第19話 反論

「好きな人がいたら力ずくで奪えばよかったじゃない」

 彼女は怒っていた。

「言葉にしないと、何が言いたいのかわからないわよ。言葉にしても伝わらないことはあるけれどね。だからこそ、力尽くで奪えばよかったじゃないかしら。他者から、奪うこと。それはそれほど、悪いことかしら。本気で、私のことを好きでいたのなら、なんだってできたはずよ。でも、貴方は、なにもしなかった。この物語がハッピーエンドになるためには、貴方では難しい。貴方では、力不足、能力不足よ。非力過ぎて、誰も貴方のことなんて、見たくないわ。役者不足でさえなく、実力不足。明らかに、貴方は、私に恋をしている、――運命の女の子。貴方は、私に対してそう思っていて、それは、一生涯変わらない。でも、貴方は私になにもしない。薬にならなければ、毒にもならない。人畜無害で無色透明。それが、貴方ね」


 人畜無害。無色透明。いるのかいないのかわからない。そんな存在。それが、僕だ。

 そんな人間に、怒る人がいるなんて、驚きであったけれど。

 なんだか、嬉しかった。

 相手にされることが、あるなんて。それだけで、有り難いことだ。

 中学生の頃、僕は、運命の女の子が、いた。

 掲示板に絵を貼った。

 だけれど、彼女は、学校に登校することはなかった。

 僕がした善意は、無駄に終わった。

 結局、そういうことなのだ。

 彼女は、僕のことなんて、なんとも――

「運命の女の子」

 彼女は、バカにするように口角を上げてそう言った。

 怒ったような、調子も含まれていた。

「なら、なんで、私たち、こんなにのかしら」

 なにもない。

 なんの――関係もない。

 そうだ。

 僕と、彼女はなんの、関係もない。

 なら、なぜ、僕は、彼女を運命の女の子だと断定しているのだろうか。

 矛盾している。

 いや、矛盾を呑み込むしかない。

 そうでなくては、生きて、いけない。

 それが人生。人生なんだ。生きて、いかないと。

「生きていくために、生きている。理由はいらない。その過程で感じたり、考えたことが全て。だとしても貴方は、もっと器用に生きてよかったと思う。承認欲求を捨てろなんていう自己啓発本があるけれど、承認欲求は生存本能として、私たちに組み込まれたプログラムなのだから、それを道具として使いこなしてこそ、人が社会と共生して生きていくことなのだと思うわ。貴方が、彼女のことを――私のことを――好きで好きで好きで仕方ないとしても、貴方は、他のことに目を向けて、社会に目を向けて、人並みの幸せを手に入れればよかったのよ。時間が解決するってよくいうじゃない? あれって、言われた人からしたら、救いのない言葉よね。苦しければ苦しいほど、その時間がいつまで経っても過ぎていかないもの。楽しい時間は早いけれど、苦しい当人にとっては、あまりにも長過ぎる地獄を時間が解決するまで待てと言われているようなものだからね。貴方は、私と付き合えなくて、異性として、恋愛関係的に付き合えなくて、ずっとさみしい思いをしていたでしょう? でも、まあ、そんな時間も――貴方の恋患いも――時間が解決するわよ。なんてね」

 どんな悩みも――恋患いも――時間が解決する。

 なら、僕は、どうしたらよかったのだろう。

 運命の女の子と決めた、異性の記憶を。

 中学生の頃の記憶を。

 全て蔑ろにするなんて、できない。

 時間が解決するだって?

 そんなことができていたら、哲学哲子なんて空想の産物は生まれていない。

 時間が経てば経つほどに、彼女の存在感は膨れ上がって、僕の人生を蝕むかのように、支配する。

 初恋コンプレックス。

 初恋の憶い出が忘れられなくてそれが基準となり、次の恋愛に踏み込めなくなる症状。ネット環境により、付かず離れずの関係が続いたり、恋愛の多様化により、人と人は相容れなくなった。

