八階の棺

東雲 千影

『八階の棺』 ―知っている、と言ってはいけない


 狭い病室に怒りが充満していた。


 原因は、病によって倒れた父の見舞いに来た、会社の上司を名乗る男のせいである。くたびれたスーツを着て、禿げかかった頭には鳥の巣のような髪が乗っかっている。


 子供だった私には彼が何を話していたのか判別はつかなかった。しかし、その語り口調から楽しい内容ではないことくらいは分かった。

 そして、母の苦虫を噛み潰したような顔と、祖母の露骨なまでの嫌悪の表情が、それを明白に物語っていた。


 今朝まで回復しかかっていた父の顔色は、入院し始めた頃の蒼白な色に戻っている。男をみる目も虚ろになっていた。


 三十分くらいだっただろうか、しばらくすると男は、それじゃまた会社でな、と言い残してパイプ椅子から腰を上げた。


 父はベッドに横になったままだったが、母と祖母は、エレベーターまでお見送りさせて頂きます、と言って私の手を取ってその男に続いた。


 その時、祖母は父のベッドの傍らに置いてあった車椅子を押してきた。

 緑色の背もたれと座面の上にはシーツのような白い布が巻かれている。


 古びた病院の廊下は暗かった。蛍光灯も幾つかきれているようだ。

 消毒液と薬品の臭いが漂っている。そしてその中に微かに腐敗臭が混じっているような気がした。


 車椅子は、祖母の歩調に合わせて、キリキリと奥歯を噛む歯軋りのような音を立てて進む。


 エレベーターホールのボタンを押すと、すぐに一つの扉が開いた。男は気だるそうに、右手を上げて、お大事に、とだけ言葉を放つと、エレベーターに乗り込んだ。


 閉まりかけたドアを母は手で止めて言った。


「すみませんが、この車椅子を一階の出口のところに返しておいて頂けませんか?」


 男は露骨に面倒くさそうな表情をしたが、あぁ、と言って了解した。


 祖母の手から男へと車椅子が引き渡される。

 そして、祖母は手渡す際、わざとらしく、貴方の名前は深井雄一さんでしたね、と言った。


 その時、私は車椅子の後ろ側から見た。


 車椅子に座る女の姿を。


 黒い髪と病院服の裾を風に揺らしながら、男と一緒にエレベーターへと乗り込んでいった。


 母と祖母には、見えていなかったのか、何事もなかったようにお辞儀をして、男を見送ると、そそくさと父の病室へ戻っていく。

 私は急に心細くなり、走って後を追いかけた。



 病室に戻ると、父がぐったりと横になっていた。


 今日はもう帰りましょう、と母は言うと、荷物をまとめ始める。



 私は、先程見た女の人が頭から離れなくなっていた。


 彼女を知っている。何処か懐かしく感じたあの首許が、強くそう感じさせたのだ。


 考えてみてもあれほど歳の離れた友達もいるはずもないし、学校の先生でも近所のお姉ちゃんでもない。


 誰だろう…。



 母は私の手を優しく握ると、その手を引いて再びエレベーターホールへと歩を進める。後ろから祖母も着いてくる。


 エレベーターの扉が開いた。

 薄暗い蛍光灯に照らされたそれはまるで棺のようだった。


 そっと乗り込んだ。


 私は…八階、…七階、…六階、とゆっくりと降下していく様子を、扉の小さな窓から覗いていた。


 と、その時ふいに思い出した。

 いや、思い出したというより、理解した。


 そして、小さかった私は思わず口を着いてしまった。


「あっ、あの女の人知ってる。」


 口にした瞬間、私の血は熱くなり、鼓動が早まった。



 ギィー、ギィギィー。


 エレベーターが止まった。


 静寂の中で、母と祖母は真っ白に血の気が引いて、瞳孔も口も開いた顔で私を見つめた。


 あぁ、口にしてはいけなかった…。

 口にすると彼女はあの男ではなく我々のもとに来るのだと悟った。


 ウー、という機械音とともにエレベーターが再び降下を始めた。


 階を示すボタンは不規則に点滅し、十何階分もの距離を下がっていく。


 通りすぎて行く全てのホールには、先程の女が立っていて、その様子が小さな窓から見えていた。


 笑っている…。


 母と祖母は、二人で必死になって何かを話していた。その内容が呪解の方法だということは察しが着いた。

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八階の棺 東雲 千影 @chikage_shinonome

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