第2話 湿し
――〈…姉…〉
水から始める。
霧吹きの金具を締め直し、指先で一度だけ噴霧の角度を試す。細かな霧は、音というより粉になって落ちる。わたし——果歩は、湿箱の蓋を開け、和紙を四辺に貼った内側の静けさを覗きこむ。空の箱の空気は、まだ乾いている。乾きは軽い。軽さは油断に似ている。
綾さんは湯煎の鍋に水を張り、膠(にかわ)の小瓶をそっと沈めた。水面が微かに揺れ、温度計の針がゆっくりと上がる。甘い匂いは、まだ眠っている。匂いは目覚める前のほうが澄んでいる。
「最小介入、可逆性、記録。」
今夜も、綾さんは三語を置く。いつもの調子。わたしは復唱し、その三語の上に呼吸のリズムを乗せる。言葉が梯子になり、息が段に沿う。段は高すぎず、低すぎない。
作業台には、昨夜の写本。保護紙の白が静かに伏せている。下に眠るものに触る前に、まず周囲を整える。湿度計は四十七。もう少し、欲しい。湿箱の底に濡らしたフェルトを敷き、余分な水をぎゅっと絞る。指の間からこぼれた水滴が、金属の縁でひとつ跳ねて、止まる。
「霧は少なめに。繊維が起きるまで、待つ。」
綾さんが言う。待つ、ことが作業の大半だと知ってから、わたしは待ち時間の手の置き場を覚えた。置き場を間違えると、待ちは介入になる。
保護紙をめくる。白の下から、昨夜の白よりも白い余白が顔を出す。顔、と言いかけて、やめる。紙に擬人を与える癖は、手を甘やかす。甘やかされた手は、圧を見失う。
「かほ。」
「はい。」
「霧を一度。高く、遠く。」
「高く、遠く。」
霧吹きを肩の高さより上に持ち、写本から半歩離して、ひと吹き。霧は噴き出すというより、ほどける。ほどけた粒が空中で迷い、正気を取り戻すように紙へ落ちる。紙は受けとる。受けとるが、飲みすぎない。
耳を澄ます。微細な音が机の面で散り、吸い取り紙の端で止まる。止まる音は、濡れの輪郭を描く。輪郭は目ではなく、耳に現れる。
「もう一度。」
綾さんの声が、霧の筋道を指で示すように届く。わたしは同じ高さ、同じ距離で、もう一度。霧は二度目にかぎって落ち着きがよい。初めての粒が敷いた道を、二度目が迷いなく辿るからだ。
膠の瓶の中で、小さな塊がほどけはじめる。湯煎の温度計は静かに指す。数字は言い訳にならないが、証拠にはなる。甘い匂いが、ひとつ音を足す。匂いにも音があると知ったのは、ここに来てからだ。
「呼吸、合わせないで。」
綾さんが不意に言った。わたしは驚いて、自分の胸の上下に目をやる。
「合ってましたか。」
「ぴったり。」
「悪いことですか。」
「悪くはない。けれど、今は、あなたの呼吸で霧を決めて。」
「はい。」
合わせたい癖は、模倣の延長だ。模倣は学びの入口だけれど、出口にはならない。出口が遠い夜ほど、入口は居心地がいい。
和紙の束から、薄手を二枚取り、湿箱の中に寝かせる。箱の中の空気がわずかに重くなる。重さは安心と似ているが、油断と隣り合う。箱の縁に指を置き、温度ではなく「冷たさの質」を測る。質は記録できないが、記憶できる。
写本のページに、指で触れずに、霧の気配を近づける。紙の繊維が、ふっと立ち上がる瞬間は、目の端に現れる。中心で見ようとすると逃げる。目の端は、嘘をつきにくい。
「……起きました。」
「どのあたり。」
「下の三分の一、左に。」
「“左に”は、誰の左?」
わたしは息を止め、方向を言い換える。
「綴じ側の、手前。」
綾さんが頷く。頷きは、許可証だ。わたしは霧吹きを机に置き、乾いた刷毛で、立ち上がった繊維の根元を、空気ごと撫でる。撫でる速度は、繊維に決めさせる。速さを押しつけると、根元が拗ねる。
