって立ち、果歩は半歩前に出て立つ。彼女たちの間に、薄紙一枚ぶんの距離。視線は交わらない。交わらないのに、同じ一点を見ている。昨夜、文字が「いない」ことの確認を済ませている面で、彼女たちの呼吸は沈む。沈んだ呼吸は、ガラスに映らない。映らないものだけが、ここでは真実だ。


 午後、研究者が来る。礼儀正しい握手、短い賛辞、次の助成の話。会話は軽い。軽い声は、紙に触れない。触れない言葉を選ぶことが、彼女たちの礼儀だ。

 「面の安定が素晴らしいですね。『不可読層』の語は、決定でよろしいですか?」

 綾は頷く。「ええ。読めてしまう角度は、展示には不要ですから。」

 果歩は、同意の沈黙を置く。沈黙は、最も正確な字幕だ。


 閉館のアナウンスが流れる。照明が一段落ち、客の衣擦れが廊下へ引いてゆく。最後にガラスの鍵が回る音がひとつ。可逆性の音。鍵を渡して、二人は会釈を交わし、展示室を出る。背後に残るのは、元通りを装った頁。装いの裏側に、今夜の行き先が灯る。


 私秘へ移る。


 工房の扉が閉まると、路地の橙は一枚の布で断たれる。空気が沈み、その沈みが床の木目に吸われていく。温湿度計は二十三度、四十八パーセント。理想と現実が、呼吸ひとつぶんだけ近い。


 「最小介入、可逆性、記録。」

 綾は三語を置き、一語ずつ息を細く落とす。果歩は復唱する。復唱の声は、今夜に限って、わずかに甘い粘りを帯びる。昨夜までに固まりきらなかった膠の匂いが、声の周りに薄い輪をつくる。


 作業台の上。写本には触れない。触れないために、二人は端紙を取り出す。裏打ちの練習用に取っておいた、薄くて、ほとんど空気のような和紙。残った余白のように、そこにいる。

 湯煎の鍋が静かに息をはく。膠は低い温度でほどけ、瓶の内側に光を作る。その光は、指に触れない。触れないが、触れる代わりに鼻先を撫でる。


 「端紙で、**最も丁寧な“誤用”**をしましょう。」

 綾の声は、提案と、告白の中間に置かれる。

 果歩は頷く。「可逆で、不可逆のふりをするやり方で。」

 ふたりは笑わない。笑うと、水分が出る。今夜、その水分は別の場所へ使う。


 膠の蓋を開ける。湯気のような匂いが、作業台の木目を撫でる。綾は刷毛を立てて、膠の表面に一度だけ触れ、糸を引かない厚みに滲ませる。境界の手前で止める技術が、官能の器に変わる。


 果歩が端紙の片端を持つ。指の腹が繊維の逆毛を拾い、撫でるたびに面が起きては伏せる。

 綾は膠を、端紙の裏側へ見えない線で置いていく。置く、止める。止める、置く。その繰り返しが、触れずに触れるためのリズムを刻む。

 「呼吸、合わせる?」

 果歩が問う。

 「今夜は、合わせる。」

 合奏の合図。二人の胸が、同じ拍で膨らみ、同じ拍で沈む。拍が重なるたび、刷毛の毛先が面の奥で音をなくす。音の消える場所に、官能は住む。


 膠を置いた端紙を、もう一枚の乾いた端紙へ重ねる。本来はしない擬似貼り。一時的な結びの儀式。重ねる瞬間、二枚の和紙が薄膜の口みたいに見える。見える、と言ってすぐに言い直す。見える気がする——それでいい。


 綾の指の影が、果歩の手の上を通る。通りながら、方向だけを指示する。影の重さが、肉の重さより確かに重い夜がある。

 「圧は、置くだけ。」

 「置くだけ。」

 指の背で、端紙の縁をなぞる。縁が息を吐き、膠が内側でうっすら張る。張りが生まれ、まだ乾ききらない。乾きかけの約束は、最も甘い緊張だ。


 果歩は意識的に目を閉じない。閉じると、空想が増殖する。開いて、見える範囲だけを受け取る。膠の匂い——甘い、と言うには粘りがあり、濃い、と言うには静かすぎる——が、喉の手前で止まる。止まった匂いは、彼女の声帯の記憶を撫でていく。


