【文化祭編】第10話 必要な勇気
開演を告げるブザーが鳴り止み、体育館は水を打ったような静寂と、期待に満ちた濃密な暗闇に包まれた。緞帳の向こう側からは、満員の観客たちの息遣いと、パンフレットをめくる微かな衣擦れの音だけが聞こえてくる。舞台袖にいる俺たち1年3組のキャストとスタッフは、誰もが固唾を飲んで、その瞬間を待っていた。ヒロインの電撃交代という、演劇としては致命的ともいえるアクシデント。だが、今の俺たちの心にあるのは、絶望ではなく、不思議な高揚感と、絶対にこの舞台を成功させてやるという、燃えるような闘志だった。
監督席に座る俺、雪村恒成の心臓は、まるで警鐘のように激しく鳴り響いている。だが、その瞳は鋭く、これから始まる自分たちの物語の始まりを、一点の曇りもなく見据えていた。
やがて、俺が選んだ幻想的で少し切ないオープニングテーマが、静かに流れ始める。それは、時を超えて惹かれ合う主人公とヒロインの運命を暗示するかのような、美しいピアノの旋律。ゆっくりと、緞帳が上がり始めた。
スポットライトに照らし出されたステージには、物語の始まりを告げる質素な部屋のセット。最初に登場するのは、主人公の親友役と、ヒロインの親友役の二人の安定した演技が、観客を自然と物語の世界へと誘っていく。
客席からは、まだ少しだけ戸惑いの空気が感じられた。パンフレットに記載されているヒロイン役は、西条美沙希。しかし、彼女が今朝、体調不良で出演できなくなったというアナウンスは、開演直前にかろうじて行われただけだ。代役は、西井加奈。クラスメイトや事情を知る者以外にとっては、まさに寝耳に水だろう。
そして、その時は来た。
「お兄ちゃん! いつまで部屋に閉じこもってるの! 今日は、街で百年ぶりの流星群が見られる日なんだよ!」
快活で、太陽のような明るさを持つ声。その声が響いた瞬間、舞台袖の空気が変わった。登場したのは、西井加奈だ。
客席から、小さな、しかし確かなざわめきが起こる。ヒロインが美沙希ではないことへの驚きと、そして、代役として現れた加奈の、圧倒的な存在感に対する驚き。
彼女は、もはや俺の知っている「西井加奈」ではなかった。堂々とした立ち振る舞い、指先の動き一つ一つにまで込められた感情、そして、透き通るように、しかし体育館の隅々まで響き渡る声。彼女は、脚本家としてこの物語を誰よりも深く理解し、そして、親友である美沙希の想いを一身に背負い、完全に物語のヒロイン、時を超えて愛する人を探し求める健気で、しかし芯の強い少女「アカリ」になりきっていた。
俺は、監督という立場も忘れ、ただただ、その姿に心を奪われていた。
(これが…俺の知ってる加奈、なのか…? いつも俺をからかって、楽しそうに笑っている、あの加奈と、同じ人間なのか…? まるで、別人みたいだ…でも、すごく…綺麗だ)
舞台裏のスタッフたちも、加奈の完璧な演技に驚きを隠せない様子だった。
「おい、西井さん、すげえな…」
「うん、美沙希ちゃんとはまた違う魅力があるよね…!」
謙介や遼たちが、ヘッドセット越しに感嘆の声を漏らす。俺も、同じ気持ちだった。美沙希のヒロインが、月の光のような、儚げで神秘的な美しさを持っていたとすれば、加奈のヒロインは、太陽のように明るく、周囲を照らし、そしてどんな困難にも立ち向かっていくような、生命力に満ち溢れていた。
そして、もう一人の主役、斎藤幸誠。彼は、ヒロイン交代という最大のハプニングにも動じることなく、いや、むしろその逆境を力に変えて、主人公「カイ」という役を完璧に演じていた。相手役が美沙希から加奈に変わったことによる戸惑いや動揺を、彼は逆に、運命の相手と出会ってしまった主人公の「心の揺らぎ」という演技に昇華させている。加奈も、その幸誠の魂の演技に、完璧に応えてみせる。二人のセリフの応酬は、まるで真剣勝負のようでありながら、どこか甘く、そして切ない。その魂のぶつかり合いに、観客は完全に引き込まれていくのが、舞台袖にいる俺にもひしひしと伝わってきた。
舞台裏では、俺たちスタッフも戦っていた。
「照明、次のシーン、加奈のソロショットだから、もう少しだけ暖色系のライトを足して、彼女の心情の温かさを表現してくれ!」
「音響、主人公が過去を思い出すシーンの効果音、タイミングばっちりだった! その調子で頼む!」
俺は、ヘッドセットを通じて、各セクションに的確な指示を飛ばす。謙介や遼、そして他のスタッフたちも、俺の意図を完璧に汲み取り、最高の仕事で応えてくれる。この一体感、この高揚感。監督という仕事は、なんてプレッシャーで、そして、なんて楽しいんだ。
そんな中、制作進行として舞台袖を走り回っていた快斗が、ふと客席に目をやった。すると、大勢の観客の中に、ひときわ輝いて見える女性の姿が、彼の目に飛び込んできた。間違いない、佐々木美波先輩だ。
先輩が、来てくれた。自分たちの舞台を、真剣な眼差しで、見てくれている。
その事実に、快斗の胸は、喜びと感謝でいっぱいになった。涙が溢れそうになるのを必死でこらえ、彼は「最高の舞台を届けるんだ。先輩に、そして、観に来てくれた全ての人に」と、改めて自分に強く誓った。その横顔は、いつになく凛々しく、そして頼もしく見えた。
物語は中盤へ。時を超えて出会った主人公とヒロインの心の距離が、少しずつ近づいていく、物語の中でも特に重要なシーンが続く。
主人公が、ヒロインへの抑えきれない想いを、初めて吐露する場面。スポットライトを浴びた加奈の表情は、喜びと、不安と、そして秘めた恋心がないまぜになった、えもいわれぬほど美しいものだった。潤んだ瞳、微かに震える唇、そして主人公を見つめる熱っぽい眼差し。その姿は、観客だけでなく、舞台袖で見守る俺の心にも、深く、そして鮮烈に焼き付いた。
(加奈…お前、そんな顔も、するんだな…)
俺は、自分の知らない加奈の姿に、胸が締め付けられるような、甘く切ない痛みを感じていた。
演劇は、観客の予想を遥かに超えるクオリティで、クライマックスへと向かっていく。ヒロイン交代というアクシデントを感じさせない、いや、むしろそのハプニングが奇跡的な化学反応を生み出し、舞台全体の熱量を極限まで高めている。舞台袖の誰もが、この舞台の成功を確信し始めていた。俺も、この奇跡的な舞台の完成度に、監督としての言葉にできないほどの達成感を感じていた。
そして、物語はついにクライマックス。時空の歪みによって、再び引き裂かれようとしているヒロインを救うため、主人公が決意を固め、時空ゲートへと飛び込もうとする、最も重要なシーン。
幸誠が舞台中央に進み出て、力強く、そして悲痛な叫びを上げようとした、その瞬間――。
「ぐっ…!」
幸誠が、突然、苦悶の声を上げ、腹を押さえてその場によろめいた。
客席から「え?」という戸惑いの声が上がる。舞台上の加奈も、台本にはない突然の出来事に、驚きに目を見開いている。
幸誠は、観客と、そして舞台袖で呆然とする俺にだけ分かるように、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。その瞳は、まるで「ここからは、お前の出番だぜ、監督さん」と語っているかのようだった。
そして、幸誠は叫んだ。
「すまない…! 過去の時空跳躍の反動が、今ここに…! だが、彼女を救えるのは、俺だけじゃないはずだ! …あとは、頼んだぞ…!」
それは、完璧なアドリブだった。そして、彼はその言葉を残し、まるで嵐のように、舞台袖へと走り去ってしまったのだ。
主人公、まさかの舞台放棄!?
体育館全体が、騒然となる。
次の主人公登場シーンまで、あとわずか、三分もない。
最大のピンチが、いや、悪夢が、再び俺たち2年3組を襲う。
物語は、誰も予想しなかった、さらなる波乱の展開へと、突き進んでいく。
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