湯煎から膠の瓶を上げ、蓋を半分ずらす。立ちのぼる匂いが工房を巡る。甘い、と言うには粘りがあり、濃い、と言うには静かすぎる。匂いは感情を誘うが、感情に踏み込む前に止まる。止めておく。それが、膠の仕事だ。
「綾さん。」
「なに。」
「膠って、優しいですか。」
「優しいわ。乾くまでは。」
「乾いたら。」
「固くなる。固さは約束。」
約束、という言葉は、わたしにとってまだ抽象的だ。けれど、指で触れないまま、わかる気がする。膠の気配に、空気の粒が集まり、ほどける。
霧はもう十分。湿箱に写本のページを入れたい気持ちはあるが、今日はまだ箱に頼らない。頼る前に、頼らない範囲の見極めをする。最小介入。可逆性。
「角度、昨日の記録に一度戻して。」
「はい。」
ランプの首を少し起こし、昨日の数字に合わせる。わずかな変化で、世界はがらりと顔を変える。顔、という言葉をまた飲み込む。代わりに、面、と言い直す。面が、斜めに息をする。
そのときだった。斜光に、細い縦画がひとつ、起きた。昨日の「ひとすじ」ではない。形を持った、意志のある画。画と画が交わる場所は、まだ霧の向こうだが、縦画だけで、輪郭の一部が確かになる。
わたしは膝を折り、視線の高さを下げた。低く見ると、文字は立ち上がり、立体に近づく。わたしの呼吸が、勝手に綾さんの呼吸に寄っていく。近づけない、と決めたばかりなのに。息を戻す。自分の拍に戻す。
「見える?」
綾さんの声が耳の近くに落ちる。
「……見えます。」
「“みたい”じゃなくて?」
「見えます。」
自分で自分に言い切る。わたしの声が、紙に当たって、静かに跳ね返る。
縦画の上に、斜めの短い線が、浮いて——あと一息で交差する。その交差が、何の文字に変わるかは、まだ決めない。決めると、見えなくなる。見えたがるのは、見えないことへの恐れだ。恐れは霧を濃くし、紙を重くする。
霧の足跡を確認しながら、乾いた毛筆で空気を撫でる。わずかに、わずかに、線が濃くなる。濃くなるのは、湿りのせいではない。光のせいではない。待った時間のせいだ。
「——“姉”。」
綾さんが、ほとんど独り言のように言った。言葉は紙の上で完結し、わたしたちに触れない。触れないように言う技術を、綾さんは持っている。わたしは、その技術に近づきたいと思う。
「報告、する?」
そう続けようとして、綾さんは言葉を飲んだ。飲んだことが、わたしにはわかった。わたしたちは同時に、ドアのほうを向く。誰もいない。けれど、外界はいつでもここへやって来られる。
机端のスマートフォンが振動した。短いメールの着信。綾さんが画面に視線を落とし、必要最小限の皺だけ眉間に寄せる。
「研究者から。来週の中間確認、前倒しで“明日でも”可能か、だって。」
「明日……。」
「未定で返す。」
きっぱりと、しかし柔らかく言い、綾さんは簡潔な文面を打つ。送信音が、霧に落ちる小石のように短く響く。
わたしは紙面へ視線を戻す。「姉」の縦画は、先ほどより落ち着いている。落ち着きは、見つけられたことへの安堵か、見つけられたふりを続ける疲れか。紙の感情を想像してはいけない。想像は介入だ。
「記録は?」
わたしが尋ねる。綾さんは少し考え、首を横に小さく振る。
「まだ。ここで“姉”と読んでしまうと、読む以外の選択肢が消える。」
「はい。」
「今は、線。」
「線。」
復唱すると、言葉が落ち着く。言葉を置く場所と重さが、手の重さに連動する。手の重さは、霧の粒の大きさに連動する。わたしは霧吹きをもう一度持ち上げ、机の斜め上から、紙の手前で一度だけ吹く。粒がすばやくほどけ、紙へ降りる。
膠の瓶は湯煎から上がり、蓋の内側に薄い膜を作っている。膜は呼吸だ。呼吸は約束を保つためにある。約束は、可逆に似ているが、違う。可逆は戻れること、約束は戻らないための仕組み。わたしはそれを、頭ではなく、指の裏で理解しようとしている。
「湿箱、使う?」
綾さんが問う。わたしは箱の内側の空気を嗅ぐ。鼻の奥で、湿りの質が変わる。今の写本は箱の助けを欲しがっていない。欲しがっていないものを与えると、ありがた迷惑になる。
「今日は、まだ。」
「同意。」
ランプの角度をわずかに変える。影がまた別の顔を見せる。面。言い直す。面は、斜めの恩恵で、下層の痕跡を連れてくる。痕跡は「見たい」ではなく「見えてしまう」に近い。
「かほ。」
「はい。」
「あなたの呼吸、さっきよりいい。」
「自分のに戻しました。」
「それがいい。合わさるのは、作業が合奏に変わる時だけでいい。」
合奏。綾さんの口から出ると、言葉は音より先に意味を持つ。意味を持ちながら、音が遅れてくる。遅れてくる音は、ここでは味方だ。
机の端で、吸い取り紙の束がわずかにずれる。わたしは枚数を数え直す。指で弾くと、厚みが返事をする。——数え方を変えたわけでもないのに、記録と一枚だけ合わない。見間違いか。わたしは数字をノートに仮置きし、確定させない。確定は、時に消去だ。
「どうしたの。」
「ストックが……記録より一枚、多い気がして。」
「“気がして”は、今は有効。確かめるのは後。」
「はい。」
わたしは束を端に寄せ、視界から外す。今は、霧と線と、甘い匂い。
紙面に、微かな起毛が縫い目のように現れ、そこへ光が糸を通す。糸は実在しない。けれど、通っていく手応えはある。手応えは、言葉になる前の言葉。昨夜、綾さんがノートに書き、消したもの。
「“姉”になりたがってる。」
思わずそう言う。言いながら、舌の根に砂を噛む。綾さんは否定しない。ただ、霧の残りを確認し、瓶の蓋を閉め直す。
「報告は、まだ。紙がわたしたちの言葉に従う前に、紙の言い分を聞く。」
「はい。」
「それに、中間確認に“姉”は不要。」
「不要、ですか。」
「今は。」
今は。今、が長く続くことはない。続かないから、今は貴重になる。貴重さは、乱暴さを呼ぶ。乱暴を避けるには、手を遅くする。遅さは、ここでは礼儀だ。
霧の粒が机の木目に小さく集まり、時間とともに沈む。沈むものを、あえて見届ける。沈むのを見届けることは、介入にならない。見ないふりより、紙に優しい。
「今日は、ここまで。」
綾さんが言う。わたしは頷き、刷毛を洗い、霧吹きを空にしてから分解する。金具、ノズル、パッキン。小さな部品の輪郭が、湿りの薄い光を抱いている。部品を布に並べ、順番を記憶に写す。写す、という言葉を、ここでだけ、紙から離して使う。
保護紙をそっと戻し、四辺を指の背でならす。背の骨が、薄い紙の向こうで息をする。息は、約束。約束は、乾くまでの猶予。
「……“姉”のこと、口にしないでおきましょうか。」
わたしが言う。綾さんは「ええ」と短く応える。その短さが、わたしには救いだ。長くなると、言葉はふくらみ、重くなる。重い言葉は、紙に落ちる。
机上に、霧の残滓がまだ微かに光っている。光はやがて消える。消えるものを、消えるままにするのが一番難しい。難しさは、技術の入口だ。
「明日は“圧”に入れるかもしれない。」
綾さんが予定を置く。予定は未来の湿り気。湿る前に、乾かす。乾かしてから、重さを乗せる。順番を守ることは、敬意だ。
わたしたちは灯りを落とし、扉を閉める。鍵の音は一度。路地の気配が低く流れ、工房の中で静けさが二段に積もる。積もった静けさの表層に、わたしの思考がうっすら写る。写って、すぐに消える。
残された机の上で、霧の粒が、見えない速さで——沈む。
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