 「——先生。」

 今夜だけ、呼ぶ。薄紙一枚の距離を、名称で示す。

 綾は答えない。かわりに、唇の位置と同じ高さに端紙を持ち上げる。持ち上げた紙が、二人の間の橋になる。橋の中央に、膠のごく薄い湿り。

 「紙を介してしか、触れないことにしましょう。」

 綾の言葉は、可逆の誓いのように聞こえる。


 果歩は頷き、端紙の端を口に近づける。触れない。触れないまま、吐息だけを紙に渡す。渡された息が、膠の湿りをわずかに温める。温まりが、張力を変える。張力が、音なき合図を送る。

 綾も反対側から、触れない距離で息を送る。二つの息が薄紙の中ほどで出会い、紙の繊維のあいだに、見えない水路を作る。水路は、すぐに消える。消えるから、残る。


 「——愛している。」

 声は、紙に落とさない。紙の手前で止める。止めた声の輪郭だけが、膠の乾きかけに微細な震えを与える。震えは、誰にも読めない。彼女たちだけが読む。


 重ねた端紙を、剥がさない。剥がさない選択が、今夜の最小介入だ。

 綾は刷毛を置き、素手に戻す。手袋を外した指の腹を、空気に晒す。晒された皮膚の温度が、膠の温度よりわずかに低い。低さは、節度の単位。

 果歩はその指の方向だけを見て、頬の高さで止める。止めた場所に、綾の影が重なる。影は、触れない接触を実在に変える。

 「触れていないのに、残る。」

 果歩の言葉が、机の上で細く立つ。

 「残すために、触れない。」

 綾の答えは、結びだ。


 端紙の四辺を、二人で交互に撫でる。撫でるたび、繊維が呼吸し、呼吸のうちに合奏が起きる。拍は一致し、圧は置くだけで、重さは影に任せる。光は使わない。光は今夜、邪魔だ。


 長い黙礼ののち、綾が囁く。「句点は、紙に落とさない。」

 果歩は「はい」と答え、「はい」の後ろに句点を置かない。

 ふたりは端紙を寝かせたまま、膠が張りを育てきる前に灯りを落とす。育ちきる前——可逆の最後のふち。ふちに立って、戻らないことを選ぶ。


 仕舞い方に官能は宿る。


 片づけの手順は変えない。刷毛を洗い、毛先を整える。整える速さが、いつもより遅い。遅さは、今夜の礼儀だ。

 膠の蓋を閉める前に、綾は一瞬だけ躊躇し、閉める。閉める音が、薄い接吻に似る——紙を介しての。

 果歩は温湿度計に目をやり、数値をノートの隅に小さく写す。その横に、鉛筆で**「余白」とだけ記す。記して、消さない。消さないことが、今夜の記録**だ。


 棚の端に、和紙の切れ端が一枚、置かれている。昨日からの一枚多いの継承。誰が置いたのかは問わない。問わないことで、私秘が形を持つ。

 綾はそれを手に取り、果歩の視線の高さで一度止め、棚に戻す。戻す、という行為が、可逆をまだ装っている。装いが、優雅だ。


 「公開、どうだった?」


 綾の問いは、作業ではなく、体温の話に近い。


「元通りの顔、上手でした。」


 果歩が答える。


「顔、ではないわ。」

「面。」

「面。」


 ふたりの言い直しが、口内で和紙を湿らせるみたいに柔らかく進む。


 鍵をかける前、綾はもう一度だけ端紙を見に戻る。重ねた二枚は、わずかな貼りでまだ結ばれている。剥がせるけれど剥がさない。剥がさないで残す。残すことで、二人の皮膚の奥に、細い橋が架かる。橋は、紙でできていて、渡るたびに音が消える。


 扉の前で、果歩が振り向く。薄闇の中、綾の横顔。触れない高さの目線。


 「——先生。」


 呼ぶ声は乾いている。乾きは、張りだ。

 綾は小さく頷き、声を置かない。句点を紙に落とさないために。

 鍵が回り、金属の音がひとつ——落ちる。落ちた音が、床下に残る。残った音の上に、今夜の不可逆が静かに座る。


 路地に出ると、秋の湿気が二人の頬に触れ、止まる。止まった湿気は、紙に優しい。

 ふたりは並んで歩く。肩が触れない距離で、触れ続ける距離で。薄紙一枚をはさんだまま、ゆっくりと。

 彼女たちの内側で、今夜の端紙が、光らないで光る。記録ではなく、記憶として。

 ——可逆であるはずの手順は、二人には不可逆だった。

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