【文化祭編】第11話 仮面だけど仮面ではない告白
斎藤幸誠が舞台から消えた。
「ドコイッタンダローナー」
「ツギシュジンコウノデバンダナ」
ヘッドセットからは、大道具係の謙介や照明係の遼たちのわざとらしい声が飛び交う。次の出番を待っていた他のキャストたちは屈託のない笑顔で立ち尽くし、監督である俺、雪村恒成も、頭を巨大なハンマーで殴られたような衝撃で、その場に立ち尽くしていた。幸誠が舞台袖に消える直前、俺にだけ見せたあの不敵な笑みの意味を、俺の脳はまだ理解することを拒んでいた。だがスタッフ全員がこれを予想していたかのような棒読みな緊迫感と顔面蒼白と言いつつ対して蒼白してないニヤニヤした顔が多くあった。泣き真似が上手いことだ。
舞台上では、西井加奈が、たった一人で、この絶望的な状況を支えていた。
「カイ…どこへ行ってしまったの…!? あなたがいないと、私の世界は、また闇に閉ざされてしまう…! お願い、戻ってきて…!」
それは、台本にはない、完全なアドリブだった。ヒロイン「アカリ」として、そしてこの舞台そのものを守ろうとする、彼女の魂からの叫び。その気迫に、ざわつき始めていた客席は再び静まり返り、固唾を飲んで舞台を見守っている。
だが、それも限界だ。次の主人公「カイ」の登場シーンまで、あと、三分もない。
「タイヘンダー 恒成 お前が監督だろ! ナニカシジシテクレナイトー」
謙介が、俺の肩を掴んで激しく揺さぶる。笑みが隠せていないな…
「お前しかいないんだよ、恒成! 脚本、全部頭に入ってるのは、加奈の他にはお前しかいないんだから!」
遼も、涙目で俺に詰め寄ってくる。超笑っているではないか…
というか俺しか、いない…?
馬鹿を言うな。俺が? あの舞台に立つ? 冗談じゃない。観客の前で、スポットライトを浴びて、加奈の隣で、演技なんてできるわけがない。足は震え、声は上ずり、頭は真っ白になるに決まっている。俺は監督だ。役者じゃない。
しかし、俺の脳裏に、この数週間、必死に準備してきたクラスメイトたちの顔が、走馬灯のように浮かんでは消えた。夜遅くまで残って大道具を作ってくれた謙介と遼。完璧な衣装を仕上げてくれた女子たち。自分の恋も懸けて、裏方で奔走してくれた快斗。そして、今、この瞬間に倒れてしまった、誰よりもこの舞台に情熱を注いでいた美沙希の、悔しそうな顔…。
そして何より、今、たった一人で、震える肩を必死で抑えながら、舞台の上で戦っている加奈の姿が、俺の目に焼き付いて離れなかった。
舞台上の加奈が、必死の形相で、舞台袖の俺に視線を送ってくる。その瞳は、潤んでいた。そして、はっきりと、こう訴えていた。
――恒成、助けて。
その瞬間、俺の中で何かが、ブツリと音を立てて切れた。
恐怖も、羞恥心も、自信のなさも、全てがどうでもよくなった。この舞台を、終わらせるわけにはいかない。加奈を、一人にさせるわけにはいかない。俺たちの文化祭を、こんな形で台無しになんて、させてたまるか。
「…分かった」
俺の口から、自分でも驚くほど、静かで、しかし確かな声が出た。
「俺が、やる」
その言葉に、絶望に沈んでいた舞台裏の空気が、一変した。
「恒成…!?」
「本気かよ、お前…!」
俺は、仲間たちの顔を見渡し、覚悟を決めた瞳で言った。わざとらしい反応をされた。
「謙介、主人公が劇中で使う、あのアンティークな仮面を持ってこい! 遼、俺のインカムを外して、幸誠の衣装を楽屋から! 急げ! 時間がない!」
それは、もう迷いのない、監督としての最後の指示だった。
嵐のような数分間だった。遼が持ってきた幸誠の衣装に、無理やり袖を通す。サイズは奇跡的に、ほぼ同じだった。謙介が持ってきた、顔の上半分を覆う銀色の仮面を、強く顔に押し当てる。心臓は、今にも破裂しそうなほど激しく脈打っていた。
舞台袖のギリギリまで来た時、そこに、息を切らした幸誠が待ち構えていた。
「雪村…すまん。無茶をさせた。あとみんなも付き合ってくれてありがとう」
「…お前、やっぱりわざとだったのかよ…」
「ああ。だが、お前ならできると信じてた。監督として、この物語を一番理解しているのはお前だ。そして…アカリを救えるのも、お前だけだ。…頼んだぞ、俺たちの主人公」
幸誠はそう言って、笑いながら俺の背中を、ドンと強く叩いた。その一押しが、俺に最後の勇気をくれた。
