【文化祭編】第12話 夕暮れに溶けた涙
帳が、ゆっくりと下りていく。
舞台と客席を隔てるその重厚なビロードの幕が完全に閉まりきった瞬間、俺たち2年3組の演劇「秋風のプレリュード」は、その奇跡のような上演を終えた。
一瞬の、静寂。
舞台袖も、そしておそらくは客席も、まるで時間が止まったかのように静まり返っていた。
そして、次の瞬間。
「「「うおおおおおおおおおお!!!!!」」」
「ブラボーーー!!!」
「最高だったぞー!!!」
体育館の屋根を吹き飛ばさんばかりの、割れんばかりの拍手喝采と歓声が、津波のように舞台裏へと押し寄せてきた。
「…やった…やったな、みんな…!」
誰かが、震える声でそう言った。それを合図に、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れ、舞台袖は爆発的な歓喜と、涙と、抱擁に包まれた。
「謙介!照明、最高のタイミングだったぞ!」
「遼こそ、音響完璧だったじゃねえか!」
「紗希ちゃん、記録お疲れ様!」
「快斗!お前がいなきゃ、この舞台は成り立たなかった!」
大道具係も、小道具係も、音響も、照明も、衣装も、メイクも…。キャストもスタッフも、役職の垣根なく、お互いの健闘を称え合い、涙でぐしゃぐしゃになりながら、肩を叩き合い、抱き合っている。この数週間、寝る間も惜しんで、たった一つの目標に向かって突き進んできた俺たちの努力が、今、最高の形で報われたのだ。
俺と加奈は、まだ舞台の中央で、その熱狂の渦の中心に立ち尽くしていた。鳴りやまない拍手の中、俺たちは、どちらからともなく顔を見合わせる。加奈の瞳には、美しい涙の膜が張り、その頬をキラキラと光る筋が伝っていた。
「…やったね、恒成」
「…ああ。やったな、加奈」
俺たちは、それ以上、言葉を交わす必要はなかった。
やがて、美玖先生が涙で目を真っ赤にしながら舞台袖に駆け込んできた。
「みんな…! 本当に、本当に素晴らしかったわ…! 先生、感動して、涙が止まらなかった…! 最高の舞台を、最高のクラスを、ありがとう!」
美玖先生は、そう言って俺たち一人一人を力強く抱きしめてくれた。
片付けが始まる喧騒の中、俺はふと、幸誠の姿を探した。彼は、舞台袖の隅で、一人静かに壁に寄りかかっていた。
「…幸誠。お前、なんであんなことしたんだよ」
俺が問い詰めると、幸誠はゆっくりと顔を上げた。その表情は、いつもと変わらずクールだったが、瞳の奥には確かな満足感が宿っているように見えた。
「…見ていられなかったんでな。監督の、あまりにも情けない顔が。それに、あの舞台の主人公は、どう考えても、最初からお前であるべきだと思ったからだ。俺の役目は、そこまでだった」
そのぶっきらぼうな言葉は、彼なりの最高の友情の証のように、俺の胸に響いた。
「わたくしも、斎藤さんのご意見に、心から賛成でしたのよ」
いつの間にか、隣には美沙希の姿があった。彼女はまだ少し顔色が優れないようだったが(病院から駆けつけたらしい)、その声は力強かった。
「最高の舞台にするためには、あれが最善の策でしたわ。…わたくしの代役を、あそこまで見事に務め上げてくださった加奈さんにも、そして、絶体絶命のピンチを救ってくださった雪村監督にも、心から感謝いたします」
そう言って、彼女は俺たちに向かって、優雅に、そして深く頭を下げた。幸誠と美沙希。二人の間には、もはや言葉はいらない、完璧な信頼関係が築かれているのが分かった。
その時だった。
「…栗谷くん、いるかな?」
舞台袖の入口から、少しだけ遠慮がちな、しかし透き通るような声がした。
佐々木美波先輩だ。
その声に、快斗の肩がびくりと大きく震えた。俺たちは、顔を見合わせ、気を利かせてそっとその場から離れる。体育館の隅、少しだけ薄暗い場所で、快斗と美波先輩は、二人きりで向き合っていた。
「先輩…! き、来てくれたんですね…!」
快斗の声は、喜びと緊張で上ずっている。
「うん。招待してくれて、ありがとう。今日の演劇、本当に、本当に素晴らしかった。感動したわ。特に、みんなでハプニングを乗り越えて、一つの作品を作り上げていく姿に、すごく胸が熱くなった。栗谷くんが、裏方として一生懸命頑張ってる姿も、ちゃんと見てたよ。すごく、かっこよかった」
美波先輩は、心からの賞賛を、優しい笑顔と共に快斗に送った。
快斗は、その言葉に感極まったのだろう。彼の瞳から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。そして、彼は震える声で、しかしはっきりと、自分の想いを伝えた。
「先輩っ! 俺、ずっと…高校に入ってから、ずっと、先輩のことが好きでした! 卒業してしまっても、ずっと憧れてました! 今日のこの舞台は、先輩に…先輩に見てほしくて、その一心で、頑張りました…!」
美波先輩は、驚いたように少しだけ目を見開いたが、すぐに快斗の言葉を、その真っ直ぐな想いを、真摯に受け止めた。そして、少しだけ悲しそうに、しかしどこまでも優しく、こう告げた。
「…ありがとう、栗谷くん。その気持ち、本当に、本当に嬉しい。…でも、ごめんなさい。私には、受験勉強であまり時間がないの。だから、あなたの気持ちには、応えられない」