 胸の奥から、冷たくなる。

 もう、次の恋なんて、ないだろう。

 そう思うほど、深刻な患いを抱えている。

 それが、僕なのだ。

 恋患いから、さらに酷い症状へと。

 理想が高いとか、低いとか、もはや問題にならないほどの、絶対的な憶い出ができてしまった。

「僕と、彼女は何の関係もなかった。ただ、一方的に恋をして、いた」

「もしかして、一方的だったと思い込んで、有り得たかもしれない未来を否定したいのかしら。本当に貴方は愚かね」


 *


 卒業式の二、三週間前。

 誰も教室に来ていない早朝。

 僕は、廊下にある掲示板に、絵を貼った。

 それはトーべ・ヤンソンのムーミンの絵だった。

 絵を描いて、切って両面テープで貼ったのだ。

 ミィとスナフキンと、ムーミンとスニフ。

 野原を歩いている様子を描いたものだ。

 教室の机の上にから窓を見た。

 紫色の雲が流れていた。

 なんで、僕は、こんなことをしているのだろう。

 わからなかった。

 こんなことをしても、意味がないのに。

 やがて、教室にちらほら生徒が登校した。

 僕は、挨拶もしないで、ひとりだった。

 彼女が、学校に登校してくるなんて、そんなことするわけないのに。

 僕は、無力だ。


 *


 誰も、知らない物語。

 それは、始まる前から終わっていた。

 いや、永遠に続いていた。

 恋なんて、始まる前から、終わっていた。

 裏切られることのない、世界。

 それを、信じて、いた。

 僕が、どれほど、彼女に尽くしてきたか、わからないけれど。

 これだけはいえる。

 僕は、やっと諦めることができた――有り得ないほどの関係の薄さで、果てしないほどの信頼関係と、絶望の淵で――やっと、全てを許すことができた。

 『人に期待をしてはいけない』。

 『人生に期待をしてはいけない』。

「僕は、やっぱり、彼女のことが、好きだった」

「それが――貴方よね。オダラデク。徒堕落木偶。木偶の坊。星形の扁平に、棒がくっついていて、糸が切れ切れに巻きついているだけの存在。始まる前から終わっていて、終わる前から始まっている。意味と矛盾の壁を通り越して、ひたすらに動き続ける存在。有り体にいえば、それは人間そのものかしら。ある意味で、人類代表。どこにでもいて、どこにもいない空気のような存在。生きることはできたかもしれないけれど、貴方は、死ぬことはできるのかしら? と心配される存在。いつまでも、昔の記憶から、抽出された世界に取り憑かれて、いつまで経っても死ぬことができないでいる。哀れな、男の子。無色透明すぎて、目に見えない恋。相手に、勘違いされる恋。いえ、ワンチャンあるかも、と勘違いする恋。一縷の望みが、貴方にとっての――運命の女の子との恋愛だったのよね。相手が、貴方のことをよくわからない、何を考えているかわからない存在だとしても。貴方は、彼女に尽くしたいと思っていた。それが、今は――」

 それ以上は――蛇足だろう。

 無駄の足。

 無駄話になってしまう。

「貴方は、私が好きなムーミンの絵を貼っていた。それから、貴方に電話した。卒業式が終わり、春休みになってから。その時の私はどうだったかしら」

「涙を流していた」

「そう。貴方がしたことを、誰かが教えたのかしら?」

「たぶん、そうだと思う。彼女が喜ぶと思って」

「私は、貴方に感謝していたわ」

「……」

「それだけよ」

 無人の教室で、哲学哲子は、言った。

 僕の初恋の彼女は、そう言った。

 ただ、窓の外に目を向けて、息を漏らすことしかできない。

「なんで、こんなことになっているのかな」

 あそこが、僕の人生の絶頂期だったのに。

 あれで、終われば、ハッピーエンドだったのに。

 こうして、僕は、またこの教室にいる。

 無人の教室。

 空想の産物。

 運命の女の子。

 有り得たかもしれない未来?

 そんなものは、求めていない。

 ただ、運命の女の子とこうしていたかった。

 それだけだったのかもしれない。なんの関係もないまま、僕と彼女は、一緒にいなかった。もしかしたら、誰だってよかったのではないか、と言われたい。そんな、痛々しくも、いたいけな、備忘録。

 あったのか、なかったのか、わからないけれど。

「私は、貴方のことは、忘れない」

 いい意味でも、悪い意味でも。

 そう言ってほしくて、僕は、哲学哲子を空想した。

 馬鹿みたいに、忘れられないまま。

 男の子は、初恋コンプレックスを引きずっている。

 痛々しくて、憶い出すたびにじゅくじゅく沁みる。

 彼女は、いつか、他の人と結婚して子供を産む。

 忘れたら楽になれるのに。僕の、せいで、君のせいで、僕は、忘れられないで、ずっとこの狭い部屋にいる。

 傷ついたまま。幼稚なまま。

 哲学をする。

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