俺は一度だけ、強く頷き、そして、光の溢れる舞台へと、足を踏み出した。
仮面を被った、見慣れない主人公の登場。客席は、これを計算され尽くした演出だと思い込んだのだろう。どよめきと、期待に満ちた拍手が、体育館全体に響き渡った。
俺は、舞台の中央で、涙を浮かべて立ち尽くすヒロイン、アカリ――加奈と向き合った。加奈は、代役が俺だと分かってはいても、その気迫と、仮面の下から覗く真剣な眼差しに、息を呑んでいるのが分かった。
「…遅くなって、すまない」
俺の口から、主人公カイとしての、最初のセリフが絞り出された。声は、震えていなかっただろうか。
「…信じてた。あなたが、必ず来てくれるって…!」
加奈も、震える声で、しかし最高の演技で応える。
俺たちの、ぎこちないながらも、魂のこもった演技が始まった。監督として、何度も何度も読んだ脚本。セリフは、全て頭に入っている。加奈の次の動きも、次に言うべき言葉も、全て分かっている。俺はただ、俺自身が思い描いた最高の主人公「カイ」に、なるだけだった。
そして、物語はクライマックスの、最も感動的なシーンへ。
アカリが、時空の果てに消えようとしているカイに、泣きながら駆け寄り、その背中に抱きつく。
「行かないで! 私を一人にしないで!」
加奈の体温と、震える声が、衣装越しに俺に伝わってくる。
その瞬間だった。
加奈が俺に強く抱きついた拍子に、彼女がつけていた繊細な髪飾りの一部が、俺の仮面の縁に引っかかってしまったのだ。
「あっ…!」
加奈の小さな声。そして、俺の顔を覆っていた銀色の仮面が、スローモーションのように、カラン、と乾いた音を立てて、スポットライトが照らす舞台の床に落ちた。
静寂。
一瞬、体育館全体が、時が止まったかのように静まり返った。
スポットライトの下、俺の素顔が、無防備に晒される。
加奈の瞳が、驚きに見開かれる。目の前の主人公が、仮面の下の存在が、本当に、紛れもなく、雪村恒成であるという事実を、彼女は今、突きつけられたのだ。
そして、次の瞬間、加奈の白い頬が、みるみるうちに、熟した林檎のように真っ赤に染まっていく。その瞳は潤み、長いまつ毛が震え、言葉を失って、ただ俺の顔を見つめている。
客席から、どよめきが起こる。「え!?」「監督じゃん!」「どういうこと!?」
しかし、その騒めきは、すぐに別の種類の感情に変わった。舞台上の加奈の、あまりにもリアルな、あまりにも切実な表情。それは、恋する少女が、愛しい人の前で見せる、どうしようもなく純粋な反応そのものだったからだ。
「…すごい…」「あれ、演技なの…?」「神がかった演技だ…」
客席は、このハプニングを、最高の演出だと勘違いし、息をのんで二人を見守っている。
俺も一瞬、頭が真っ白になった。だが、監督として、この物語を誰よりも理解している俺は、この絶体絶命のピンチを、最高のチャンスに変えるための、たった一つの言葉を知っていた。
俺は、加奈の肩を掴み、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ、魂を込めて叫んだ。
「そうだ…これが俺の本当の姿だ! お前を想うあまり、偽りの仮面など、もうつけてはいられない! これが、お前を愛してしまった、俺の本当の心なんだ!」
それは、脚本にはない、俺自身の、魂からのアドリブだった。
その言葉に、加奈もハッと我に返り、女優としてのスイッチが再び入った。彼女は、潤んだ瞳のまま、しかし力強く頷く。
そして、物語の最後のセリフ。
加奈は、溢れる涙をそのままに、俺の瞳を、俺の心の奥底まで見透かすように、真っ直ぐに見つめて言った。
「私たちは、あの頃からずっと運命だったのです。あの、公園での出来事から…!」
その言葉を最後に、舞台は暗転。緞帳が、ゆっくりと下りていく。
一瞬の静寂の後、体育館は、割れんばかりの、そして鳴りやまない拍手喝采に包まれた。
舞台袖では、キャストもスタッフも、皆が皆、涙を流しながら抱き合っていた。
俺と加奈は、二人、まだ舞台の中央で立ち尽くしたまま、お互いの顔を、ただただ見つめ合っていた。鳴りやまない拍手の中、俺たちのための発表が、今、最高の形で終わりを告げた。
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