快斗の、長くて、そして熱い恋が終わった瞬間だった。彼は、嗚咽を漏らし、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死でこらえているようだった。
それでも、彼は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げ、最後は笑顔で言った。
「…はい。分かってました。でも、ちゃんと言えて、よかったです。ありがとうございました…! 俺、先輩に追いつけるように、先輩の志望大学絶対に合格しますから!だから、先輩への想いと志望大学は同じでもいいですか?」
その言葉は、失恋の痛みを超えた、新たな決意の雄叫びだった。
「うん。応援してる。栗谷くんなら、きっとできるわ」
美波先輩も、涙を浮かべながら、最高の笑顔で快斗にエールを送った。それは、とても切なくて、でも、どこまでも美しい、青春の一ページの終わりだった。
舞台装置の片付けが進む、少しだけガランとした体育館の隅で、俺は加奈を呼び止めた。どうしても、聞かなければならないことがあったからだ。
「なあ、加奈。今日の最後のセリフ…『あの公園での出来事から』って、あれ、やっぱり脚本と違っただろ。どういう意味なんだよ」
加奈は、俺のその問いに、一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの不敵な笑みを浮かべた。
「えー? 何のことかなー? 私、夢中で演じてたから、アドリブで何を言ったか、あんまり覚えてないかも」
「とぼけるなよ〜!」
俺が真剣な眼差しで詰め寄ると、加奈は少しだけ観念したように、ふっと息を吐いた。
俺は、さらに一歩踏み込んだ。
「あのセリフどういう意味があったんだよ?
何か、意味が、あったんじゃないのか?」
その言葉に、加奈の脳裏に、遠い昔の、しかし決して色褪せることのない記憶が、鮮やかに蘇っていた。
―――
それは、小学2年生の、夏の日だった。
買ったばかりのお気に入りの、ひまわり柄のワンピースを着て、私は公園で友達と鬼ごっこをしていた。太陽がじりじりと照りつけ、汗が額を伝う。それが楽しくて、私は夢中になって走り回っていた。
その時だった。木の根に足を取られ、私は派手に転んでしまったのだ。
擦りむいた膝からは、じんわりと血が滲み、鋭い痛みが走る。新しいワンピースも、少しだけ汚れてしまった。驚きと、痛みと、悲しさで、私の瞳からは、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
周囲にいた友達は、どうしていいか分からず、遠巻きに私を見ているだけだった。
その時、一人の少年が、私の方に近づいてきた。
クラスは同じだけど、あまり話したことのない、いつも一人で本を読んでいるような、少しだけぶっきらぼうな顔をした男の子。雪村恒成くんだった。
彼は、何も言わずに、ポケットから出したばかりのような、真新しい、青いチェック柄のハンカチを取り出した。そして、近くの水道でそれを濡らすと、私の前にしゃがみ込み、血が滲む膝の傷に、そっと当ててくれたのだ。
ひんやりとした水の冷たさが、痛みを和らげてくれる。
「…これ、使えよ」
ぶっきらぼうに、彼はそう言った。その横顔は、少しだけ赤かった。
私は、涙でぐしゃぐしゃの顔で、ただ彼の顔をじっと見つめることしかできなかった。
でも、その不器用な優しさと、少し照れたような表情に、私の胸は、キュンと、今まで感じたことのない音を立てて高鳴ったのだ。
これが、西井加奈の、雪村恒成への、長くて、そして少しだけ厄介な、初恋の始まりの瞬間だった。
―――
目の前には、真剣な瞳で答えを待っている、あの頃と少しも変わらない、不器用で優しい恒成がいる。
「…さあ、どうだったかなー?」
加奈は、少しだけ寂しそうな、でも楽しそうな、とても複雑な笑みを浮かべた。
「ほらなんかありそうじゃないかー!」
「いや〜まだ教えてあげない。恒成が、あの時の私の気持ちを、状況を、ちゃーんと自分で思い出せるようになるまで、この答えは、お預け」
「なんだよそれ! ずるいぞ!」
俺は思わず叫ぶ。
「だって、その方が面白いじゃない?
…ねえ、主人公兼監督さん?」
加奈はそう言うと、俺の鼻の頭を、人差し指でつん、と優しく突いた。その仕草に、俺はまたしても心臓が跳ねる。
片付けもほとんど終わり、文化祭1日目は幕を閉じようとしていた。夕暮れの校舎には、心地よい疲労感と、祭りの後の少しだけ寂しい空気が流れている。
しかし、俺たちの文化祭はまだ終わらない。夜には、後夜祭が待っているのだ。キャンプファイヤーと、そして…フォークダンス。
恒成は、加奈にはぐらかされ、もどかしい気持ちを抱えつつも、彼女の言葉の裏にある、温かい何かを確かに感じ取っていた。快斗も、失恋の痛みを胸に、それでも友人たちと共に、しっかりと前を向いている。幸誠と美沙希は、お互いへの想いを確かなものにしたようだ。
1年3組の文化祭は、最高の形で、そしてそれぞれの想いを乗せて、夜のクライマックスへと続いていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます